(写真:共同通信)
「僕らは勝つだけだと思いますし、勝つことでやっぱり日本のファンの人たちは喜んでくれると思うので、そこだけだと思います」
19日の練習後にマスコミに語った大谷翔平(28)。いよいよ決勝を迎える侍ジャパン。
’06年の第1回大会から2連覇を果たした後、優勝からは遠ざかっていた。だが、今回の代表チームは「歴代最強」と評されるだけに、14年ぶり、3度目のタイトル奪還に期待がかかる。世界一まであとふたつだ。
「最強」の中身は、史上最年少三冠王の“村神様”こと村上宗隆選手(23)や、同じく史上最年少で完全試合を達成した佐々木朗希投手(21)ら日本のプロ野球組に加え、ダルビッシュ有投手(36)や吉田正尚選手(29)など、MLB(メジャーリーグ)で活躍する日本人選手がこぞって参加したことだ。日系選手として初めて侍ジャパン入りし、“ペッパーミル現象”を巻き起こしたラーズ・ヌートバー選手(25)など、個性も実力も十分の千両役者がそろった。
なかでも絶大なる注目を集めているのが、WBCには初出場となった大谷選手。
この歴代最強チームを率いるのが、栗山英樹監督(61)。
今回の侍ジャパンにはキャプテンを置かないという異例の方針を打ち出すなど、独自の野球哲学に基づいた采配に期待が高まる。
また大谷選手にとっては、北海道日本ハムファイターズ時代の恩師であり、実は「二刀流の大谷」の生みの親でもある。
前回の大会を調整不足などで辞退していた大谷選手を、昨夏、米国まで訪ねて、じきじきに出場を要請したと報じられているが、その師弟の絆は、遠く日本とアメリカと離れても、以前と変わらず強く結ばれたままなのだ。
■高校卒業後、メジャー入りを宣言した大谷の心を動かしたのは栗山監督の二刀流への誘い
「大谷が花巻東高校の2年生の取材時に、『メジャーでプレーしたい』という言葉を、私の目を見てはっきり口にしていました。
高校生でありながら、明確な目標があって、それに向かうプロセスを把握できている選手だと思いました。また、そのための努力を、自然にできるのが大谷だと思います」
語るのは、MLBアナリストの古内義明さん。
ドラフト1位候補とも呼ばれた高校生が、日本のプロ野球を経験せずに、いきなりメジャーリーグ挑戦を宣言したことは、野球関係者やファンを驚かせた。実現すれば、もちろん前例のない挑戦であった。
しかし、思わぬ事態が巻き起こる。’12年10月のドラフト会議で、日本ハムが大谷選手を単独1位指名したのだ。
以降、球団と、大谷選手および大谷家との交渉が重ねられていく。
「パイオニアになりたい」
と、あくまでメジャー行きの希望を口にする大谷選手に対して、球団側から「夢への道しるべ」という資料が届けられた。それには日本のプロ野球を経て渡米したほうが成功の確率が高いことなどが綿密なデータで示されていた。
また、この年にキャスター業から転身していた栗山監督の、「大谷くんへ、夢は正夢。誰も歩いたことがない大谷の道を一緒に作ろう」という直筆メッセージ入りのボールが手渡されることもあった。
その栗山監督が、ドラフト後、直接、大谷選手に会ったのは11月の終わりのこと。
監督は、自身のアメリカ取材での体験も引きながら会話したという。マイナー契約から始めたはいいが、環境などに恵まれず、メジャーで活躍できないまま終わる選手なども、キャスター時代に多く見ていたからだ。
「まず日本のプロ野球で実績を積んで、それからきちんとメジャー契約をして渡米するべきだ」
日本ハムへ来てほしいということは口にせず、「共に大きな夢に向かって適切なルートで一歩を踏み出そう」と説得したのだった。
さらに、大谷選手の心を大きく動かしたのが、栗山監督が交渉のなかで持ち出した「二刀流」という言葉だった。
このことが、日本ハム入りに大きく影響したのではないかと、母親の加代子さんも語っている。
《翔平は投げることも、打つことも好きな子なので、私は「プロに入って両方やらせてもらえないのかね?」と何も考えずに言ったことがありました。翔平は「まさかそんなの無理でしょ」みたいに言っていましたけど》(『道ひらく、海わたる』)
もし高校卒業後に渡米していたらまったく違う結末を迎えていたと話すのは、『大谷翔平 日本の野球を変えた二刀流』(廣済堂出版)の著書もあるスポーツライターの小関順二さん。
「高校卒業後、大谷が“直メジャー”の道を歩んでいたら、二刀流の選択肢はありませんでした。大谷本人も言っていますが、メジャーリーグ全球団に『打者・大谷』を求める空気はなく、『投手・大谷』の道しかありませんでした。
スカウトを含めた日本ハムのフロントが二刀流の道を示したことにより、大谷の気持ちのなかに日本ハムでプレーする気持ちが芽生え、今、私たちが目撃している“奇跡”がもたらされたのです」
12月25日の入団会見でガッツポーズする大谷選手の隣には、笑顔で見守る栗山監督の姿があった。
以降、大谷選手と栗山監督、スタッフらは、日本プロ野球史上前代未聞の二刀流挑戦への道のりに踏み出す。
■師であり、野球界の父に見送られて、大谷は5年越しの願いを実現してアメリカへ渡った
プロ入り2年目の’14年、大谷選手は早くも投打で11勝と10本塁打の実績を上げ、同一シーズンで2桁勝利と2桁ホームランを達成。これは日本プロ野球史上初の快挙だった。
この活躍ぶりに、二刀流は認められるかに見えたが、まだまだ否定的な意見を言う球界OBや評論家は多かった。
「かえって、どっちつかずで、せっかくの才能を無駄にするのでは。肉体的な負担も心配だ」
栗山監督自身に、迷いはなかったのだろうか。
前出の古内さんは語る「大谷は、数十年に一人の逸材で、日本で唯一無二の存在です。栗山監督は相当なプレッシャーと責任感のもとに、コーチらと綿密な育成方針を立て、大谷翔平という大事な芽を摘まないように、かつ無限の可能性を引き出していった」
インタビューなどで栗山監督は、大谷選手を自チームに迎えて以来、「野球界の宝をお預かりしている」という表現をよく口にしている。
その背景には、自分たちのやり方で大谷選手の両親、佐々木監督、何より本人の望むかたちでの成長を遂げさせることができるのだろうか、との思いがあった。
しかし、そんな監督たちの不安を消したのは、当の大谷選手自身が、前人未到の二刀流への挑戦を、かつての野球少年だったときのように純粋に楽しんでいる姿だった。
やがて、師弟で歩んできた道が正しかったことが立証される。
’16年7月のソフトバンク戦に、1番・投手として先発出場した大谷選手。バッターとして打席に立つや、いきなり初球をスタンドにたたき込む。投手による先頭打者ホームランは日本のプロ野球初どころか、メジャーリーグにもない歴史的な大記録だった。
教員免許も持つという、緩急を知り尽くした栗山監督の指導法が実を結んだ瞬間だった。
「栗山さんは、大谷のことを、ほとんど面と向かって褒めない。褒めれば、成長が止まると思って、“嫌われ役”に徹していた。二刀流や先頭打者本塁打なども、『大谷ならやって当然だ』という親心が前提で、世界一の選手になるとずっと背中を押してきた」(古内さん)
その後も、大谷選手を軸として日本ハムの快進撃は続く。9月には完封勝利でパ・リーグ優勝を決め、日本シリーズ出場をかけたクライマックスシリーズのファイナルステージでは、165kmのプロ野球最速記録を自ら更新。
この年、日本ハムは日本一となり、大谷選手はMVPに輝いた。以降、「日本のベーブ・ルース」の名が定着する。
そして’17年10月のオリックス戦で「4番・ピッチャー」となった大谷選手は、オフを迎え、メジャー挑戦を正式に表明。
メジャーの全30球団のうち、実に27球団が獲得に名乗りを上げたのだった。
メジャー行きを決めた大谷選手に対して、栗山監督は「ホッとしました」と、心情を語った。
共に夢を追う師であり、野球界の父に見送られて、大谷選手は5年越しの願いを実現させ、アメリカへ渡った。
■大谷のその後の活躍はご存じのとおり。WBCでは前回不参加の無念を晴らすべく挑む
アメリカンドリームという言葉があるが、渡米した大谷選手が米国でもなお自身の夢をかたくなに貫いていたことは、多額な契約金も約束され優勝もねらえる名門や強豪チームではなく、アナハイムの郊外に本拠地を置くロサンゼルス・エンゼルスを選んだことでわかる。
二刀流という夢に向かい、ゆっくりと共に歩むことを表明した数少ない球団だったからだ。
その後、アメリカのファンをもうならせた活躍ぶりは、ご存じのとおり。
最強チームを率いる栗山監督も「世界一しかない」と、力強く言い切った。
いよいよ舞台をアメリカに移しての準決勝の相手はメキシコ代表と決まった。
二刀流を世界に認めさせた大谷選手と栗山監督の師弟愛を原動力に、侍ジャパンは3度目の優勝に向かい突き進む。