北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1~2名が犠牲となっている。
しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。改めて凄惨な事件の経緯を振り返ってみよう。
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昭和52年(1977年)9月24日午後3時頃、造材会社の運転手、前川雅輝(29)が、檜山管内大成町(現在のせたな町)宮野の通称「炭鉱の沢」付近をダンプカーで通りかかったところ、林道に乗用車が停めてあり、その脇の草原からヒグマが飛び出して道路を横切った。
ダンプカーを乗用車の側に停めて身を乗り出すと、乗用車から3メートルほどのネマガリダケが密生している脇に人が倒れていた。しかし、ヒグマが藪の中からこちらを伺っているために助けることができなかった。
しばらくすると男性2名の乗った車が通りかかったので、前川はヒグマの見張りを依頼して大成町の市街地に車を走らせ、午後3時すぎに駐在所に通報した。一方、見張りを頼まれた2名はヒグマが恐ろしくなって(おそらく食害しているところを目撃したのだろう)、途中で逃げ帰ってしまった。
午後5時前、警官11名とハンター4名が現場に到着すると、倒れていた男性は現場におらず、20mほど離れた川の対岸の、ダム工事中にできた窪地に、左側を下にして死亡していた。
《頭面をすっぽりとはぎ取られ、両耳も食いちぎられて体の上にはササがかぶせられてあった。道路付近におびただしい血が流れていた》(『北海道新聞』9月25日朝刊)。
大成町は25日朝からクマ狩りを始め、午後3時40分頃、死体を発見した近くのダムで、警官等に襲いかかってきたヒグマを射殺した。体長166センチ、4歳8ヶ月のオスで、体重は130キロほどであった。
被害者は熊石町役場職員、佐藤正市(36)で、24日昼過ぎ、炭鉱の沢に釣りに出かけたが、ダム下でヒグマと出会い、追われて川を渡って乗用車まで逃げてきたが、ついに襲われてしまった。
加害ヒグマが執拗に佐藤から離れなかったことや、射殺されるまでの2時間足らずの間に食害し、遺体を引きずって窪地に隠していることから、佐藤を喰うために襲ったものと断定された。その根拠として、この事件の4カ月前、同じ大成町で起きた、山菜採りに山に入った農夫が襲われて死亡した事件があげられた。
昭和52年(1977年)5月27日午後4時頃、同町在住の農家、山田林造(55)が戻らないと妻から連絡があり、営林署員や消防団が山に入ったところ、前出の事件現場から南に山一つ越えた地点でうつぶせに倒れている山田を発見した。
後に襲われた佐藤と同じく、左目の上部、鼻先から上唇、左頭部の頭皮が削り取られるなど顔面が著しく損傷し、体の上にササがかぶせられていた。現場は山菜の宝庫だったが、この年はヒグマの出没が盛んで、大成町ではすでに4頭が仕留められていたという。
(北海道開拓記念館『研究年報第7号』所収、犬飼哲夫・門崎充昭「北海道における近年のヒグマによるヒト被害」や新聞記事をもとに構成)
筆者の手元にある資料では、事件現場近くでは断続的に人喰い熊事件が発生しており、明治24年(1891年)に熊石村で漁夫1名が喰い殺され、大正元年(1912年)に貝取澗村(後に大成町に合併)で、やはり漁夫の松前留太郎(29)が襲われ、《熊のため頭部面部等、一面蜂の巣のごとく掻き破られて死亡せり》(『北海タイムス』大正元年11月19日)の記録がある。
渡島半島の日本海沿岸は人喰い熊事件の多発地帯で、特に上ノ国町、せたな町、島牧村等で重大事件が続発している。今後も注意を要する地域である。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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