宮城県石巻市は東日本大震災で最も多くの犠牲者を出しました。行方不明者を含め、その数は3970人になります。
遠藤伸一さん・綾子さん夫婦(ともに55歳)の3人の子供もそこに含まれます。
地震発生当時、中学1年の長女はすでに帰宅していました。小学校にいた長男と次女を迎えに行き、家に連れ帰ったのは仕事先から駆け付けた伸一さんでした。
結果、3人の子は津波にのまれました。伸一さんも親戚の様子を見に行った帰りに津波にさらわれましたが、流れてきた屋根につかまり何とか助かりました。
翌日、伸一さんが目にしたのは泥だらけで変わり果てた姿になった次女の奏さん(当時8)と長女の花さん(当時13)でした。
妻の綾子さんは、夫を責めました。
「なんで子供たちを助けてくれなかったの?」
10日後、長男の侃太さん(当時10)もまた遺体で見つかりました。
わずかな望みも潰えた夫婦は、絶望しました。避難所では、その傍らには同じく被災した友人や地域の人たちが常に寄り添っていたそうです。
少しでも目を離せば、命を絶ってしまうかもしれない―。
誰しもが傷を抱える中、夫婦の様子は際立っていたのでしょう。
消せない喪失感を抱え、すれ違い、もう一緒にいる意味がない、離婚という2文字も頭をよぎったという2人は、それでも今ともにいます。
「父ちゃん、幸せになってもいいか?」「許してくれるなら、応援してほしい」
夫婦が子供たちにそう語り掛けられるようになるまで、13年が必要でした。
2人を救った出会い、そして再生の道のりをたどりたいと思います。
◇3人の子を失った自宅 再び笑顔の場所に
夫の伸一さんは今、自宅のあった場所のすぐ隣に、あるものを造っています。
その名も「レインボーシアター」。プロの音楽家の演奏を楽しむ、子供たちと音楽をつなぐ場所です。
ここは自分の子供が命を落とした場所、だからこそ寂しいだけの場所にしたくない。笑顔が広がる場所にしたい。ここは楽しい場所、人の思いが集まってできた場所だということを、立ち寄る子供たちにもずっと覚えていてほしい。
そんな思いから計画したといいます。
レインボーシアターはこの春には完成する予定です。復興支援団体「わたほい」の代表も務める伸一さんは、子供たちだけでなく、この地域に住んでいた人たちや「わたほい」を支えてくれた多くの人たちも招きたいと考えています。
木工職人の伸一さんは今、その腕を生かし、レインボーシアターの仕上げに没頭しています。
13年前、自暴自棄になっていた伸一さん。再起の一歩を踏み出せたのも、その腕を見込んだ、ある「仕事」がきっかけでした。
震災直後の思いを語る伸一さん
◇救いとなった本棚 米国人夫婦がくれた縁
3人の子供を失い、暗いトンネルの中を進むような日々を過ごしていた2011年夏。
伸一さんは、津波により石巻市で亡くなった当時24歳のアメリカ人女性の両親から「本棚作り」を依頼されました。
女性の名前はテイラー・アンダーソンさん。石巻市内で外国語指導助手をしていました。
テイラーさんの両親は「アメリカと日本の懸け橋になりたい」と願っていた娘の遺志を継ぎ、被災地の学校に英語の本を贈るテイラー文庫という活動を始めていました。本棚はその本を保管する大切な入れ物です。
最初は断ろうと思ったという伸一さん。しかし、亡くなった子供たちがテイラーさんから英語を習っていたと知り、仕事を引き受けることにしました。
「亡くした子どもの遺志、生きた証を作っていく生き方なら俺にもできるのかな」
手を動かしながら木材と向き合ううちに、少しずつ伸一さんは本棚作りに没頭していったといいます。
「自分だけが生き残った」という罪悪感。しかし工具の音が聞こえている間は、その感情が少し収まる。
最初の本棚が完成したのは2011年9月。テイラーさんが勤務していた石巻市の万石浦小学校に納められました。その本棚は、今も大切に引き継がれています。
テイラーさんの両親はその後も依頼を続け、伸一さんは次々とテイラー文庫の本棚を完成させていきます。一つ、また一つと本棚が完成するたび、伸一さんは生きているという実感を取り戻していきました。
伸一さんが手がけたのは、本棚だけではありません。2014年4月、その腕前を生かし、自宅跡地に大きな遊具「虹の架け橋」を造りました。子供たちを失い、流した涙の後にできた虹が人とのつながりを作ってくれた…そんな思いを込めたといいます。
◇子を想う気持ちは同じはずなのに…離れていく夫婦の心
妻の綾子さんはそんな夫の姿を一歩引いたような、複雑な思いで見ていたといいます。
「最初は自宅跡に来るのも嫌で、夫のように素直にいろんなことを受け入れられなくて、こんなところで楽しいことができるわけがないと反発していた」(綾子さん)
3人の子を失った悲しさだって、同じはず。それでもどこかで、夫婦の思いはすれ違っているような気がしてなりませんでした。
「一番上(長女)の花は、私に一番似ているのかなと思っていた。中1だったので反抗期もあってよくぶつかってはいたけど、頑張り屋さんのところもあった。真ん中(侃太さん)は男の子でちょっと弱気なところもあったが、足が速くて自信がついたあたりからちょっと変わってきて…優しい子だね。下(奏さん)は3番目として生まれてきた強い子で、たくましい子で正義感が強くて自由奔放で、でも優しい女の子だったと思う」
生前の子供たちを語る綾子さんは冗舌です。
本来ならともに悲しみを乗り越えていくべき存在である夫とは、距離が離れる一方に思えました。
◇綾子さんを支えた会話 きっかけはテイラー文庫
そんな綾子さんに転機をくれたのも、またテイラー文庫でした。テイラーさんの母・ジーンさんは震災以来、たびたび石巻を訪れていました。綾子さんも何度か会う中で、2015年11月、ジーンさんからある提案をされました。
「日本の着物生地を使って小物を作ってみたら?石巻の女性たちで」
綾子さんにはそのとき、いつも控えめなジーンさんがびっくりするほど生き生きして見えました。そんなジーンさんを見て、初めて前向きな気持ちが湧いたといいます。
使わなくなった着物生地を使いグリーティングカードを作る。これぐらいなら作れるかもと、手を動かし始めたという綾子さん。震災から5年が経っていました。
「イシノマキモノ」という名前を付けて活動を始めた綾子さん。
友人を誘い、話しながらカードを作るうちに綾子さんの気持ちにも少しずつ変化が訪れました。拠点にしたのは、これまで足を向けることができなかった自宅跡地に建てたプレハブ小屋。伸一さんが活動を続ける支援団体「チームわたほい」の拠点でもあります。嫌だった場所はいつしか、かつてと同じ“大切な場所”になっていきました。
「いろんなことを乗り越えてきた友人たちなので、はっとするようなことを教えてくれたり、そんなこと大したことないよとか、誰かが心配なことがあったときはみんなで心配したり、お互いが大事な存在になっている」(綾子さん)
綾子さんと友人は気兼ねなく話し合う関係。それは震災についても変わりません。家族のことや仕事のこと、最近あったおもしろかったことなど、いろんな言葉を交わしていきます。
一緒に小物を作る友人は「綾子さんしか分からない痛みはずっと変わらない。でも気づいたことはお互いに言っていかないと本当の友人にはなれない」と話します。
綾子さんは今も週1回、プレハブ小屋での活動を続けています。
そして、去年からは石巻市内の震災伝承施設で解説ガイドの仕事も始めました。
「最初は震災にかかわること自体がつらかったが、今は関わらざるを得ないのではと、自分の気持ちが変わり、今度は私が恩返しをする番と思うようになった。自分が体験した震災を伝え、同じような思いをする人を減らしたい」と考えたからだといいます。
◇母校に本棚を 夫妻で伝えた感謝
テイラー文庫に背中を押され、歩んできた伸一さんと綾子さん。
去年4月、2人は一緒にテイラーさんの母校であるアメリカのランドルフ・メーコン大学を訪問しました。30ヵ所目となる本棚を納めるためです。
本棚はあえて完成させず、伸一さんはテイラーさんの後輩たちと最後の仕上げをしました。
言葉はお互いに通じません。伸一さんは身振り手振りで作業を教え、学生たちも真剣に取り組みました。ようやく完成した本棚。学生たちは「美しい」と讃えてくれました。
寄贈式当日、伸一さんは「テイラー先生の思いをつないだら、子供たちは喜ぶだろうという気持ちで制作した。震災直後は想像もできなかったことが現実になり夢のようだ」と話し、テイラーさんの両親に改めて感謝を伝えました。
テイラーさんの遺志を伝える本棚は、いつしか子供を亡くした親の心を救う大切な存在へとなっていました。
◇子供たちを想い続けた13年
震災から13年。
生きていれば、3人きょうだいの一番年下だった次女・奏さんも20歳を過ぎています。震災さえなければ、子供たち3人の誕生日はお酒を飲みながら祝っていたかもしれません。
しかし、伸一さんと綾子さんの心の中の子供たちは、ずっとあの時のままです。
「一日も思い出さない日は絶対なくて、いろんなところで、写真を見なくても、その場所に行かなくても、こうだったな、ああだったと思い出すきっかけがいっぱいあって、一生こんなふうに生きていくしかないんだなと思ってからは変わった。今大きいのは『仲間』が、話を聞いてくれる人が増えたこと」(綾子さん)
伸一さんは自らの体験を講演するとき、これからを生きる子供たちにこう語りかけます。
「君たちは必ず誰かの宝物。必ず生き抜いてほしい」
◇それぞれに歩んだ“再生の道”
やり場のない怒りと喪失感を抱え、震災後はすれ違いばかりだった遠藤さん夫妻。明確な歩み寄りがあったわけではありません。
月日が経つにつれて、綾子さんは少しずつできることが増え、涙がこぼれることも少なくなりました。それとともに、伸一さんへの思いも変わっていったと話します。
綾子さんは、今の夫妻のやりとりをこんなふうに説明します。
「夫は疲れて帰ってくるので、私が勝手にしゃべっていてうるさいなと思っているのでは。それでも、きょう何があったかは話をするようにしている」
そこにはごく普通の夫婦の日常がありました。
2人が子供たちと過ごした自宅跡に建設中のレインボーシアターは、この春にも完成する予定です。
「音楽は心の余裕がないと聞こうという気持ちにはならない」(伸一さん)
子供たちが穏やかな気持ちで過ごせる場所にして、時には楽しくにぎやかに、時にはゆっくりと音楽を楽しんでほしいと願っています。
そこには、津波によって断ち切られた“当たり前の日常”をいつくしんでほしいという思いも込められています。
それぞれのペースでそれぞれの道をたどりながら、少しずつ歩んできた伸一さんと綾子さん。
避難所にいた“目を離せない夫婦”の姿はそこにはありません。
2人に花さんや侃太さん、奏さんに伝えたいことを聞くとこう答えが返ってきました。
「父ちゃん、いろんな人に支えられて今幸せだ。幸せになってもいいか」(伸一さん)
「お母さん、あんなことやりだしたんだ、いつも突飛だよねって言われそう。でもいつも応援もしてくれていたので、許してくれるなら応援してほしい」(綾子さん)
子供たち3人の思い出とともに、伸一さんと綾子さんは今を生きています。
(仙台放送報道部 林佳緒里)
※この記事は、仙台放送によるLINE NEWS向け「3.11企画」です。
伸一さんが代表を務める「チームわたほい」は、例年3月11日に石巻市で慰霊の花火を打ち上げています。クラウドファンディングによる支援を募集しています。
チームわたほいの活動についてはこちら