昨年来のコロナ禍で旅行業界は大打撃を受けた。そんな逆風の中で、ガイドブック『地球の歩き方』東京版が首都圏在住者を中心に反響を呼んでいる。2021年2月22日号では、『地球の歩き方』担当編集者らに東京版大ヒットの理由を取材した。
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海外を放浪した学生時代。旅先で出会う若い日本人は必ずといってよいほど黄色の表紙の分厚い本をバックパックにしのばせていた。ボロボロになるまで読み込んだかつての旅の相棒は、まだ何者でもなかった自分の分身のように愛おしい。何十年たった今も手放せず、大事に書棚に保管している。そんな『地球の歩き方』フリークたちの心をくすぐる新版がコロナ禍の今、注目を集めている。
シリーズ初となる国内版「東京 2021~22」(512ページ、税込み2020円)だ。昨年9月の発刊以来、都内の大型書店のベストセラーランキングに連続して上位入りし、発行部数8万部を超えるヒットを続けている。
■読者の9割が首都圏
担当編集者の斉藤麻理さん(35)は「読者は『地球の歩き方』の海外版のファン層が中心です。意外だったのは読者の6割が都内在住で、神奈川、千葉、埼玉を含む首都圏で9割を占めていることです」と話す。
「東京版」は、19年が『地球の歩き方』の創刊40周年に当たることから初企画にトライしようと考えたのがきっかけ。20年の東京五輪・パラリンピックを控え、東京への関心が盛り上がることを見越して宮田崇編集長が19年春に発案した。
このため当初想定していた読者層は、東京に観光などで訪れる全国の人たち。つまり、東京以外の地方在住の読者を見込んでいた。
そこに立ちはだかったのが新型コロナの感染拡大だ。斉藤さんは「コロナは完全に想定外だった」と打ち明ける。
もともと五輪開催直前の20年6月の刊行を予定し、19年中に取材をほぼ終えていた。しかし、編集作業の大詰めを迎えた20年春は緊急事態宣言と重なり、取材先と連絡が取れなくなって原稿確認作業が滞ったり、五輪特集や飲み屋街のコーナーを断念したりする事態に。発刊は3カ月遅れの9月にずれ込んだ。
「五輪が延期されたのに加え、発刊時は『GoToトラベルキャンペーン』が展開中でしたが東京は除外。東京に旅行するなんてとんでもないというムードの中、最悪の船出といってよい状況でした」(斉藤さん)
逆風と暗雲が立ち込める中、半ば開き直る思いで刊行したのが実情だという。
「編集部としては取材しちゃったし、つくっちゃったから40周年の記念としてとにかく発刊しようと。そうしたら意外にも東京の人が多く買ってくれたんです」(同)
リアル書店で最も売れているのが東京駅近くの「丸善」丸の内本店だ。和書担当の書店員、宗形康紀さん(36)は「ガイドブックの中では異例中の異例の売り上げ」と太鼓判を押す。
■ステイホームも後押し
発売後3カ月間だけで、同店で最も売れたガイドブックの年間売り上げの約3倍を記録した。昨年12月に同店がオンラインイベントを主催した際の参加者も、都内と近隣県在住者で8割を占めたという。ヒットの要因について宗形さんはこう分析する。
「地球の歩き方が吟味した情報に対する信頼性は多くの人が共有しているはずです。でも、きっと中身は面白いんだろうなとは思っても購入に踏み切るにはハードルがあります。そのハードルを越えるのにコロナ禍で遠出を控えたり、家にいる時間が長かったりする状況が後押しした面は大きかったと思います」
一方、前出の斉藤さんは「身近だけど知らなかった情報に触れたいと考える人たちに刺さったのかな。コロナ禍だからというのではなく、以前からそういうニーズがあったのかもしれません」と見る。
灯台下暗し、なのか。海外はもちろん、国内旅行も控えざるを得ないコロナ禍も相まって、首都圏で暮らす人たちが足元の再発見を期待して買い求めているのが実態のようだ。
■江戸から地続きの東京
とはいえ、東京に関する情報はメディアにあふれている。しかも多くは、スマホなどで手軽に仕入れることができる。そんな中、2020円の分厚いガイド本がヒットしている理由は、その内容抜きには語れない。
編集部が基本コンセプトに据えたのは、「地球の歩き方らしさを崩さない」ことと、「最新スポットにこだわらない」の2点だった。
目まぐるしく変わる東京のトレンドや最新スポットの紹介で勝負しても他メディアには勝てない。それならば、と選んだ切り口の一つが「江戸から地続きの東京」だ。江戸切子や江戸藍染めといった伝統工芸体験のほか、文豪が通った老舗の名店の味やパワースポットの紹介など、江戸・東京の歴史や文化を網羅的に学べる構成になっている。斉藤さんは言う。
「インターネットだと自分が調べようと思った検索ワードの範囲の情報にしかアプローチできませんが、自分の興味の範囲外だった思わぬ情報に出合えるのが本書の醍醐味です。ディープな情報は教養の蓄えにもなると思います」
例えば、「歴史と文化」の章では歌舞伎や能楽、大相撲などの観覧の楽しみ方を初心者向けに解説。コラム欄には「江戸文字」に関する豆知識も。
取材は海外版で執筆経験のある20~50代の首都圏在住のライター7人が担当した。
「東京に詳しいエキスパートが集まったというよりは、地球の歩き方のエキスパートが集まって構成したという感じです」(斉藤さん)
エリアごとに街の情景を丹念に描写し、一緒に街歩きをしているような気分を味わえる筆致や、地名の由来や街の成り立ちを詳しく紹介するのも、『地球の歩き方』シリーズならではの特色だ。
■事業譲渡後も「増刷」
ファンをくすぐるのが、シリーズ恒例の「旅の準備と技術」の章。東京の治安情報や習慣とマナーまで、海外の人向けと思われるほど念入りに記されている。例えば、満員電車やエスカレーターに乗るときの注意点。エスカレーターに乗る際は「ステップの左側に立ち、右側は歩く人のために空ける」という暗黙のルールが定着しているが、近年では立ち止まって乗るよう推奨されている、と丁寧な説明ぶりだ。斉藤さんはこう言う。
「緊急事態宣言が延長され、旅行はおろか外食さえ自由に楽しめない時期ですが、重くて分厚い本を家の中でじっくり読み込むには最適とも言えるのでは。本書にはそれに見合うたっぷりの情報量が盛り込まれています。読みながら旅気分を味わったり、状況が落ち着いたら訪ねたいところをリサーチしたりするのに活用してもらいたい」
コロナ禍で廃業する店も相次いでいるが、「東京版」で紹介した店の多くが老舗ということもあり、今のところ刊行後に情報更新が必要なケースはないという。むしろ、コロナ禍の波をもろに浴びたのは『地球の歩き方』の事業そのものだった。
海外旅行ガイドブック事業が壊滅的打撃を受け、今年1月1日付でダイヤモンド・ビッグ社の『地球の歩き方』を中核とする出版やインバウンド事業が学研プラス社に事業譲渡されたのだ。これを受け、1月26日に新たな版元から発行された「東京版」の「初版1刷」は、前の版元から通算8刷目に当たるという変則的な状況になった。
そんな中、コロナ後を見据えた動きも始まっている。
今春をめどに、中国語訳版の中国での発売が決まっているという。そうなれば近い将来、『地球の歩き方』を手に東京の街を歩く海外の人たちを見かけることになりそうだ。それはきっと、コロナ禍の終焉を象徴する光景の一つになるに違いない。(編集部・渡辺豪)
※AERA 2021年2月22日号
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