木村盛武氏による『慟哭の谷』(共同文化社)は、日本最悪の獣害事件「三毛別ヒグマ事件」を緻密に取材し、初めてその全貌を明らかにした労作である。この本の「はじめに」で、木村はヒグマへの関心を持った理由を次のように語っている。
《水産学校の五年生だった昭和十三年の八月、海洋実習で赴いていた北千島のパラムシル島村上湾の居相川に、サケ、マスのそ上を見に行き、そのとき先行していた一人が巨熊に惨殺され、後続の私は間一髪で難を逃れる、という苦い体験をもっている。以来 “クマ” に対する関心は深まるばかりであった》
木村氏が目撃した惨劇については、同氏の手による『エゾヒグマ百科』の冒頭に詳述されている。その一部を引用するなら、
《遺体はほぼ全身が素裸で、ずだずたに引き裂かれ、わずかに漁夫特有の長靴が左足に残るのみ。頭髪はすっかり剥ぎ取られ、頭蓋骨は割られて変形し、右眼はえぐられて無く、左眼は抜け落ちて頬骨にからみつき、耳、鼻、唇、頬肉が無く、胸骨が露出している》
という凄まじいものであった。鮮明な記憶が、同氏が受けた衝撃がいかに大きなものであったかを窺わせる。
かつて千島列島(正確には得撫島以西の千島列島)が日本領であったことは知られているが、そのなかで継続的に人が暮らしていたのは南千島の国後、択捉、色丹と、北千島の占守、幌莚の5島だけであった。これらの島々のうち、ヒグマが生息するのは国後、択捉、そして幌莚島だけである(占守島には夏期のみ幌莚島からの渡り熊がいた)。
中部千島の長い列島を境界として、南千島のヒグマは道東のヒグマと近しく、幌莚のヒグマはカムチャッカのヒグマに近しいと思われる。筆者の調べた範囲では道東のヒグマは比較的温順だが、カムチャッカのヒグマはどうだろうか。
2011年8月、カムチャッカ半島東南部のペトロパブロフスク近郊で、父親と19歳の娘がヒグマに喰い殺される事件が起きた。娘が喰われながらも母親に電話し、「ママ、熊が私を食べている」と話したという壮絶なエピソードは、覚えておられる読者も多いだろう。
南千島には、江戸末期から人が住んでいるが、人間が襲われて死亡した事件はわずか1件に過ぎない。しかし北千島では、大正後期になってようやく開拓が本格化したにもかかわらず、上記木村の目撃した事件を含めて2名の一般人(猟師ではないという意味で)が喰い殺されている。
今回は北千島でのヒグマ事件について紹介しよう。
幌莚島(パラムシル島)は、北千島最大の島で、多数のヒグマが棲息する島として知られていた。南極探検で知られる白瀬矗は、明治26年(1893年)以降の2冬を占守島で越年したが、その記録のなかに幌莚島での熊猟についての記述がある。
白瀬たちを乗せた八雲丸が幌莚島沖を帆走中、沿岸から大声で叫ぶ声が聞こえたので、望遠鏡で見ると、15〜16頭のヒグマが、ときどき咆吼しながら遊んでいた。そこで慰みに熊猟をやろうということになり、さっそく短艇2隻を下ろして、総勢12〜13名で海岸を目指した。
しかし、ヒグマは逃げ去ってしまい、上陸したときには姿が見えなかった。そこで鮭の遡上する河岸を登っていくと、丘の上に5〜6頭のヒグマが遊んでいた。そして、白瀬たちを見て大いに咆吼した。
こちらの猟夫は3名なので、3頭を倒しても残りに襲われるとまずいとの心配があったが、ぐずぐずしていると危ないので、3頭に向けて鉄砲を発射した。弾は命中したように見えたが、すぐに5〜6頭の熊が総立ちとなって、こちらに向かってきた。
《私共と熊との距離ほとんど五六間に迫ったとき、三名の猟夫、第二弾を発しましたが、幸い頭部に命中しましたから、三頭だけはそのまま斃れました。
それを見ると他の二、三頭の熊もいささか勇気がくじけたものと見え、そのところに止っていて私共を見つめて遠吠をしておりました。それをまたまた第三弾、第四弾と連発しまして、ようやく七頭の一群、悉皆(しっかい)斃しました》(白瀬矗『千島探検録』)
昭和4年(1929年)に千島列島を訪ねたスウェーデンの探検家ステン・ベルクマン博士は、その見聞を『千島紀行』にまとめている。幌莚島については、《相当たくさんクマがおり、川岸などでしばしばその足跡に出会う》と記録している。そして、例外的な事件として、2〜3年前に1人が食害された件を伝聞として記録している。
《この人はある晩がた、一軒の家から他のうちへ懐中電灯をもって歩いていた。とつぜん、一頭の大くまがあらわれ、走りかかって来て、たちどころにくい殺してしまい、その死骸を近くの川岸のところまで引いていって、そこに穴を掘り自分の獲物をそのなかに入れ、土をひっかけゆくえをくらましてしまったという》(『千島紀行』加納一郎訳、朝日文庫)
この事件については、大正13年9月14日の『小樽新聞』に、「幌莚島無線電信局熊群に包囲さる」というショッキングな見出しとともにくわしく掲載されている。
8月25日夜、漁場監視人の須田治が塁山にある無線電信局の技手宅を訪ね、午後7時に番屋に帰る途中、無線局舎裏の貯炭場のそばで熊の待ち伏せに遭い、喉咽部に喰いつかれ、そのまま谷底に転落した。捜索の結果、谷底でのど、尻、股をすっかり食い尽くされた無残な死体が発見されたという。
この事件は幌莚島では語り草になったらしく、昭和9年(1934年)7月12日の東京朝日新聞朝刊でも取り上げられている。
《無電局を訪れると――必ず出て来るのはここの訪問者が付近で羆に喰はれた話だ。五、六年前の八月某日、妙に陰鬱な夕暮だった、約二十マイルも距った村上湾の蟹工場缶詰主任須田某が局に遊びに来ての帰途、近道をとろうとして普段通らない海岸の小路を通った。(中略)
前方がよく見えなかった、黒い影がと気づいた時は熊が直ぐ目前に立っていた。慌てて懐中電灯をパッ!と熊の鼻先に向けた、と次の刹那、熊の一撃は須田君を十五、六間先の崖下に死に迄ノック・ダウンしていた。
(中略)
その珍事この方、熊が人間の味を覚えて、その後も無電局をのぞき見し、局員が窓に畳をおしたてて戦慄した》
たとえ絶海の孤島でも、ヒグマは容赦なく襲いかかるのだ。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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