冷たく暗い海に潜っては、呼びかける。
祐子、どこにいるのーーー。
高松康雄さん(65)は今日も、凍てつく海にいた。
あの日。宮城県女川町は津波に襲われ、615人が死亡、257人が行方不明となった。
高松さんの妻・祐子さんも波にのまれ、今も行方が分かっていない。
愛妻を自分の手で探そうと、高松さんは震災後に潜水士の資格をとった。
「なんとか見つけてやりたいのでね、何かないかなと。怖かったです、海に潜るのは。海が嫌とかではなく、潜ること自体が。遺骨の一部でも、ひとかけらでも連れて帰りたいというのはまだありますね」
高松さんにとって、東日本大震災はまだ終わっていない。
携帯に残された、「送られなかったメール」
高松さんは航空自衛隊を定年で退官した後、2011年6月からバスの運転手として女川で働き始めた。祐子さんが行方不明になってから、約3か月経っていた。
「(運転中に)海が見えると涙が出てきたり、というのはありましたね。もちろんすぐ涙払って前は見ているんですけど」
高松さんの妻、祐子さんが勤めていた七十七銀行女川支店は海から約100mのところにあった。地震発生後、行員は支店長の指示で銀行の屋上に避難したが、津波に巻き込まれた。
4人が死亡。祐子さんを含めた8人が今も行方不明だ。
行方不明者を捜そうと、海上保安庁やボランティアの人達が潜水を繰り返した。その様子を見るうちに、高松さんは「自分も潜って捜したい」と思うようになった。
背を押したのは、祐子さんの携帯電話だった。地震から1カ月後、銀行の建物のすぐ下で見つかった。
今では旧式に見える電話を手に、高松さんが言った。
「電源入れて見ますか」
津波が押し寄せる中、祐子さんが高松さんに送ったと思われるメールが残されていた。
そしてまた、携帯電話を繰る。画面に表示されたのは、未送信のままのメールだ。
「丸も点も打っていないんですよ。この続きを何か書きたかったのかな、なんだろうなと考えているんですけど…女房のことだから気をつけてかな、と思っています。俺に気をつけろよと。それどころじゃないのにね、自分が危ないのに」
いつも、自分より夫を気遣ってくれる、優しい妻だった。
「さっきの大丈夫?ってのも、クエスチョンマークがついているので、俺の方を大丈夫か、と心配しているのだと思います」
海に潜る高松さん
毎週、必ず海へ
捜索で潜水するのは月に一回だが、海には毎週潜り、感覚が鈍らないようにする。空気タンクなどの総重量は約5キロ。体力が必要だ。
トレーニングのこの日、水深約15mまで潜った。捜索と比べると半分ほどの深さだ。1度の潜水で潜る時間は20分から30分。それを2回。体力を維持しなくてはならない。
高松さんは、自身の妻を探すだけではなく、ボランティアで行方不明者を捜すチームにも参加している。
高橋正祥さんは8年前、高松さんから「妻を捜したい」と相談され、潜水の技術を教えた。
「例えば沖縄の30m(の深さから)だと船が見えたりしますけど、女川の場合、深いところだと船が見えない。何も見えない中で、本当に悪い時だと1m、2mという透明度の時もある。その中で捜索をして自分の安全管理をするのは簡単そうですごくむずかしい。高松さんがこの捜索に人生・命をかけてやっているという思いは伝わって来るので、僕は出来るだけ協力していきたい」
月に1度の捜索の日。打合せで捜索する場所を確認する。
高松さん達はこれまでに女川湾全体の浅瀬の捜索を終えた。その後、水深が深いエリアに捜索範囲を広げるうち、がれきが多く残っている地区を発見した。
現在は、この範囲を重点的に捜索している。このエリアは祐子さんと同じ職場から行方不明となった行員のうち、3人が見つかった。
銀行からは約4キロも離れていた。
広大すぎる捜索範囲
なぜ、こんなにも遠くまで流されたのか。
中央大学で津波工学を研究する有川太郎教授は、こう語る。
「女川の地形はリアス式海岸と言って内陸に向かうに従って狭くなるような地形になっています。そのために津波が来ると非常にエネルギーが集中して津波が高くなる傾向にあります。その高いところから流されると陸に辿り着くことなく、沖に流されてしまうということになってしまう」
東日本大震災による各都道府県の死者と行方不明者の数を見ると、岩手県と宮城県の行方不明者が突出している。
さらに市町村別に見ていくと、行方不明者はリアス式海岸の地域で極めて多く、実に全体の約85%を占める。
子細なシミュレーションを経て、有川教授はこう語る。「今回の津波では、10キロ、20キロ先まで流されていたとしても、おかしくない」
捜索範囲は、無限とも思えるような広さだ。
それでも発見される遺骨
年月を経るごとに、発見される遺体や遺骨は、少なくなっている。
それでもまれに、家族のもとへと戻るケースがある。
震災から8年後の2019年の8月。山元町の沖合で漁船の網の中から人の下あごの骨が見つかり、DNA鑑定の結果、同町から行方不明となっていた女性の遺骨とわかり、家族のもとへと届けられた。
仙台市内で東日本大震災に関する身元不明の遺骨を供養している、中村瑞貴住職(愚鈍院蓮光寺)は、こう語る。
「骨を拾うという行為というのは日本人にとっては大きい事。そういう死生観というか考えが日本人には流れているのではないかと思う。ただ、災害の場合だと突然それが起こるわけで、ご遺体のない、そしてまたお骨のない、それを埋めることができないとなると、死を受容していく過程がほぼ失われることになる。自分自身でどうやって愛しい人の死を受容していくか、それは非常に難しいと思いますね」
墓石に刻んだ「ありがとう」
妻が行方不明になってから2年後 、高松さんは墓を建てている。墓石には「ありがとう」と刻んだ。
「なんて言ったらよいか…楽しく暮らせたので感謝の言葉にしました」
お墓に祐子さんの遺骨は入っていない。
「亡くなられた方と言うのは葬式をあげて、看取って、火葬して、とプロセスがありますよね。行方不明の場合は、朝行ったきり突然もう帰って来ない訳です。ちゃんと整理が出来ていないと言うか。中途半端な気がして。どこか諦めきれないような。変な感じです」
2018年には、家族が増えた。長女夫婦に誕生した、孫の航(わたる)ちゃんだ。
「ちょっと相手するのも大変だけど、いやされます。この笑顔と言うか。(妻も)やっぱり抱っこしたかっただろうなと思います。自分ばっかり、って怒っているかも知れません」
墓に妻を納骨し、墓前で語りかけたい。俺ばっかり、ごめんなと。
変わらず続く捜索
昨年1月。
高松さんは重点的に捜索しているエリアで潜る。気温・水温ともに約9度。この日もあまり視界がよくない。透明度は50cmほど。水深36mの海底で高松さんが気になるものを見つけた。スーツケースだ。
海中での捜索
中から出てきたのは黒い水。硫黄のようなにおいがする。
「あー、ビニールだけだな。名前書いてないかな。手がかりになりそうなものは、ないですね…。何か身元に繋がるようなものが入っていたりするかも知れないし、もしそういうものがあれば返してあげたり、家族に返してあげることもできるかなと思って…まだまだね、知らないがれきがあると思います。少しずつ、そういうところを捜索したい」
その翌2月。捜索は続く。気温は5度、水温は8度。カキなどの養殖に使うロープが津波で絡まった大きな束。水深35mの海底で鞄のようなものを見つけた。
「なんですかね写真とか、これ役場の事業計画書」
見つけたものは役場や警察に届ける。この日見つけた通帳は発行した信用金庫に届けた。祐子さんの手掛かりはなかった。
あの日、荒れ狂った海で
そして、震災から10年が経った2021年3月11日。
この日も高松さんは海に向かった。祐子さんと同じ職場で、家族が犠牲になった人達と船に乗った。
地震発生時刻の午後2時46分。
「地震があった時間ですよね。あの時、銀行の人達はどうしていたのかな。どういう心境だったのかな。どこにいるの…どこにいるのか教えてくれれば行きたいと思うんですけど、迎えに」
あの日荒れ狂った海は、きれいに凪いでいた。
「海に潜ると、近くに来れたかなという気がするし、まあ会いにいくような感じ。お墓参りのような」
震災10年を経ても
震災10年を経ても、高松さんの日々に変わりはなかった。
そして今年2月。月に1度の捜索は今も続けている。
気温は氷点下。前日に使用した潜水の用具は中が凍っていた。お湯で用具を溶かすことから始まったこの日の捜索。水温7度の海に向かっていく。
この日はがれきが流れ着いているのを確認している地点。水深約35m。そこにはやはり車やスーツケースがあった。
この下に、このすき間に、妻がいるのではないか。いるなら、教えてほしい。祐子、どこだ――。
約25分の捜索。
この日も祐子さんの手がかりとなるものは見つからなかった。
潜水を終えて
妻の「帰りたい」を胸に
それでも、高松さんはまた来週、海に潜る。
捜索を始めて9年目。2022年で66歳になる。潜った回数は約500回。
「この海のどこかにまだ妻がいるんだろうなと思うと、また、潜りたくなってくる。体力が続く限りは続けていきたいと思っている。いつまで持つか、ちょっと分からないですけど」
そう笑った高松さん。
思いは変わらない。
祐子さんの残した「帰りたい」の言葉を胸に、女川の海に潜り続ける。
(取材・執筆 仙台放送報道部、大山琢也)
この記事は、仙台放送によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。