日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。横浜・弘明寺で人気の真っすぐすぎる横浜家系ラーメンを提供する店主の愛するラーメンは、14年もの間自家製麺を貫き続ける職人の紡ぐ極上の一杯だった。
年間100杯食べる強者も! 横浜家系ラーメン総本山「吉村家」の直系店以上に直系の味 店主のこだわり
■チェーン店による“資本系”参入で家系ラーメン店に逆風
横浜市南区の鎌倉街道沿いにある「横浜ラーメン 田上家」。こだわりの濃厚な横浜家系ラーメンを提供しており、開店5年ながら、エリアでも屈指の人気店となっている。
店主の田上州(しゅう)さん(45)は宮崎県出身で、これまでに寿司、和食、イタリアンなど数々の飲食店を経て、ラーメンの世界に飛び込んだ。数多あるラーメンの中でも、横浜家系の総本山「吉村家」の味に虜になった田上さん。家系を極めたいと近所の家系ラーメン店で8年間の厳しい修行の後、独立した。
横浜家系ラーメンの世界は広くて複雑だ。1974年に「吉村家」が誕生して以来、その流れを汲む店だけでなく、「吉村家」にインスパイアされた大手チェーンによる“資本系”と呼ばれる店が数多く生まれ、今や飽和状態にある。チェーン店の参入は個人店にとって逆風となり、競争に負けて閉店に追い込まれる店も少なくない。田上さんはその中でどう他店舗に差をつけているのか。
「『吉村家』さんの味に衝撃を受けて家系ラーメンでやっていこうと決意しました。だからこそ、『吉村家』さんが40年間育ててきたものを大事にしたいという思いがあります。家系ラーメンの工程は簡単に思われがちですが、濃厚でガッツリしているから作り方が雑でいいということではありません。見た目を家系に似せただけのラーメンもありますが、自分は本質を追求したいんです」(田上さん)
「いいものをちゃんと使う」というのが、田上さんの考え方だ。冷凍食材は使わず、すべて国産にこだわる。シンプルだからこそ細部にこだわる。一つの工程ごとに生まれた小さな違いが、丼の中では大きな差につながっていく。数々の飲食の現場で培った技術をすべてラーメンに落とし込んでできたのが、「田上家」の一杯なのだ。
特に人気なのがチャーシューメンだ。吊るし焼窯で焼き上げたしっとりとした大ぶりのチャーシューは、スモーキーな香りがして、「吉村家」の流れを感じさせながらも独自の美味しさを放つ。いまや100人来店すれば60人がチャーシューメンを注文するほどの人気だ。
「地元の宮崎ではチャーシューメンって食べたことがなかったんです。上京して初めてチャーシューメンと出会って、『これはごちそうだ!』とはしゃいだのを思い出します。そんな気持ちになれるチャーシューメンを目指して作っています」(田上さん)
そんな田上さんが愛する一杯は、同じ横浜で14年前から自家製麺を貫き続ける名店の紡ぐ一杯だ。
■見切り発車でオープンして14年 自家製麺にこだわるつけ麺の魅力
横浜市保土ヶ谷区にある「めん処 樹(たつのき)」。2006年のオープン以来、14年にわたって横浜を牽引する人気店で、店舗の2階にある製麺所の壁には「一麺入魂」の文字が力強く書かれている。その言葉の通り、自慢の自家製麺のファンは数多い。横浜エリアに麺の旨さを伝え続ける名店だ。
店主の大川剛さん(47)は静岡で生まれ、6歳で横浜市の杉田へ移る。大川さんの祖父は毎朝4時から朝食としてチキンラーメンを作る無類のチキンラーメン好き。さらに、杉田には当時、横浜家系ラーメンの総本山「吉村家」(現在は横浜市西区南幸)があり、毎週父に連れられ家系ラーメンを食べるというまさにラーメンに囲まれた日々を過ごしていた。
ラーメンといえば中華料理屋の1メニューにすぎないと考えていた大川さんにとって、横浜家系ラーメンとの出会いは衝撃だった。その後、高校時代に保土ヶ谷へ引っ越してからも好んでラーメンを食べていた。
大学卒業後は自動車を輸出する職に就き、6年ほど働いた。だが、このままサラリーマン生活を続けるべきか。悩んでいたある日、ふと頭に描いたのがラーメン屋だった。店主が情熱をもって自分の一杯に向き合っている姿は幼い頃からの憧れだったという。
こうして28歳の時に退職し、相模原市の愛川にある「ラーメン麺工房 隠國(こもりく)」で修行を始める。麺から具材まですべて手作りを貫く店。朝9時から働き、夜中の3時に寝るという厳しい修行時代を送った。
「社長は背中で覚えろというタイプの方で、細かくラーメン作りを教えてもらえたわけではありません。とにかく目で見て自分でやってみての繰り返し。大変でしたが、充実の毎日でした。アドレナリンが出ていましたね(笑)」(大川さん)
ラーメン作りを少しずつ覚えていく中で、「隠國」のラーメンの先に自分のラーメンが見えてきたという。厳しい環境にたくさんの仲間が辞めていく中、大川さんは3年間の修行を続けた。
06年2月に「隠國」を退職。いよいよ独立に向けて動き始めたある日、母親が働いていたイオン天王町店の近くに一つの空き物件を見つけた。2階建てで、1階を店舗、2階を製麺所にするのにちょうど良さそうな広さだった。問い合わせてみると、とんとん拍子で話が運び、契約が決まってしまったという。
太い根を張る樹木のような強い店になれればという思いから、店名には「樹」の言葉を使うことにした。だが、肝心のラーメンが完成していない。急いで味作りをしたが、試食会をしても「美味しくない」と言われる始末。同年5月、「めん処 樹」は見切り発車のままオープンした。
念願の独立だったが、客入りは散々。宣伝が足りなかったのと、何より味が追いついていなかった。ラーメンとつけ麺の二つを提供していたが、特にラーメンの完成度が低かった。
このままではラーメンもつけ麺もどっちつかずのまま、終わってしまう。大川さんは悩んだ末、ラーメンではなくつけ麺をウリにすることに。「隠國」での修業時代に社長がまかないで出してくれたつけ麺をヒントにメニュー化したものだった。
当時は「中華そば青葉」(中野市)のつけ麺に注目が集まり始めたばかりの頃で、つけ麺を提供する店はまだ少なかった。何より、麺の美味しさがダイレクトに伝わるつけ麺は、“自家製麺”をアピールするのにもピッタリだった。
こうして、「樹」は「つけ麺の美味しい店」として、口コミが広がっていった。当時は横浜エリアでつけ麺を提供する店も少なく、話題性も抜群。メディアの取材も入るようになる。店のうわさを聞きつけた新規客と常連に支えられながら、多くのラーメンファンが集まる店に成長した。それから14年間、スランプなしというから驚きだ。ラーメン業界は毎年進化し、新しい店がいくつもオープンする。だからこそ、長く地域を支えている名店の存在は大きい。
「田上家」の田上さんは、大川さんの背中を見ながら自身のラーメンを磨き続けている。
「横浜エリアの大先輩ですね。自家製麺を開店当時からひたむきに作り続ける姿勢は見習わなくてはと思います。14年間続ける努力は半端ではありません。横浜に麺にこだわるお店が多いのも、大川さんのラーメンによるところは大きいと思います」(田上さん)
大川さんも田上さんの技術の高さには目をみはる。
「とにかく腕のある職人です。ラーメンだけでなく食全般に詳しく、食材の知識も豊富。肉の使い方、スープの取り方など参考になる部分はたくさんあります。ラーメンにいろんなチャレンジを取り込める人だと思います」(大川さん)
ともに、“ちゃんと作る”ことに向き合う二人。チェーン店には決してできない手作りの良さをこれからも伝えていってもらいたい。(ラーメンライター・井手隊長)
○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho
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