「立皇嗣の礼」で秋篠宮さまが皇嗣となったことが内外に示された。父や兄とは違う立場ゆえ率直な言葉で語り、行動してきた秋篠宮さま。そのマインドは皇嗣になっても、貫かれる。AERA 2020年11月23日号から。
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「立皇嗣の礼」が開かれる前日の11月7日、ニュース番組で「立太子の礼」を見た。1991年2月、31歳になった天皇陛下が若々しい声で、「皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くして、その務めを果たして参ります」と宣言していた。
それから約30年、秋篠宮さまは「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と、落ち着いた声で宣言した。同月30日に55歳の誕生日を迎える秋篠宮さまは、どんな思いで儀式に臨んだのだろう。
「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の座長代理を務めた御厨貴(みくりやたかし)さん(東京大学先端科学技術研究センターフェロー)は10月末、朝日新聞のインタビューに答えていた。そこで明かしたのが、秋篠宮さまの呼称についての経緯。「皇太子」となる可能性もあったが、秋篠宮さまは「皇太子の称号を望んでおられない」との意向が政府高官から説明され、「皇嗣」に落ち着いたという。
■国民目線の責任感
御厨さんは、「秋篠宮さまの真意は今もわからない」と言っていた。が、僭越(せんえつ)ながら「いかにも秋篠宮さまらしいなあ」と思った。秋篠宮さまの「次男マインド」がよく表れていると思ったのだ。
「天皇家の次男」として生まれた秋篠宮さまは、「いずれ天皇になる」兄との立場の違いを自覚、考え抜いた方だと思う。その上で、「次男」として行動することこそ自分の役割と思い定めている。そう拝察している。
上皇陛下の生前退位により、兄と同じ「皇位継承順位第1位」になる。「長男」の任務を背負ってからも、次男マインドは守りたい。その気持ちの表れが「皇太子の称号を望んでおられない」だったように思えた。
秋篠宮さまの発言から感じるのは、「国民目線」だ。皇室が国民と共にあること、税金で運営されているということ。その二つを強く意識していると思う。例えば2009年、44歳の誕生日を迎えるにあたっての記者会見で、皇位の安定的継承が難しくなりつつある現状について尋ねられ、こう答えた。
「皇族の数が今後減るということについてですけれども、(略)国費負担という点から見ますと、皇族の数が少ないというのは、私は決して悪いことではないというふうに思います」
18年、53歳の誕生日を前にした会見では、翌年に控えた大嘗祭(だいじょうさい)について「宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています」と述べた。身の丈にあった儀式にするのが本来の姿だと思うし、そのことは宮内庁長官らにも言ったのだが、「残念ながら、話を聞く耳を持たなかった」と続けた。
ノンフィクション作家の保阪正康さんは、「秋篠宮の言葉は、いわゆる天皇家の言葉とは違う」と書いていた(写真集「秋篠宮家25年のあゆみ」)。天皇家の言葉とは「聞き手が解釈の責任を負う」言葉で、それは責任逃れのためでなく、責任そのものから距離を置くためだ、と。だが、「秋篠宮は天皇家の言葉をほとんど使わない。むしろ国民に対し、率直な発言を続けている」。
この「天皇家の言葉とは違う」という一文は、「行動」に置き換えることもできると思う。秋篠宮さま、そして秋篠宮家の行動の特徴は「スピード感」だ。「責任そのものから距離を置く」のが天皇家だとすると、それはやはり特異なもの。だが、新型コロナウイルス禍でも変わらず発揮された。
■若い行動力が持ち味
まだ緊急事態宣言が解除されていない5月15日、秋篠宮さまご一家と宮内庁職員が手作りした医療用ガウン100着が恩賜財団済生会に届けられた。22日には200着。同会総裁の秋篠宮さまがご家族とオンラインで理事長らから話を聞き、ガウンをごみ袋から作っていると知ったのが11日。4日後には、もう100着を届けている。
11年、東日本大震災でもそうだった。那須御用邸の風呂を被災者に開放すると宮内庁が決め、タオルの袋詰め作業を会議室でしていた3月24日。マスク姿の紀子さま、眞子さま、佳子さまがいつの間にか、そこで作業をしていた。元朝日新聞編集委員の岩井克己さんはこのことを「発表せず、報道もされない“隠密”行動だった」と紹介し、「ボランティアや市民活動家のような若い行動力が秋篠宮家の持ち味だ」と書いていた。
もちろん「天皇家の心」は、被災者、医療従事者と共にある。だが、それを素早く形にするのは、「次男」だからこそだと思う。絶対に守るべき天皇の「尊厳」が、素早さのブレーキになるのだと想像する。
■皇嗣だからできること
それにしても、秋篠宮さまの今は、国民の今だ。その立場を直接的に変えたのは「生前退位」だが、複雑化の始まりは06年、長男悠仁さまの誕生だったと思う。皇室にとって41年ぶりの男子という慶事は、「次男家に生まれた将来の天皇」という構図となり、一部メディアが紀子さまバッシングを始めた。「生前退位」は高齢化社会を、「41年ぶりの男子」は少子化社会を映す。
そしてコロナという厄災で立皇嗣の礼が7カ月延期されたことも、思えば秋篠宮さまらしい。誰もが苦しんでいるコロナ禍は、皇室も例外でない。そのことを端的に示した格好だ。
そして今、皇室と国民の距離を遠ざけているのがコロナだ。国民との触れ合いが敬愛へとなった「平成流」が通じない。この状況は、まだしばらく続くだろう。令和の皇室の、正念場だと思う。
「天皇家の言葉とは違う」皇嗣だからできることがある。たぶん秋篠宮さまは、もう動きだしているはずだ。(コラムニスト・矢部万紀子)
※AERA 2020年11月23日号
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