新型コロナウイルスがどう広がるか、西浦博さんはデータ分析で闘ってきた。感染リスクを減らす対策は、経済に打撃を与える。専門家にしか言えないからと、「接触8割削減」を標榜する「8割おじさん」にもなり、42万人が死亡する被害想定も発表した。今は、徐々にデータも集まり、コロナの制御のめども立ってきた。第3波から命を守るために、エビデンスを積み上げる。
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新型コロナウイルスは、いま、どこで誰の体内に侵入しているのか。感染はどう広がり、いつピークがくるのか。誰もが痛切にそれを知りたがる。感染の動きが把握できれば、医療機関は重症者用のICU(集中治療室)や人工呼吸器などの量、導入のタイミングが読める。
だが、見えない感染をビビッドにとらえる指標は、西浦博(42)が表舞台に立つまで日本にはなかった。被害想定すら示されてこなかったのである。
2020年2月、西浦は北海道大学の研究室を出て上京し、厚生労働省で数理モデルを使ったデータ分析に着手した。横浜港に入ったクルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号で集団感染が起きていた。船内でのPCR検査で陰性になり、14日間発症しなかった乗客を下船させた場合のリスク評価を求められる。厚労省内は国内に感染が広がるのではないかと緊張感がみなぎっていた。
「何人発症する可能性があるんだい」と厚労大臣の加藤勝信(64)が真顔で訊く(肩書は当時、以下同)。「この方法だと10人ぐらい発症します」と西浦は答えた。実際に下船後、発症した患者は9人だった。厚労幹部は数理モデルの確かさに「ほーっ」と溜め息をつく。
2月下旬、省内にクラスター対策班が発足し、西浦にデータ解析が託され、北大の研究員10人が合流した。中国の感染データをもとに西浦は日本の流行ピークを4月と見通す。3月に入り「人と人の接触8割削減」を唱え、被害想定も行う。
ほどなく数字をめぐる政府とのせめぎ合いが始まった。欧州ではコロナが猛威を振るい、重症者が人工呼吸器もつけられないまま次々に斃れている。西浦は基本再生産数(1人の患者が平均して直接感染させる人数)を欧州並みの「2・5」とし、8割削減のシミュレーション資料を政府の諮問会議に出した。ところが、知らぬまに「2・0」と感染力を低く見積もった数値に書き換えられていた。「この試算が表に出たら自分のものではないと公言しよう」と覚悟を決める。経済的打撃を嫌う政治家は「6割でどうだ」「だめなら7割では」と値切ってきた。西浦は突っぱねる。
■ストレスから体重増加 妻がそっとウェアを送る
4月7日、首相の安倍晋三(65)は緊急事態宣言を出す会見で、「最低7割、極力8割削減」と幅をもたせた。西浦は「あくまで8割。すぐに休業補償をしてハイリスクの場所を閉じてください」と主張する。「8割おじさん」の誕生である。
日本中の街から人影が消え、経済は真っ逆さまに落ち込んでいった。
4月15日、西浦は記者意見交換会で「まったく感染対策をしなかったら、約85万人が重症化し、その約半分(約42万人)が死亡する」という被害想定を発表した。即座に激しいバッシングが起きる。
「国民への脅し、扇動」「現実離れした数理モデルは根拠が乏しい」「発言の責任をとれるのか」。官房長官の菅義偉(71)は「推定死者数は、政府としては公表していない」と火消しに走る。厚労省の説明によれば、非公表の理由は国民が推定値に怯え、パニックになるからだという。接触8割削減の方針は「過大な制限」と集中砲火を浴びた。政策決定したのは政府なのだが……。ついには「脅迫状」が大学に送りつけられる。
札幌の自宅で、妻で医師の知子(45)はテレビに映った夫を見て、「まずいな。相当ストレスをためている」と気をもんだ。そして、洗濯した着替えを送る宅配便の箱にそっとジョギングウェアを入れた。体は正直だ。西浦は、医大生時代、体脂肪率を10%以下に保ち、トライアスロンのアイアンマンレースに何度も出場している。卒業後はマラソンに切り替えた。今年1月に出場したハーフマラソンは2時間少々で完走した。毎日、自宅から北大まで10キロのランニング、もしくは昼休み1時間のバイク漕ぎで体調を整える。体重は92~93キロをキープしていた。しかし厚労省庁舎と新橋のホテルを往復する日々である。「ストレスがたまると食べる」ことを知子は知っている。シャツのボタンは、いまにもはちきれそうだった。
5月上旬、1日の新規感染者数は全国合計で二ケタに減り、8割削減の効果が表れる。西浦は、妻の「走って」という無言のメッセージを受け、皇居周回コースに出た。相変わらず、批判的なメディアもあれば、ツイッターに「#西浦寝ろ」のハッシュタグができて応援メッセージも寄せられる。西浦の予測を参考に重症者用ベッドと医療従事者を確保し、病院の医療崩壊を食いとめた医師からは、「ありがとう。今回ばかりは自分が殉職するかと思った。助かったよ」と感謝された。
感染症の数理モデルの開拓者は、賛否の強い風を受けながら皇居の周りを黙々と走った。
専門家集団のリーダーで、地域医療機能推進機構理事長の尾身茂(71)は西浦の存在感をこう語る。
「感染症は、とくに流行初期はわからないことばかりです。感染がどう起きて広がるかは、いわば神のみぞ知るところ。そこに近づくための大切な視点を西浦さんは提供し、貢献しています。ただ仮定の数値の置き方次第で結果は違う。絶対視はできません。そもそも感染症対策は、疫学情報だけで白黒つけられるものではない。人びとの行動変容や経済、社会のありようも関係します。その複雑さに耐えて判断していくしかないのです」
西浦本人が、批判された被害想定をふり返る。
「42万人死亡の被害想定には、対策を立ててハイリスクの接触が減れば、数は大幅に下がる、がんばりましょうという励ましも添えるべきでした。伝え方の反省はあります。ただ、科学的なコミュニケーションで被害想定を公表しない国はありません。政府は上から専制的に制約を人びとに課すのではなく、リスク・インフォームド・デシジョン(リスクに基づく決断)に乗りだしてほしい。それで数字を発表したのです」
接触8割削減については「あの緊急事態で日本は法的にロックダウン(都市封鎖)できなかった。スローガンを作って流行制御するしかない。専門家で僕しかその評価はできないのだから踏み込んだのです」。どちらも「まったく後悔していません」と西浦は言い切った。
(文・山岡淳一郎)
※AERA2020年9月28日号から抜粋
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