“男も惚れる男の中の男”という言い方がありますが、具体的にどんな人を指すと思いますか?
今回ご紹介する「幡随院長兵衛」は江戸時代に実在した人物で、この人こそ“男も惚れる男の中の男”と現在まで語られています。
幡随院長兵衛
幡随院長兵衛は元和8年(1622年)肥前唐津藩の武士・塚本伊織の子として生まれました。本名は塚本伊太郎といいます。
主君が落城したため、父の伊織は伊太郎を連れて江戸へ向かいます。しかし旅の途中で病死してしまい、伊太郎は父の遺言により幡随院の白導和尚を頼って江戸に出ます。(これについては諸説あります)
武士を捨て、名を「幡随院長兵衛」と改めた伊太郎は浅草花川戸に住み、口入れ屋(大名や旗本への奉公人を斡旋する職業)を営むことになります。
幡随院長兵衛は人夫達を束ね扱るうちに、その腕っぷしや度胸のよさだけではなく仁徳により人々の信頼を得て、江戸の「町奴」達の頭領となっていったのです。
町奴、旗本奴とは
ここではまず「町奴」、そして「旗本奴」とは何かをご説明します。
旗本とは元来、徳川家康の家臣団の中でも将軍に直接謁見できるエリートの家格です。将軍に万一のことが起こった場合には真っ先に駆けつけるのがその使命でした。戦国時代には戦場において主君の軍旗を守る武士団を意味し、主君が最も信頼をおくのが旗本達でした。
ところが、徳川家康が征夷大将軍となり江戸時代になると、時代は戦のない平和な世の中となったのです。そのため旗本は戦場において主君を守り主君のために戦うという大事な仕事を失ってしまったのです。
旗本の仕事は江戸城の警備や将軍の護衛を任務とする「番方」、町奉行などの司法、行政、財政を担当する「文官」などに変わっていきました。
しかし旗本でも長男として生まれれば“家を継ぐもの”としての重責がありましたが、次男以下は他家へ養子にでも行かない限りは、親や長男に養われるという立場でしかなかったのです。
そのため旗本や御家人達は欲求不満に陥り、そのはけ口として奇抜な服装で町を闊歩しては鬱憤を晴らすようになりました。やがて「旗本奴」という集団となり、町中で喧嘩や揉め事を起こしては町人達を困らせていたのでした。
町人たちにとって「旗本奴」は自分たちよりも位の高い存在であり、無謀な行為に対しても反抗することは出来ず、「旗本奴」は町人たちに疎まれる存在となっていきました。
そのような状況の中、町人たちの中からそれに立ち向かおうとする人々が現れだしました。それが「町奴」と呼ばれる人達です。
「町奴」は“男伊達”を競うようになります。“男伊達”とは男の面目を保ち“弱きを助け強きをくじく”というものであり、本来の【任侠】の意味に通じます。
やがて町人の中にも「町奴」の“男伊達”に好意を持つ人達が現れはじめました。
しかし「旗本奴」「町奴」ともども、その傍若無人な行動は幕府から弾圧されていました。
「旗本奴」水野十郎左衛門
水野十郎左衛門は寛永7年(1630年)旗本・水野成貞の長男として生まれました。父・成貞も“かぶき者”であり初期の旗本奴でした。本名は水野成之といいます。
旗本きっての家柄であり、成之は江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に拝謁したこともあります。そのような然るべき役に就ける身分でありながら、成之は役付きを辞退しました。
そして江戸市中で「旗本奴」である“大小神祇組”を組織してその首領となります。旗本のなかでも特に暴れ者達を仲間に取り入れ、江戸市中を“傾いた姿”で闊歩し悪行の限りを尽くしたのです。
前述の通り、旗本という幕府側でも位の高い者たちであったため、誰も彼らには手出しできず、その行いはますます悪化するばかりでした。
それを「町奴」がそれを見過ごす訳がなく、「旗本奴」と「町奴」は激しく争うようになったのです。
後編に続きます