守備の名手と謳われる選手の手元には、必ずや使い込まれたグラブがある。その “相棒” について、ある選手は「技術を高めてくれるもの」と語り、別の選手は「手で捕っているかのように、体の一部になっている」と表現する。
そのグラブの「型付け職人」として60年近く選手たちを支えてきたのが久保田スラッガーの江頭重利氏(89)である。江頭氏は1952年に同社に入社。新品の硬いグラブを湯に浸し、木槌で叩いてほぐした後、選手それぞれの手に合わせて揉み込むという「湯揉み型付け」という技法を生み出した。
顧客には石毛宏典氏、辻発彦氏らレジェンドから、現役組まで数多い。2012年には「現代の名工」を、2013年には「黄綬褒章」を受章。福岡支店長を経て、現在は同社の顧問を務めている。
福岡の “グラブの神様” のもとに、ある高校生から一通の手紙が届いたのは1988年のこと。江頭氏が述懐する。
「高校生でここまで細かいリクエストは珍しいですね。ほかの高校生からもリクエストはありましたが、型番と色を指定するくらいでしたから」
じつは江頭氏が語る高校生とは、今季日ハムの新監督を務める “ビッグボス” 新庄剛志(50)だ。
「彼が、西日本短大附属高の2年生だった秋だと思います。当時、既製品の硬式グラブは2万7、8000円でしたが、オーダー品だと3万5、6000円と高価でした。彼にとって初のオーダー品だったようです」
新庄が手紙を出したきっかけは、父・英敏さんの存在だった。
「野球に熱心な方で、店にもよく来てくれていました。新庄君は中学のころ2、3回来たくらい。お父様とはよく話しましたが、本人と話した記憶はあまりありません。
当時はひょろっとしていましたが、大きいなといった印象。まだ中学生でしたので、今のようにしゃきしゃき話すのではなく、おとなしい感じでした」
オーダーされた外野手用のグラブは、新庄のこだわりが詰まったものだった。
「グラブの色を裏と表で変えたいと。また、うちのモデルでは親指のクッションのために、『S』の形の革を貼りつけていたんですが、それを小指側に入れてほしいと。デザイン的にそっちのほうがカッコいいと思ったのでしょう」
当時は、今ほどグラブの規制が厳しくなかったことも背景にある。
「ネームの刺繍の書体は楷書を指定し、位置もリクエストしてきた。繰り返しますが、こんな高校生はほかにいなかったし、今の新庄君のスタイルに繋がっているんだとあらためて感じます。道具に思い入れをもって大事にする。それは中学、高校時代から変わっていないと思いますね」
とくに驚いたのが、「フィットボックスにはいれないで下さい」というひと言だった。
「うちでは購入していただくと、型付けをした後に乾燥させます。すると硬くなるので、フィットボックスに入れて蒸気を当ててある程度湿気を持たせ、また柔らかくするんです。新庄君は柔らかくすることを嫌がったんだと思いますね。
かと思えば、普通のグラブの長さよりも2cm長くしてほしいということでしたが、そこまで大きくしたら違反なんですよ(笑)。だから5mmほど長くしましたが、それでも大きかったと思います。
また、リクエストの手紙を読むと、熱意は十分に伝わってきましたが、封筒の糊付けはテープではなく絆創膏。これも、のちのエンターティナーの片鱗かもしれません(笑)。あと、スラッガーのグラブをプロに入っても使い続けたという噂がありますが、あれは間違いで、高校までです」
久保田スラッガーのオーダーメイドのグラブで、白球を追いかけた高校時代。守備の名手としての基礎が、このころに築かれたのは間違いない。
新庄は1月27日、球界の守備のスペシャリストを表彰する「三井ゴールデン・グラブ レジェンズ」に、外野手部門で選出された。
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