北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1〜2名が犠牲となっている。
しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。今回改めて凄惨な事件の経緯を振り返り、現場を歩いてみた。
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「風不死岳ヒグマ事件」は、昭和51年(1976年)6月9日、千歳市支笏湖畔の風不死岳(ふっぷしだけ)にタケノコ採りに入山した11名のうち、3名がヒグマに襲われ、2名が死亡、1名が重体となった事件である。
風不死岳では、事件発生の数日前から伐採作業員が襲われるなどの事故が続発しており、警察や千歳市が警戒を呼びかけていた矢先の惨事であった。
当時の北海道新聞の記事と『ヒグマ 北海道の自然』(門崎充昭 犬飼哲夫著、北海道新聞社)を参考に、事件の概略をたどってみよう。
空知管内の栗山町では、田植えが一段落すると、慰労を兼ねて温泉に出かける風習があり、地元ではこれを「ドロ落とし」と呼んでいた。当該事件は、この「ドロ落とし」の時期と重なり、事件に遭遇した11名も、かねて「ひと雨来たら、風不死岳に山菜採りに行こう」と相談していたという。
6月8日夜に降り始めた雨は、翌日にはカラリと晴れ上がり、山菜採りには絶好の機会となった。3台の車に分乗した一行は、午前9時に風不死岳に向けて出発した。彼らのなかには、前年にも同山で山菜採りをした人がいて、「勝手知ったる山」という雰囲気であった。ヒグマが出没していることも把握していたという。
午前10時半、国道276号線「支寒内」(シシャモナイ)の沿道に車を停め、正午に車で落ち合う約束を交わして各自入山した。付近は身の丈以上もあるネマガリダケが密生しており、一歩を踏み出すのも容易ではないほどであった。
正午になり、それぞれが麻袋にいっぱいのネマガリタケを収穫して車に戻ってきた。
しかし、相馬春男(58)、高橋朝雄(54)、堀田幸蔵(26)の3名が姿を見せない。心配した一行のうち2人が、3名を探しに再び山に入った。すると、国道から200メートルほどの笹藪で、全身血まみれで倒れている堀田を発見した。後頭部を一撃され、両足の肉が食いちぎられており、ヒグマに襲われたことは一目瞭然であった。
両名は堀田を担ぎ出し、車で病院へ搬送した。同時に通りがかりの車に、警察に通報を依頼した。
彼らは相馬、高橋を探すため、再度、恐る恐る山に入っていった。そして堀田を救助した地点から15メートルほどの場所で、高橋がうずくまっているのを発見した。しかし、付近にヒグマの気配があり、助け出すことができず、いったん車に戻った。
午後3時頃、警察官11名とハンター7名が到着した。高橋の倒れている地点にさしかかると、笹藪から突然、ヒグマが現れて捜索隊に襲いかかった(別の目撃情報によれば、ヒグマが高橋を食害しているところに行き会わせたともいう)。とっさに3名のハンターが、5メートルの至近で発砲した。ヒグマは遁走したが、10メートル先で致命弾に斃れた。
最初の発見時に瀕死であった高橋は、現場で死亡が確認された。さらに午後5時頃、そこから50メートル離れた地点で、相馬の遺体が発見された。両手足の肉がほとんど食い尽くされ、頭部に大きな裂傷があるなど、警察署員も顔を背けるほどの惨状であったという。
2名の死因はいずれも外傷性失血死で、遺体の硬直状況から、ヒグマはまず相馬を襲い、次に高橋、最後に堀田を襲ったと推測された。
射殺されたヒグマは推定4歳のメスで、体長1.6メートルと小柄であった。歯と歯の間には人毛がからまっていたという。
前述のとおり、この事件の数日前から、風不死岳では、ヒグマによる人身事故が続発していた。
6月4日午後2時半頃、事件現場から4キロの風不死岳9合目付近で、笹藪の伐採をしていた作業員が、腰や太ももなどを噛まれて大ケガを負った。
また翌5日の午前9時半頃にも、苫小牧市から山菜採りに山に入ったグループが襲われ、一名がふくらはぎを噛まれて2カ月の重症を負った。
いずれも当該事件を起こしたヒグマによるもので、状況から判断して、もしも仲間が助けに来なければ、彼らも食われていた可能性が高い。
これらの事件を受けて、道警は各署に警戒を強めるよう通達しており、千歳市も「付近に立て札を立て、広報車で入山しないよう呼びかけていた」という。このため事件を大々的に報じた北海道新聞の論調は、やや自己責任論的である。
ヒグマの生態に詳しい犬飼哲夫北大名誉教授は、次のようなコメントを寄せている。
《支笏湖周辺は、実はクマの巣といっていい。相当な深い山でクマは隠れやすいし、エサも豊富にある。それだけにクマにとっては環境がいいわけだ。
今春、あの近くで大グマが一頭とられている(筆者注:4月4日に風不死岳山頂付近で仕留められた体重430キロの巨大なヒグマ)。つまり一頭のナワ張りが “空き家” になり、当然、その空いたナワ張りに新しいクマが入り込んでいたはず。(中略)クマもナワ張りの防衛に必死で襲ったのだろう》
一方で、この年は「クマの動きが例年と違う」という指摘があった。
全道的に雪解けが遅く、それにともなってクマの冬眠明けも遅れ、山菜採りが盛んになる5月中旬以降に活発になると予想されていた。加えて、全道的にタケノコが少ない年でもあり、山菜採りの人々が山奥に足を踏み入れることから、ヒグマと遭遇する確率が高かったことも事件の背景にあったとされている。
現在の事件現場はどうなっているのだろうか。
国道276号線を西へ車を走らせる。右手に支笏湖が広がり、快適なドライブである。標識に注意しながら走っていると「支寒内」の文字が目に飛び込んできて、あわてて車を停める。左手には風不死岳麓の鬱蒼とした樹林が沿道まで迫っていて、駐車スペースにもこと欠くほどである。
登山道近くには釣り人であろうか、軽RV車が停まっていた。人家は果てしなく遠く、たとえヒグマに襲われても助けを呼べるような場所ではなかった。
4時間半に及ぶ大手術の末に一命を取り留めた堀田は、「自分の足が食われているのが見えた。首が食いちぎられるかと思った」と、襲撃の恐怖を語っている。
「恐ろしかったが、ここで気を失ったらおしまいだと思い、大声で叫びながら必死で抵抗すると、間もなくヒグマが逃げた。獣のほえ声をまねるように叫んだら、クマは離れていった」
自らの肉体が食害されているにもかかわらず、機転を利かせてヒグマを退散させた気丈さが、命を救ったと言えるだろう。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
写真・文/中山茂大
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