北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1〜2名が犠牲となっている。
しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。改めて凄惨な事件の経緯を振り返ってみよう。
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明治10年(1877年)9月、開拓使は以下のような通達を出した。
「熊・狼は、人民・耕作物及び牛馬に損害をなす事少なからざるに付、自今該獣を取獲る者へ、手当のため、一匹金二円づつ支給候条、右取獲する者は、その耳を添え、その筋へ届出るべし、この旨布達候事」
(熊・狼は、人民や農作物、家畜に甚大な被害を及ぼすので、今からこれらの獣を捕獲した者には、1匹につき2円の手当を与える。これらの獣を捕獲した者は、その耳を添えて当局に届け出ること。以上をもって通達する)
奨励金は翌年には熊5円、狼7円の大幅増額となった。この金額は当時の巡査の初任給とほぼ同額だったそうで、それだけ害獣被害が深刻であったことが伺える。
興味深いのは、ヒグマよりもオオカミの方が高額なことである。おそらく群れをなして家畜を襲うオオカミは、単独行動のヒグマに比べて、より被害が甚大であったのだろう。
更級源蔵の『北方動物記にはこうある。
《当時は熊の害よりも狼の害の方がひどかったらしいので、その次の年になると狼の方は七円になり、熊は五円といふことになった。そして今度は耳でなく四肢をもって、穫ったところの戸長(村長)の印をもらって届け出ろといふことになった。
熊が安いのは熊の方は皮も肉も胆汁も金になるので、手当金を出さなくとも穫る人が多いからであらう。狼は手当金の他、穫って一つも役に立つところがないし、むしろ熊よりも危険も多かったわけであらう》
数千頭生息していたとされるエゾオオカミは、ストリキニーネなどの毒餌によって数を激減させ、明治22年頃に絶滅したとされる。
そんななかで起こったのが、岩内での「庄司巡査殉職事件」である。
明治13年10月、岩内郡前田村では、冬眠前の食いだめで農作物や家畜、さらには人間を襲う凶悪なヒグマが出没し、村人は恐れおののいていた。陳情を受けた北海道警察岩内分署は、村民と協力してヒグマ退治に乗り出すことになった。
当時の様子を、地元紙は次のように報じている。
《後志国岩内郡御峰内町、平民内田善兵衛という者が当日の朝、同国余市郡余市山道にて不意に暴れ熊に出会い、無惨にも片腕を喰い切られ、その他数ヶ所に傷を負ったが、幸い生命にかかるほどでもなく、ようやく虎口を逃れたが、右につき、即日午後四時頃、岩内警察分署より、三等巡査庄司己吉氏がクマ狩りとして余市山道に赴き(中略)》(『函館新聞』明治13年12月4日)
11月10日、4組に別れた村人は、それぞれ巡査1名を組長として、熊笹の生い茂る大谷地の山林深くに分け入った。第1組を指揮していたのが庄司己吉3等巡査であった。
明治8年に渡道して邏卒(らそつ=警察官)となり、明治11年12月より岩内分署に在勤していた。質実剛健で責任感が強く、職務に力を尽くすような人物であったという。
庄司巡査らが熊の足跡を見つけ、これをたどっていくと、前方の大木の根元で笹が大きく動き、2メートルを超す巨大なヒグマが立ち上がった。距離はわずか5メートルほどであったという。当初の打ち合わせなどどこかへ吹き飛んでしまい、村人は蜘蛛の子を散らすごとく逃げ散ってしまった。
ひとり踏み止まった庄司巡査はヤリを構え、熊の左の耳脇を突き刺したが、たちまちその槍を熊に取られてしまった。ヒグマと対峙したが不運にも笹に足を取られて転倒。とっさに剣を抜いて切りつけたが、ヒグマに左の内股を食われるなど、全身に深手を負って昏倒してしまった。
これを遠くから見ていた村人たちは、鳴り物を打ち鳴らし、銃を撃ち、どうにかヒグマを追い払い、重傷の庄司巡査を病院に運び込んだ。この事件に奮起した村人は、近在のアイヌの助けを借りて連日のクマ狩りをおこない、20日になって、加害熊を討ち取った。
報せを受けた庄司巡査は、重体ながらも同僚の介添えで、仕留めたヒグマの検分にやってきた。そして村人に謝辞を述べた後、「万歳」と叫んで再び昏倒し、ついに意識を回復することなく、26日に殉職した。
『北海道警察史(一)明治・大正編』(北海道警察本部)によれば、《彼の殉職は北海道警察の最初にして開拓使時代における唯一のものである》という。
村人は岩内町高台の光照寺境内に墓碑を建立し、庄司巡査の功績をたたえた。1966年の佐藤弥十郎『岩内郷土研究 余滴』によると、碑の裏面には漢文で次のような内容が書かれているそうである。
「氏は、庄内藩士・庄司権四郎の3男で己吉と称し、岩内警察署に勤め、しばしば殊功を奏した。明治13年の秋、狂熊しばしば前田村近に出没して、これがために命を落としたもの数人に及んだ。
ここにおいて庄司巡査は大駆して大谷地に至り、抜剣挺進して人夫を指揮していたが、突然、猛熊に会い、格闘の末、重傷を負った。その後、熊は殺され、氏の宿に担い込まれてきた。氏は起き上がり、席をたたき、3度快哉を叫んで瞑目した――」
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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