2021年2月、ユニクロが発表したTシャツのコレクションが、SNS上でプチ炎上しました。
批判を浴びたのは、ユニクロがパリ・ルーヴル美術館とコラボレーションし、モナ・リザやミロのヴィーナスといったルーヴル美術館収蔵の有名作品をデザインに使用したシリーズです。
ウィメンズ・コレクションのテーマは「ブロッサムオブダイバーシティ」。アート作品に花をあしらい、タイポグラフィー(文字)と組み合わせたオリジナルのデザインです。
一方のメンズのテーマは「アートアンドロジック」。こちらは、作品に幾何学模様が組み合わされたもので、ウィメンズ・コレクションの紹介テキストにはこのように書かれていました。
《パリにあるルーヴル美術館の収蔵品コレクションより、多様性溢れる魅力的な女性たちをモチーフとした作品を厳選。巨匠たちによるファインアートを再解釈し “美” をより引き立てたスタイリッシュなデザインに生まれ変わらせました。》
一見、特段当たり障りのないように感じられるただの商品紹介ですが、これに対して当時のTwitterでは、おおむねこのような批判的なつぶやきが見られました。
「白人男性が描いた白人女性の絵画ばっかり」
「男性が理想化した女性像でしかない」
「多様性の意味、知ってます?」
「女性向けは花で、男性向けは幾何学模様とロジックってステレオタイプすぎ」
「女性をモチーフにした作品の多くが性差別を背景に描かれてきたし、作者は特権的な立場にある男性芸術家だし、彼らが描くのは画一化された理想の枠を出ない女性像なわけで、女性と多様性っていうテーマに全然合ってないんですけど!」
このように怒っている人を見ると、逆に「どうして、こんなことに怒るんだろう?」と疑問に思う人もいるかもしれませんが、実は、これらのつぶやきは、フェミニズムというツールを使ったアートの読み解きを下敷きにしています。
しかし、こうした批判をものともせず、この服自体は即完売になるほどの人気ぶり。むしろ、「またフェミニストが怒ってるよ」と、フェミニストに呆れて揶揄するようなつぶやきも目にしました。
このように、アートも、フェミニズムも、そしてアートにおけるフェミニズムも、まだまだ「みんなのもの」には程遠いのが実態です。
国内最強・最大手の衣料品量販店が美術館とのコラボレーションプロジェクトの際に、フェミニズム的な批判に先回りし、配慮することができるほどには、アートにおけるフェミニズムの視点は普及していないのです。
では、この炎上で指摘されているようなことが「なぜ批判されるべきなのか」ということについてお話しします。
■ツールとしてのフェミニズム「よそ者化」
実はフェミニズムは単一のツールというよりも「ツールボックス」に近いのです。フェミニズムという「ツールボックス」に入っているのは、フェミニズムが発見した、社会的な問題の背後にある構造や力をあぶり出すキーワードです。
たとえば、「よそ者化(othering)」というツールがあります。
そもそも、人間の文明社会では、その構成員となるひとりひとりを、ある属性に基づいて「わたしたち(us)」と「わたしたち以外(them)」に分けることがよくあります。
例えば「国」や「家族」などの共同体は、「わたしたち(うち)/わたしたち以外(よそ)」という境界線によって成立しているものの一例です。「よそはよそ、うちはうち!」と言って、家庭(うち)のルールを強調することがあるように、この言葉は(架空の)境界線を強くはっきりと引く効果があります。
同じような方法で、境界線のこちらとあちらに、「わたしたち・男」/「わたしたち以外・女」というようにジェンダーを割り振る「線引き」の作用や行為を、フェミニズム批評では「他者化」や「他人化」「よそ者化」と呼びます。
その「よそ者化」とアートにどのような関係があるのかというと、実はアートはこの「わたしたち(うち)/わたしたち以外(よそ)」という想像上の境界線を可視化するという機能を担い、差別的な構造の強化に加担した歴史があります。
■「怪物」は女性と結びつけられてきた
この「よそ者化」があらわれているのが、アート作品における「怪物」の表現です。
例えば、女性の頭と乳房を持ちそれ以外の部分が鳥の怪物ハーピー(ハルピュイア)や、上半身は女性で下半身が鳥や魚として描かれるセイレーン、女性の頭と乳房に、獅子の身体を持つスフィンクス、そして、目が合った人を石にすることで有名なメデューサは、頭髪が蛇、歯は猪、大きな黄金の翼と醜怪な顔を持つとされています。
このように、神話に登場する「半人半獣」の怪物は、その多くが、女性の性を割り当てられています。そのうえで注目してほしいのは、女性という性を割り当てられた怪物の「性格」や「特徴」がどのように表現されてきたのか、ジェンダーと結びついたのはどんなキャラクターだったのか、ということです。
例えば、男の性を与えられたケンタウロスの場合、「酒と女が好きな粗暴な種族」でありながら、なかには賢者もいて、ギリシャ神話における英雄たちの教育を任されたと言われています。
一方、女の性を割り当てられた怪物であるハーピーは、まずその名前が「かすめる女」の意味を持ちます。飢えて青ざめた顔をし、触れるものすべてを汚し、食物を食い散らかして排泄物で汚す「死の精」とされています(ひどい)。
このように、卑しい怪物だけでなく、「自然」や「家庭」に女の性を割り当てる言説や物語、それを視覚化したアートは、「ジェンダー・ステレオタイプ」、つまり、ジェンダー(性)に基づく【らしさ・こうであろう・こうであるべき】の可視化にほかなりません。
一般的に「ジェンダー・ステレオタイプ」と言えば、「女性は子供を産むべきだ」「男性なんだから身体を鍛えて強くなれ」といった生物学的なものから、「女の子はピンクが好き」「男の子は戦隊モノが好き」といった社会的な思い込みまであります。
でも、もちろん現実には、一見して、ある人が男性なのか女性なのかわからないことなんてよくあるし、ピンクが好きな男の子や戦隊モノが好きな女の子、そして子供を産まない女性も、強さに憧れない男性もいるわけです。
現実の世界の男と女の間には、はっきりと目に見えるような線が引かれていることはありません。本当は、性はグラデーション的なものであり、生物学的なものであれ、社会的なものであれ、性に基づく【らしさ・こうであろう・こうであるべき】という考え方で境界線を引いて、単に二分することはできないのです。
しかし、そうした現実に存在している多様性よりも、性に基づく【らしさ・こうであろう・こうであるべき】という観念のほうを優先し、それを理由に「わたしたち・男性」と「わたしたち以外・女性」には線引きが行われてきました。
アートのなかには、このように「線引き」しておきたいという欲求が現れているものが、実は少なくないのです。
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以上、村上由鶴氏の新刊『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書)を元に再構成しました。美学研究者が、フェミニズムを使ってアートを読み解きます。
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