北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1~2名が犠牲となっている。
しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。今回改めて凄惨な事件の経緯を振り返り、現場を歩いてみた。
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史上最悪の熊害事件とも言われるのが、「苫前三毛別ヒグマ事件」だ。
この事件は、大正4年(1915年)12月8日、苫前町三毛別において、巨大な雄のヒグマが6名(胎児を入れると7名)を殺害、複数の遺体を食害し、3名に重症を負わせるという、史上まれに見る凶悪な事件である。
現地名は非常に長い。「手塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地六号新区画開拓部落六線沢」というものだが、一般には「六線沢」で知られている。
六線沢には明治43年(1910年)頃から、隣の鬼鹿村や秋田県河辺町などから15戸、40名あまりが入植していた。しかし、事件後、すべての農家が転居してしまったという。
日本史上最悪の獣害事件として、あまりにも有名なこの事件の経緯を、主に『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い羆』(木村盛武)をもとに、改めて追ってみよう。
六線沢部落では、この年11月初め頃から、軒下に干したトウモロコシが荒らされる被害が続出していた。農家は部落のマタギに頼んでクマを仕留める算段を立てた。しかし、運悪く仕留めることができず、クマは手負いのまま逃走した。この不運が、後の惨劇につながった。
事件現場を最初に発見したのは、太田三郎家の雇い人、永松要吉であった。山仕事から戻った要吉が、昼食を取りに家に入ったところ、囲炉裏端にたたずむ男の子のただならぬ様子に気づいた。
のどの一部がえぐりとられて血が盛り上がり、側頭部に親指大の穴があいていた。一緒に留守番していた内妻マユの姿はなく、おびただしい血痕が残る寝具と、血糊のついた斧が残されていた。
事件の発端となった現場の様子を、吉村昭は小説『羆嵐』で次のように表現している。
《「おい、見ろ」
一人の男が、窓を凝視した。
蓆(むしろ)の垂れた窓の枠板がはがれ、新しい木肌をのぞかせた裂け目に血がしみついている。かれらは、窓に近づいた。こびりついた血に黒い藻のようなものがまじっている。それは、根からぬけた数十本の長い毛髪だった。髪が板の破れ目にからまって強くひかれたために、ぬけたものにちがいなかった。
(中略)一人の男が、ためらいながら蓆をまき上げて窓の外をうかがった。視線が雪の上に据えられ、徐々に前方の山林に伸びた。
粉雪が舞っていて、雪の表面の乱れは消えていたが、わずかなくぼみが太い筋になって窓の下から道を横切り、トド松の林立する山肌に這い上がっている。北国の日没は早く、林の中はわずかに昏(たそが)れはじめていた。
「クマだ」
男の口から低い声がもれた。》
翌日の9日には部落全体に事件が知らされ、30名ほどの山男が、早朝からマユの血痕をたどって山に入った。そして150メートルほど先のトド松の根元に足と毛髪を発見した。マユは膝から下の両足と頭蓋骨以外すべて食い尽くされていた。
一同はマユの遺骸を回収し、通夜を営むことにした。参列したのは、たったの9名であった。他の者はヒグマを恐れて太田家には近づかなかったのである。
そして、恐ろしいことに、その通夜の席にまたしてもヒグマが侵入した。太田家は棺桶がひっくり返るなど大混乱に陥ったが、幸いにもヒグマはすぐに姿を消した。
このとき、部落の女子供は、家が広く比較的安全と思われる明景安太郎家に集まっていた。明景家は太田家から500メートルほど下流にあったが、太田家の方角から異様な騒ぎが伝わってくると、人々は恐れをなし、囲炉裏に大量に薪をくべて警戒した。
午後8時50分頃、明景家の妻ヤヨが囲炉裏に大鍋をかけたときのことであった。巨大な熊が、窓を突き破り、明景家に侵入した。焚き火はかき消され、ランプは消えて、室内は漆黒の闇となった。ヒグマは女子供を次々に襲った。上流に住む斉藤石五郎の妻タケは臨月であったが、羆は容赦なくタケを襲った。
「腹破らんでくれ。のど食って殺して」
タケはそのように絶叫したと伝えられている。
生き残った明景家の長男、力蔵は米俵の陰に身を潜めていた。
《“力蔵” は隠れながら、むごたらしい殺戮の音を聞くまいとした。
だが聞くまいと焦れば焦るほど、断末魔のうめき声と救いを求める婦女や子供の叫び、人骨を咬み砕く不気味な音が耳を打った。また、見るまいと思っても、熊は目と鼻の先、顔はいつしかそちらにむいてしまうのであった。
バリバリ、コリコリ……
あたかも猫が鼠を食うときのような、名状しがたい不気味な音がする》(『慟哭の谷』)
明景家にクマの討伐隊が到着したのは、このようなときであった。
家の中からは女子供の泣き叫ぶ声やうめき、人骨を咬み砕く異様な響きが聞こえてくる。しかし、発砲すると生存者に当たる危険がある。男たちはなすすべもなく、家の周囲を右往左往するだけであった。1時間ほど経った頃、人の気配が消えた。マタギが空に2発放つと、ヒグマが家から躍り出し、悠然と闇に消えていった。
討伐隊が明景家になだれ込むと、屋内は足の踏み場もないほど荒らされ、血しぶきが天井にまで達していた。殺害された斉藤タケと4男の春義、明景家3男の金蔵の3名は布団や蓆などで覆われていた。瀕死であった斉藤家3男の巌は、左臀部が骨だけになるほどの重症を負って助け出されたが、20分後に死亡した。
この惨劇から3日後、巨熊は鬼鹿村の鉄砲撃ち山本兵吉によって討ち取られた。12月14日午前10時のことであった。
《熊は金毛を交えた黒褐色の雄で、身の丈2.7メートル、体重340キロもあり、胸間から背にかけて袈裟掛けといわれる弓状の白斑を交えた大物である。推定7、8歳、前肢掌幅20センチ、後肢掌幅30センチ、その爪はまさに鋭利な凶器であった。頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことはないという》(『慟哭の谷』)
越後国塩沢地方の民話奇伝を記録した『北越雪譜』には、次のような一説がある。
《山家の人の話に、熊を殺すこと二三疋(ひき)、或いは年歴(へ)たる熊一疋を殺すも、其山かならず荒る事あり、山家の人これを熊荒といふ》
年齢を経た熊は山の主となり、不思議な力を持つものだと人々は信じていた。この巨熊が討ち取られた直後も、それまでの晴天がにわかにかき曇り、猛烈な暴風が吹き荒れたという……。
三毛別の事件現場は、現在、著名な観光スポットとなっている。苫前市街から車で30分とアクセスは悪いが、「道道1049号 苫前小平線」は2車線の真新しい舗装道路で、快適なドライブが楽しめる。
現場のすぐ近くまでのどかな田畑が広がっていて、まさに隔世の感である……と、快適ドライブもそこまでであった。舗装道路はダートに変わり、鬱蒼とした樹林が両脇を占めるようになる。
現場を復元した小屋は、林道に入ってすぐの左手である。巨大なヒグマが顔を出している。なんとでかいことか。野獣とか猛獣とかいうよりも「怪獣」である。
到着するとすぐに日が暮れはじめた。あたりは虫の音も聞こえないほどの静寂である。ラジオをつけてみたが、山中のこととて電波が悪い。仕方がないので静寂のまま、しばし当時に思いを馳せる。
事件から数年後、測量のため六線沢に入った技士が天幕で就寝中、亡霊にうなされたとか、救いを求める婦子女の声を聞いたとかいう怪談話が残っているそうである。単に物見遊山でやってきた筆者の後ろめたさが、なおさらに恐怖心をあおる。
奇妙な物音を聞いたのは、その直後であった。
ぱた……ぱた……。何者かが車を叩く音がする。それはヒグマが叩きつけるような荒々しい音ではないが、けっこうな重量のものが車体に衝突する音である。
それは手のひら大ほどもある、黄金色の巨大な蛾であった。
ちょうどお彼岸の頃である。古来、死者の魂は蝶になって戻ってくるというが、もしかしたら「袈裟掛けの金毛熊」に襲われた被害者の霊が、金色の蛾に姿を変えて現れたのではないか……そんな思いにとらわれたのであった。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
写真・文/中山茂大
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