好評放送中のテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』。原作者は水木しげるです。今回が6度目のアニメ化となる国民的妖怪漫画を知らない人はいないでしょう。しかし、そのはじまりが紙芝居にあることを知る人は少ないかもしれません。
今回は、どんな経緯で紙芝居版『鬼太郎』は生まれたのか、そして鬼太郎の原型となる幻の紙芝居『ハカバキタロー』はどんな紙芝居だったのかをご紹介します。
鬼太郎とキタロー
昭和初期から昭和30年頃まで街頭紙芝居が子どもに大人気だったことは、『昭和時代の娯楽の王様だった紙芝居屋のおっちゃんはいったい何者だったのか?』でお伝えしました。
その紙芝居が、戦後起きた第二次ブームの最中だった昭和29(1954)年。当時32歳で紙芝居作家を生業としていた水木しげるは、作品の一つとして『墓場鬼太郎』を生み出しました。これが『ゲゲゲの鬼太郎』の前身となります。
さらに遡って昭和8(1933)年、『ハカバキタロー』という名の紙芝居が人気を集めていました。漢字表記の場合は『墓場奇太郎』になります。「鬼太郎」ではなく「奇太郎」です。物語を作ったのは「伊藤正美」という紙芝居の脚本作家。作画は「辰巳恵洋」という紙芝居画家が担当しました。
そう、水木しげるが描き始める20年以上前に、鬼太郎の原型となるキャラクターと物語が存在したのです。
ここで「なんだ、水木オリジナルじゃないのか」とガッカリするのは早計ですよ。
伊藤&辰巳の『キタロー(奇太郎)』をヒントに『鬼太郎』を描き始めたことは水木自身が明言しています。『墓場の鬼太郎』と改題して漫画化する際は、伊藤正美の諒解を得ています。きちんと筋を通しているんですね。
それでもなお、『キタロー』は『鬼太郎』の大切なルーツではあるが、2つは別の作品だということができます。果たして『ハカバキタロー』とはどんな物語で、どんな経緯を経て『ゲゲゲの鬼太郎』へと変化していったののでしょうか。
前置きが長くなりましたが、まずは水木しげるが紙芝居に出会い『ゲゲゲの鬼太郎』を生み出すまでをのぞいてみましょう。
それは「水木荘」からはじまった
昭和25(1950)年に兵庫県神戸市で、当時の紙芝居業界の大物「加太こうじ」、紙芝居の語りの名人「鈴木勝丸」、そして駆け出しの紙芝居作家だった「武良茂」(のちの水木しげる)が出会ったことによって『ゲゲゲの鬼太郎』が生まれることになります。
この3人が繋がるきっかけは「水木荘」という名のアパートでした。
水木荘とは何なのか?順を追ってご説明します。第二次世界大戦が終わり戦地から帰還した青年・武良茂は、様々な職を転々とした後、昭和25(1950)年頃から神戸市でアパート経営をすることになります。そのアパートは「水木通り」の前に建っていたので、茂は「水木荘」と名付けました。
このアパートの住人は変わり者ばかりでした。国際ギャング団の一員や空き巣の常習犯までいて、家賃を滞納されることも多かったようです。そんな住人の一人に、紙芝居作家を生業としていた男がいました。
茂は、かねてより「好きな絵で食う生活がしたい」と願っていました。そこで、この紙芝居作家に「貸元」と呼ばれる紙芝居の元締めの一つ「林画劇社」を紹介してもらい、紙芝居作家になります。茂にとって、またとない幸運でした。
紙芝居作家「水木しげる」誕生
紙芝居を書き始めてまもなく、茂は林画劇社の顧問を勤めていた鈴木勝丸と知り合います。
鈴木勝丸は、明治37(1904)年に東京・神田に生まれた生粋の江戸っ子。紙芝居の草創期から「説明者」として活躍しました。説明者とは、いわゆる「紙芝居屋のおじさん」のことです。
鈴木は語りの名人でした。「勝丸調」と呼ばれる名調子が評判を呼び、彼が語る紙芝居のレコードが発売されたほどです。芸達者であり紙芝居に情熱を傾けた人物だったものの、商才はありませんでした。金銭面で苦労した鈴木は、戦後、妻の実家がある神戸に移り住みます。
その後も関西の紙芝居業界に関わり、武良茂と出会うことになったのです。
鈴木は独立して「阪神画劇社」を立ち上げます。その際、新人だった茂を専属作家として招き入れました。
この辺りから茂は「水木しげる」を名乗るようになります。その原因も鈴木勝丸でした。鈴木は武良茂という名前を一向に覚えず、アパート名から「水木さん」とばかり呼んだのです。いちいち訂正するのが面倒になった茂は「じゃあ水木でいいや」と思ったといいます。そして結局「水木しげる」が生涯のペンネームとなったのでした。
ちなみに鈴木勝丸は、ドラマ『ゲゲゲの女房』に登場する紙芝居屋・杉浦音松のモデルだといわれています。
こうして紙芝居作家になった武良茂改め水木しげるに、鈴木はある頼み事をします。東京から加太こうじという男が来るので、水木荘に泊めてほしいというものでした。水木はこの願いを聞き入れ、以後、加太が関西に来る度に水木荘に泊めることになりました。
加太こうじは、紙芝居草創期の昭和6(1931)年に10代で画家として紙芝居の世界に飛び込み、いくつもヒット作を生み出した人物です。紙芝居の代名詞的作品『黄金バット』にも関わっています。戦後のこの時期には、紙芝居業界の中心人物になっていました。
そんな加太が、水木に絵の描き方など紙芝居の基本を教えました。この後2人の交流は続きます。
こうして「水木しげる・鈴木勝丸・加太こうじ」のトライアングルが完成したことが、『ゲゲゲの鬼太郎』誕生の第一歩となるのでした。
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