前回までは水木しげるが紙芝居『墓場鬼太郎』を経て漫画『ゲゲゲの鬼太郎』を誕生させるまでを追いかけました。
→ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち】
今回からは、鬼太郎の原型である紙芝居『ハカバキタロー』を生み出した作家・伊藤正美と画家・辰巳恵洋はどんな人物だったかを探り、幻の紙芝居の実像に迫ります。
紙芝居を作った若者たち
街角で紙芝居屋が子どもに語る「街頭紙芝居」のブームは、太平洋戦争を挟んで2度ありました。第1次ブームは昭和5年頃から昭和10年代まで。第2次ブームは昭和20年代から昭和30年代前半までです。
『ハカバキタロー』(漢字表記は『墓場奇太郎』)が登場したのは昭和8年。『黄金バット』『少年タイガー』に続く、初期のヒット作となりました。
「紙芝居」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは「紙芝居屋のおじさん」でしょう。しかし彼らは、あくまで語り手であり飴の売人です。
紙芝居そのものを作ったのは「紙芝居作家」でした。厳密にいえば、物語を作る「作家」と絵を描く「画家」がいて、紙芝居という作品を作り上げたのです。しかし紙芝居作家が、漫画家のように世間に広く認知されることはありませんでした。
特に戦前は紙芝居自体が生まれたばかりで、有名作家や画家が関わることはなく、作り手は無名の若者が多くを占めていました。当時、紙芝居作家たちの平均年齢は、およそ25歳前後だったといいます。
そして、そんな紙芝居作家のなかに「伊藤正美」と「辰巳恵洋」がいました。
『ハカバキタロー』の作者たちです。
紙芝居の制作方法は、脚本と作画を分業するタイプと、両作業を一人で行うタイプがありました。「キタロー」は前者です。伊藤は脚本を担当し、辰巳は作画を担当しています。
つまり伊藤正美がストーリーを作り、辰巳がビジュアルをデザインしました。水木しげるの紙芝居版『墓場鬼太郎』が誕生する20年以上前のことでした。ただし、辰巳と水木のキャラクター・デザインは全く別のものです。
“鬼太郎の原型”を作ったのは、デカダンスな危険人物だった!?
まずはストーリーを作った伊藤正美が、どんな人物であったかを見ていきましょう。
伊藤正美は兵庫県神戸市出身。「関西学院にまなんでいたがデカダンスだった」と、加太こうじは著書『紙芝居昭和史』(岩波書店)に記しています。加太は紙芝居作家であり、水木しげるが「鬼太郎」を生み出すきっかけを作った人物です。
デカダンスは直訳すれば「虚無的・退廃的な生活態度」となるでしょうか。学生時代の伊藤についてはこんな逸話があったといいます。
・酒をよく飲んだ。
・神戸の元町通りで、店先にあったタヌキの置物を蹴飛ばしてこわした。
・交差点で手動の信号台に上がって、勝手に信号を送り、交通を大混乱させた。(当時は信号機がなく、交通巡査が整理していた)
・酔っぱらいを取り締まる警官に大八車にしばりつけられて、警察に連行された。
なにやらデカダンスというより暴れん坊ですね。では伊藤は危険人物だったかというと、必ずしもそうではないようです。伊藤は仲間と冗談を言い合うのが好きだったといいます。場を盛り上げるために、ちょっと話を盛ったのかもしれません。
当時、若き紙芝居作家たちは気の合う同士でグループを作り、喫茶店やミルクホールに集まりました。小説家志望や画家志望も多く、話題の中心は芸術論でした。
この頃の喫茶店は文化サロンであり、伊藤らもジャズやタンゴが流れる店で、文学や映画や紙芝居の未来について語り合ったのです。かといってまじめな話ばかりでなく、伊藤を中心に、文学論は冗談のやり取りへと脱線していきました。
神戸生まれの伊藤正美が、東京で紙芝居作家になるまで
そんな伊藤正美は、どのような経緯で紙芝居作家になったのでしょうか。
伊藤は兵庫県神戸市の小さな鉄工所の一人息子でした。ちなみに水木しげるが「鬼太郎」を書き始めたのも神戸。キタローと鬼太郎は、神戸の地に縁があるようです。
その神戸で育った伊藤正美は文学青年でもありました。昭和7(1932)年に雑誌の短編懸賞小説に応募し、佳作に選ばれます。
これでプロの作家になろうと決意した伊藤は、家出して上京します。画家である友人と一緒でした。
ところが東京へ来てみると、小説を書くあてはないどころか不況で職につけません。そんななかで友人の画家が、富士会という紙芝居製作所で絵を描く仕事をみつけてきます。
紙芝居製作所とは、いわば紙芝居の元締めです。作家や画家に紙芝居を書かせ、出来た作品を紙芝居屋に貸し出しました。映画に例えると製作会社と配給会社を合わせたような存在です。
その富士会は画家に、絵だけでなく脚本も付けよと条件を出します。すぐに使える紙芝居を書けるなら採用ということだったのでしょう。そこで画家は、伊藤に脚本を書いてもらいます。
すると富士会主の五島金之輔は脚本を気に入り、伊藤だけを採用しました。友人がどうなったかわかりません。ともかく伊藤は紙芝居の脚本を書く仕事を得ました。
おまけに伊藤は生涯の伴侶を得ます。五島の妹と出会い結婚することになったのです。
こうして紙芝居の脚本作家となった伊藤は、昭和8(1933)年、民話『飴屋の幽霊』をモチーフに『ハカバキタロー』を書きました。デビュー後すぐヒット作を生み出したのです。その後も『河童小僧』などヒット作を書いていきます。
また、昭和12(1937)年に十数社の紙芝居製作所が統合して出来た「大日本画劇株式会社」においては、編集部員として活動しました。
加太こうじの著書には伊藤正美の名が多く登場します。仲間のうちでも特に親しかったようです。だからこそ戦後、水木しげるに『ハカバキタロー』の思い出を語り、水木が「鬼太郎」を書くことに繋がったのかもしれません。
時代は紙芝居から絵物語、漫画へ
戦後の昭和21(1946)年、伊藤は、義理の兄でもある五島金之輔が創立した紙芝居製作所「画劇文化社」に参加します。画劇文化社は伊藤と辰巳を中心におき、新たな紙芝居を製作しました。伊藤は経営者の1人にもなっています。
画劇文化社は『冒険活劇文庫』(明々社)にも関わります。『冒険活劇文庫』は昭和23(1948)年に創刊された絵物語雑誌で、主に画劇文化社系の紙芝居作家が、絵物語を執筆したのです。そして画劇文化社ルートで、紙芝居屋がこの本を売ることもありました。
絵物語とは、紙芝居作家でもあった山川惣治の『少年ケニヤ』に代表される児童向け出版作品。昭和20年代に大ブームとなりました。『冒険活劇文庫』においては、永松健夫『黄金バット』や小松崎茂『地球SOS』が大ヒットしています。
『冒険活劇文庫』の人気は数年続きますが、昭和25(1950)年に『少年画報』と改題され、漫画雑誌へと変化していきます。
子どもの娯楽の中心は、紙芝居から絵物語を経て、漫画へと移ろうとしていました。
手塚治虫が登場し、ストーリー漫画の時代がやって来たのです。
時代が変化するなか、伊藤は昭和29(1954)年に、実演者(紙芝居屋)、制作貸元、作家・画家、教育紙芝居関係者を集めて「文化クラブ」を結成します。機関誌を発行するなど、紙芝居の作り手とファンのために働きました。
しかし昭和30年代後半までに街頭紙芝居の火は消えていきます。その後の伊藤の人生は詳しくわかりません。水木しげるが貸本漫画『墓場の鬼太郎』を書くことを諒解しますが、本人は創作の世界から離れたようです。
それでも伊藤正美が、紙芝居はもちろんのこと、日本の子ども向けエンターテインメントの発展に寄与した人物であることは間違いないといえるでしょう。