“男も惚れる男の中の男”という言い方がありますが、具体的にどんな人を指すと思いますか?
「幡随院長兵衛」は江戸時代に実在した人物で、この人こそ“男も惚れる男の中の男”と現在まで語られています。
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男も惚れる男の中の男!江戸時代に実在した傾奇者「幡随院長兵衛」を知っていますか?【前編】
「町奴」幡随院長兵衛と「旗本奴」水野十郎左衛門
「徳川実紀」という江戸幕府の公式史書に、明暦3年(1657)7月29日に旗本寄合水野十郎左衛門の屋敷で牢人(浪人)万随院長兵衛が切捨て御免で処刑されたという記事が記載されています。
歌舞伎の演目である『極付幡随長兵衛』は、河竹黙阿弥作の作であり、史実に忠実であったとされています。この演目を参考にして幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の争いの結末までをご紹介していきましょう。
『極付幡随長兵衛』ことの始まり「村山座舞台」
村山座で行われている歌舞伎の最中に酔った客が花道に上って芝居が中断してしまい、困った芝居番がそれを止めようとします。すると何故か旗本の水野十朗左衛門の家臣までが騒ぎに乗じて暴れだします。相手が侍のため周りの人達はどうすることもできません。
“こういう無法は見過ごせねぇ”と客席から立ち上がったのは町奴の頭領で男伊達として名高い幡随長兵衛(幡随院長兵衛)。この騒動を収めようとしますが、この侍は旗本奴「白柄組」の一員で、相手が日頃から対立する町奴の頭領だと気づくと逆上して斬りかかろうとします。
長兵衛はこれを逆に叩きのめし、満員の見物客はやんややんやの大喜び。
その一部始終を旗本奴「白柄組」の首領である水野十郎左衛門が桟敷席から見ていました。腸の煮えくり返るような思いで「きっと、覚えておれよ」と言い捨てて行くのでした。
「花川戸長兵衛内」
先日の芝居小屋での旗本奴との一件で、長兵衛の家ではいつ白柄組が仕返しに来るかと子分達が心配して集まっていました。
そこへ、水野の家来がやってきます。「酒宴を催すことになったので、ぜひ長兵衛にも来てほしい」とのこと。長兵衛はそれに快く応じます。
しかし子分たちは“これは罠だからいっちゃあいけません”と引き止めます。
駆けつけてきた兄弟分の唐犬権兵衛が“代わりに自分に行かせて下さい”と長兵衛に懇願します。
すると長兵衛は「志は嬉しいけれども、白柄組を怖れて逃げたとなれば、俺はいいとして、江戸中にいる兄弟分や子分が明日からこの江戸の町をどう歩かれると思う」と答えます。
そして「人は一代、名は末代の幡随長兵衛、ここが命の捨てどきだ」
つまり“人の人生は一度限りだが、名前は末代までも残るだろう”と言い放ちます。
そして子分達に早桶(棺桶)の用意を言いつけると、水野の屋敷へと死を覚悟で出かけるのでした。
「水野邸座敷」
単身やって来た幡随長兵衛に水野十郎左衛門は、“今までの遺恨は水に流して今後は友として付き合おう”と機嫌よく迎えます。
そして十郎左衛門は、昔は武士だった長兵衛の剣術のお手並みを拝見したいと言いだします。断りきれず立ち合う長兵衛でしたが、十左衛門の子分など相手にならない程の腕前です。
まともに勝負をしても無理だと感じた十郎左衛門は、長兵衛に酒を無理強いして、わざと長兵衛の袴に酒をこぼします。
すると十郎左衛門は汚れた袴が乾く間に、風呂に入って休んでくれと強引に勧めるのでした。
「水野邸湯殿」
長兵衛が浴衣に着替えて湯船に入ろうとしたとき、十郎左衛門の家来達が襲いかかってきます。丸腰では風呂場の柄杓(ひしゃく)で応戦するしかありません。しかし幡随院長兵衛は強かった。次々と家来たちを投げ飛ばします。
そこに大薙刀を手に水野十郎左衛門が現れます。そして“今日お互いの今までを水に流そうと今夜の酒宴を設けたのに、私の家来を剣術でやり込めるとは無礼千万。前言は撤回する”という訳の分からない理由をつけて、丸腰の長兵衛を殺そうとするのです。
ここで幡随長兵衛が語る言葉が素晴らしい名ゼリフなのです。
いかにも命は差し上げましょう
兄弟分や子分の者が 留めるを聞かずただひとり
迎いに応じて山の手へ 流れる水もさかのぼる
水野の屋数へ出てきたは もとより命は捨てる覚悟
百年生きるも水子で死ぬも 持って生まれたその身の定業(じょうごう)
卑怯未練に人出を借りず こなたが初手からくれろと言やあ
名に負う幕府のお旗本 八千石の知行取り
相手に取って不足がねえから 綺麗に命を上げまする
殺されるのを合点で 来るのはこれまで町奴で
男を売った長兵衛が 命惜しむと言われては
末代までの名折れゆえ 熨斗をつけて進ぜるから
度胸のすわったこの胸を すっぱりと突かっせぇ
「歌舞伎の名セリフ」より
これこそが「男伊達」、男も惚れる男の中の男ってやつじゃあないでしょうか。
幡随長兵衛は水野の槍を見事に胸に受けます。そこに長兵衛の迎えの者が早桶(棺桶)を持って来たとの知らせがきます。
その潔さに水野十郎左衛門は、“敵ながらも天晴。殺すには惜しいものだ”とつぶやきます。しかし十郎左衛門はまたもや幡随長兵衛をひと突きし、殺めてしまうのでした。
その後
幡随院長兵衛を殺害した水野十郎左衛門はこの件についてはお咎めなしでした。
しかしその7年後、水野十郎左衛門は行跡怠慢不敬不遜であるとして切腹を命じられ、わずか2歳の嫡子までもが殺されます。
幕府は厳正なる取締リ及び処刑・獄門によって「旗本奴」「町奴」を弾圧し続け、これにより武家階級による「旗本奴」の存在はやがて終焉を迎えます。
しかし当時はこの事件が江戸中に広まり、幡随院長兵衛が単身で相手のもとへ飛び込んでいく心意気は「男伊達」という江戸町人の美意識を大いに刺激しました。
そして幡随院長兵衛の生涯は歌舞伎、講釈をはじめ、明治以降は講談、落語、小説、映画、テレビドラマなど現代に至るまでに数多く脚色された作品を生み出すことになるのです。
(完)