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「上皇陛下のご退位直前にお目にかかったときに、上皇后さまは『陛下のお心とお体のお疲れを、総合的にわかるのは私だけだったの』とお話しになりました。陛下を無事に赤坂にお連れしたいというお気持ちも伺ったことがあります」
そう語るのは、美智子さまと交流のあるメディアプロデューサーの渡邊満子さん。
4月12日から葉山御用邸に滞在されていた上皇ご夫妻は、4月26日に赤坂御用地の仙洞御所(旧赤坂御所)にお引っ越しされた。上皇ご夫妻が1960年(昭和35年)から33年にわたって暮らされていた思い出の家にお帰りになったのだ。
「上皇后さまは平成最後の歌会始に〈今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく〉という御歌を出されています。これは、ご高齢になられて、ご自分の体も衰えてきたことを実感されている。こうしたときに庭のバラの花をご覧になり、もう少し頑張ろうと思われたという御歌でした。やはり、上皇陛下を支えていこうと思われたお気持ちを詠まれたのだと思います」(渡邊さん)
引っ越しにあたって、エレベーターの設置などの改修工事が施された。ただ、私室部分こそ完成しているものの、すべての工事が完了したわけではないという。
「それでも、美智子さまは“一日も早く上皇陛下と赤坂に”との思いを強く抱かれており、工事中のままの転居となりました。その思いの背景には、上皇陛下がご在位中から、認知症が疑われる症状を訴えていらっしゃったこともあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
上皇ご夫妻の側近も、その症状を明らかにしている。上皇陛下の87歳の誕生日(’20年12月)には、次のように近況を公表している。
《お年を召され、上皇后さまにいろいろとお尋ねになることが多くなられたようにお見受けします。何度か繰り返されるご質問にもその都度丁寧にお答えになる上皇后さまと、それを聞かれご納得になるといつも明るい笑顔におなりになる陛下。時に、勘違いや戸惑いがあっても、一緒にお笑いになりながら、ご記憶を新たにされ、日々のご生活を確かなものとされています》
翌年に、88歳の誕生日にあたって公表された文書にも、次のように記されていた。
《ご高齢となり、時折お歳相応にお忘れになったり、ご記憶が不確かになられることはおありですが、いつも一緒にいらっしゃる上皇后さまにお尋ねになり、事実を確かめられては、「そうだったね」と笑顔で得心されるご様子をよく拝見します》
上皇陛下は平成の終わりごろ、式典で原稿の読み飛ばしに気がつかなかったり、段取りを忘れて立ちつくされたりしたことがあった。美智子さまは、そういった事態にも即座に対応されてきた。
退位後、“終の棲家”となる赤坂での穏やかな日々を心待ちにされてきた上皇ご夫妻だったが、想定外の事態が重なった。
「当初の予定では、ご退位後すぐに皇居から高輪皇族邸に引っ越され、’20年中には赤坂御用地への転居が完了しているはずでした。ところが、膨大な荷物の整理は遅れ、上皇ご夫妻の体調不良もあって、ようやく高輪に移られたのが’20年3月。しかもコロナ禍が深刻な状況となり、お引っ越し後は外出もご友人を招くことも難しくなってしまいました」(前出・宮内庁関係者)
美智子さまは上皇陛下のためにも、より多くの方々と交流する機会を持とうとされていたという。しかしコロナ禍で、外出も来客もない単調な日々が続き、上皇陛下の症状の悪化も懸念されたーー。
「そこで美智子さまは、さまざまな日課を作られました。起床後はまず、お庭を一緒に散策。朝食後には毎日、お二人で本の音読をされます。一冊の本を、交互にお読みになるのです。これまで読まれたのは大岡信『折々のうた』、パスカル『パンセ』、山本健吉『ことばの歳時記』、寺田寅彦『柿の種』などです。
夕方にも必ずご散策されます。上皇職や皇宮警察の職員と言葉を交わされ、周囲のマンションの住人と話されることもありました。ご夕食後には、上皇陛下は侍従とお話しになることを日課とされています。これは美智子さまの強いすすめで始められたそうです」(前出・宮内庁関係者)
引っ越しも完了し、ようやく実を結んだ美智子さまの奮闘ーー。上皇陛下との“思い出の場所”赤坂での、穏やかな暮らしが始まる。