NHK総合で再放送され、大反響を巻き起こした、伝説のファイナルコンサート。その当日に関わった人々に総力取材すると、舞台やテレビでは決して見ることのできない山口百恵さんの様子が明らかに。そこには、青春を駆け抜けて、いま嫁ごうとする、ごく普通の21歳の女性の素顔があった――。
引退コンサートと翌日のテレビ出演を済ませると、その後11月19日の東京・赤坂の霊南坂教会での結婚式以降は、表舞台に立つことのなかった百恵さん。あれから40年以上が過ぎた。働き方も恋愛観も、社会を取り巻く環境が大きく様変わりするなかで、その歌声とともに、大きな仕事をなげうって愛する人のもとに嫁ぐという生き方が、ずっと変わらずに支持され続けるのはなぜだろう。その答えは、すべて引退ライブに込められていた。
コンサート当日の午後1時50分、目黒の自宅を出た百恵さんが会場となる日本武道館に入ると、すぐにリハーサルが始まった。
コンサートの開演前に楽屋を訪れたという親友の小柳ルミ子(68)は、「10畳ほどの和室の楽屋では、百恵がメークをする傍らで、お母さまも取り乱す様子もなく座っていらっしゃいました。私のほうが諦めきれず、『引退を撤回して』と言うと、百恵はきっぱり『もう決めたから』って。ホリプロの堀威夫社長(当時)が顔を出したときも微動だにせず、淡々とメークを続けた百恵。生い立ちもあるのかもしれませんが、いつも肝の据わった人でした」
1万人のファンの熱気に包まれた会場では「百恵ちゃん、お幸せに!」「友和さんと末長く!」の横断幕も。そして午後6時10分。オープニングのインスト曲に続いて、ゴールドのワンピースを着た百恵さんが登場すると、会場はいきなり、「百恵ちゃーん!」「モモエ!」の大歓声、いや絶叫で熱気に包まれた。
1曲目は、『This is my trial(私の試練)』。その後は、『プレイバックPart2』や『イミテーション・ゴールド』などヒット曲に続き、11曲目には「私の原点」と話していた横須賀をテーマにした『横須賀ストーリー』。
2曲目からここまですべて阿木燿子の作品であり、百恵さん自身、「かわいい私の分身たち」と紹介している。この曲ができたときのことを、デビュー直後からプロデュースを手掛けた、音楽プロデューサーの川瀬泰雄さん(74)は、「最初に阿木さんの詞を見たときのことを、百恵は何かの本に『私の歌が出来た』と書いていました。同じ女性として、初めて大きな共感を抱いた様子で、この曲から歌のヒロインが憑依するようになりました」
オリコン1位にも輝いた自身最大のヒット曲であり、間違いなく代表曲の一つ。百恵さんとコンサートの構成を練った演出家の宮下康仁(70)さんはこう語った。
「『横須賀ストーリー』がなかったら、彼女は、まったく違った歌手人生を送っていたとも思うし、本人もそう語っていますね。この曲でアイドルの殻を脱ぎ捨て、一人の女性として歩み始めた。引退コンサートの大きな柱が、この曲。ファンの女性たちにも絶大なる支持を受けたことを考えると、あの日の武道館は日本女性の生き方をも変えたと思うんです」
「コンサートと結婚式を終えたら、新婚旅行に行く前に髪の毛を切りたいんです」
百恵さん本人から、ヘアメークの司さとしさん(72)のもとにこんなリクエストが届いていたのは、結婚と引退が決まった直後のこと。
そして挙式を終えた翌日の11月20日早朝、この約束を果たすため、司さんは新婚ホヤホヤの友和・百恵夫妻が宿泊していたホテルのスイートルームを訪れた。
「ほんとに、いいの?」
「はい、バッサリ切ってください!」
司さんは、万感の思いを込めてハサミを手に取ったという。
「『バッサリ』って。そんなときも、潔い人でした。カットしながら、彼女の全身を通じて、“山口百恵”から“三浦百恵”になるんだという覚悟を感じました。ショートカットになった百恵さんは、『じゃ、行ってきます』と部屋を出て、友和さんと2人仲よくハワイへの新婚旅行に。そのとき初めて『あっ、終わったんだ』と思えました」
宮下さんは、宝物だというコンサートの古い台本を、改めて手に取りながら、「山口百恵という歌手は、歌や芸能活動を通じて、自立した女性像を示した原点だったように思います。だから、40年たっても、みんなの思いが消えないんですね」
その場所がどこであれ、自分が信じて選んだ道であれば、たとえスポットライトはなくても、人は輝きながら歩んでいける。百恵さんの凜とした生きざまは、そして歌声は、混迷するいまに、ときに生きあぐねる私たちにメッセージを送り続けてくれる――。
「女性自身」2021年3月23日・30日合併号 掲載