天皇陛下の63歳のお誕生日を迎えた2月23日、皇居・宮殿の長和殿ベランダには、天皇ご一家と秋篠宮ご夫妻、佳子さまが並ばれ、人々の祝意に応えられた。
「天皇陛下と秋篠宮さまは手を振られながらも、視線を少し合わせ、言葉を交わされる場面もありました。以前はご兄弟仲のよさがわかる様子を拝見する機会も時折ありましたが、久しぶりにご兄弟でお話しされる光景を見たような気がいたします」(皇室担当記者)
昨年春、愛子さまの成年に際しての記者会見と悠仁さまが通われていた中学校の卒業式が同日になってしまうという“日程かぶり”が生じたことで、ご兄弟の“すれちがい”も指摘されていた。こうした状況に、三笠宮家の彬子女王が、秋篠宮さまへの“諫言”ともとれる文章を綴られていたのだーー。
「彬子さまは、日本の伝統文化や歴史に関わるご公務やご活動をなされてきました。その一環として、食や旅、文学、歴史など、多様な日本文化をテーマとしたウェブメディアに連載のコラムをお持ちになっています。
1月5日に配信された、宮中の新年にちなむ食文化を伝える記事の中で、昭和天皇と弟宮さまたちの関係性の深さについて書かれていますが、古きよき時代を懐古するいっぽうで、現在の皇室への憂慮も伝わってくる内容なのです」(前出・皇室担当記者)
昨年末、彬子さまの祖父で昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁さまの伝記が出版された。彬子さまは刊行委員長を務められ、昭和天皇やご兄弟のご事績を詳細に見てこられたそうで、コラムでは次のように書かれている。
《昭和の時代は、「寒の入りにつき」「お中元につき」など、(崇仁さまは)秩父宮家、高松宮家とご都合を合わせられ、様々な場面で、本当に度々に御所にご挨拶に上がられている。御兄弟の絆の深さが感じられるのはもちろんのこと、季節の移り変わりの大切さ、そしてそれに伴う体調の変化を気遣うという、日本で脈々と培われてきた相手を思いやる心遣いの美しさを垣間見られるようで、とてもあたたかい気持ちになる》
いっぽう昨年、秋篠宮さまが御所を訪れられたのは、立皇嗣の礼関係行事お済ませについてのご挨拶、お誕生日のご挨拶など、“必要最低限”の3回だけ。2012年から7年間、上皇さまと天皇陛下、秋篠宮さまが月に1回ほどのペースで御所に集まって開かれていた“頂上会議”も、現在は休止されたままだ。
■「もっと密な意思の疎通や皇室の一体感を」
「彬子さまのコラムは、祖父母らから聞いた皇室の優雅さや思いやりの伝統を残したいというお気持ちで綴られたのでしょう。しかし、コロナ禍や多忙なご公務のため、ご挨拶程度ならともかく、陛下と秋篠宮さまがお二人で顔を合わせて話される機会が激減しているのも事実です。
ご兄弟のコミュニケーション不足が、両家の“日程かぶり”のような侍従職と皇嗣職の連携不足にもつながったことは否めません。また、眞子さんの結婚や秋篠宮邸の改修費に対する批判など、皇嗣家を巡ってはトラブルが立て続けに起きてしまっています。宮内庁内でも、“なぜ秋篠宮さまはもっと陛下にご相談しないのか?”と疑問を呈している者も多いのです」(宮内庁関係者)
彬子さまのお父上である寬仁さまは、“皇族は天皇を支えるための存在”というお考えをたびたび発信され、実践されてきた。
「寬仁さまは、“ひげの殿下”と国民から愛され、皇族が避けがちな政治的な問題についても臆せず意見され、生涯を通じて皇族のあり方と向き合っておられました。そんなお父上を彬子さまは深く敬愛され、お考えの一部を受け継いでおられるのです」(前出・宮内庁関係者)
近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは、彬子さまがコラムに込めたお気持ちをこう読み解いてくれた。
「天皇家と各宮家の間で、もっと密な意思の疎通や皇室の一体感を高めたいというお気持ち、現状へのもどかしさを感じておられるのではないでしょうか。
彬子さまが綴られているように、昭和天皇の御代では、戦前からご兄弟はご家族もお連れになって、定期的な映画会や食事会を開かれていたことが『昭和天皇実録』などに記されています。
昭和天皇と、秩父宮雍仁さま、高松宮宣仁さま、そして三笠宮崇仁さまとは、ご兄弟の間でもさまざまな考え方が異なることで衝突することもありました。考え方の違いがあったからこそ、終戦や占領という激動の時代に、昭和天皇と弟宮さまたちは、お互いの意思疎通を重視されていたのでしょう」
皇族数は減少の一途をたどっており、皇統の危機が叫ばれて久しい。危機を打開するために、もっと話し合いや協力が必要だと、彬子さまは考えておられるのかーー。