前回までは「干支で数える時刻」についてご紹介してきましたが、今回は「数で数える時刻」についてご紹介していきたいと思います。
今までの記事についてはこちらを御覧下さい。
→太陽と月が生活基準。江戸時代の時刻を知れば江戸がもっと楽しくなる【その1】
→干支の時刻を描いた浮世絵。江戸時代の時刻を知れば江戸がもっと楽しくなる【その2】
それにしても、何故江戸時代には2つの時刻があったのでしょうか?今回はこの件について考えていきます。
2つの時刻が存在した理由とは
江戸で幕府を開いた徳川家康は、以前よりかわいがっていた奈良興福寺の蓮宗という人物を江戸城に招き入れました。そして家康が蓮宗に何か望みはないかと聞いたところ、『時を知らせる太鼓を叩く役目をしたい』と申し出たのです。家康はそれを聞き入れ、蓮宗は“卯の正刻(午前6時頃)”と“酉の正刻(午後6時頃)”の日に2回、時を知らせる役目を任じられ太鼓が鳴らされるようになりました。
徳川二代将軍秀忠の頃には2時間ごとに鳴らされるようになり、その役目は蓮宗の子孫が担うことになりました。
そしてその子孫である辻源七という人物が、寛永3年(1626年)日本橋本石町3丁目に約200坪の土地を拝領し、鐘撞堂を建て鐘を撞いて時を知らせるようになりました。これが江戸で最初の「時の鐘」となったのです。
その後次のような川柳が詠まれることになります。
「石町は江戸を寝せたり起こしたり」
それまで町人たちは日が昇って明るくなれば起き出して働き、暗くなったら寝るというシンプルな生活をしていました。
それが日本橋本石町に鐘撞堂が出来て“時の鐘”が撞かれるようになると、江戸の人々に時刻という観念が定着していったのです。
その後、江戸の町中では9箇所の寺社で「時の鐘」を鳴らすようになりました。そして鐘の聞こえる範囲の町々からは「鐘役銭」という名目でお金を徴収し、維持費にしていました。
お金を支払うことにもなれば、町人も「時の鐘」を重要視したことでしょう。
基本的に武士は「十二支で呼ばれる十二時辰」を時刻として使用していました。“時計”というものは大名や豪商などの一部の特権階級と言われる裕福な家が持つ贅沢品だったのです。
しかし江戸の町に「時の鐘」が鳴り響くようになって、初めて民衆の中に「数で時刻を数える」という感覚が浸透していったのです。
数での時刻の数え方
鐘で時刻を知らせる時、最初にこれから「時の鐘」が鳴るという合図として3回鐘が鳴りました。そしてその後時刻の数の鐘が鳴ります。時の鐘は十二時辰の“正刻”に鳴らされました。
1日が始まる午前0時は十二時辰でいう“子の正刻”となり、それを“真夜九つ”と言います。
何故、最初の時刻が“九つ”から始まるのかというと、中国の陰陽の思想に関連しています。中国では奇数を“陽数”とし、奇数の中で一番大きな“9”は一番縁起の良い数字とされてきました。そのため一日の初めの時刻に“9”という数字を当てはめたのです。
そして“9”から始まり時が経つにつれ、“8,7,6,5、4”まで字面の上では、数字としては少なくなっていきます。
しかしこれは減っているのではなく増えているのです。つまり「真夜九つ」が終わり、次は2番目の時間帯だから、“9×2=18”という考え方によるものです。
しかし18回も鐘を撞くことで、人々に正確に時刻を知らせるのは無理があるということから、下の桁数の“8”を時刻として、“真夜九つ”の次は“夜八つ”とし、下の桁の“8”を時刻の数え方として採用したのです。
そのように下の桁数の“8,7,6,5,4”という数字を、1日の始まる「子の刻」を「真夜九つ」とし、それに続いて「夜八つ」「暁七つ」「明け六つ」「朝五つ」「昼四つ」としたのです。
では「昼四つ」から数がまた「真昼九つ」と飛ぶのは何故でしょうか。
それには1日が始まる“午前0時・真夜九つ”から6つ目の時間帯までを1日の初めの半日とし、そして次の時間帯からを終わりの半日の始まりと考えて、また「真昼九つ」から始めたという説が有力です。
上掲の表は基本的な考え方です。※1の「現代の時刻」はおよその時刻であり、必ずしも「江戸の時刻」と通年対応するのではありません。
前述してきたとおり、昼と夜を日の出およそ30分前を丑の刻(明け六つ)と日没の30分後を酉の刻(暮れ六つ)で分けているため、夏至と冬至では昼と夜の時間が違うように、現代の時刻と江戸の時刻はずれが生じます。それが江戸の時刻なのです。
今から400年ほど前までは、一般庶民には時刻という感覚がなかったというのは不思議な気もしますね。
「その4」につづきます。