「子供がいることも言えず…」経験者語る育成ドラフトの過酷野球人生…"大出世"千賀滉大はレア中のレア
「支配下ドラフトで指名される選手は『いずれ戦力になりそうだ』という“見えている”部分が大きいが、育成で指名される選手は一芸に秀でながらも、ほかの要素がその時点では物足りない選手たち。ゆえに『このフォームや筋肉の質ならいずれ速くなりそうだ』など、“見えない”部分の先見の明が、スカウトにはより求められます」
「ドラフトで指名されず、社会人野球に進もうかと考えていたんですが、会議の1カ月後にソフトバンクから連絡が入り、『育成で指名したい』と。正直、当時は仕組みもよく分からなかったんですが、とにかくプロの世界に入れるならと快諾しました(笑)」
「育成のままなら、球団に3年間は面倒見てもらえる契約でした。でも、支配下選手になれば、成績次第ではその年のシーズン終了後にクビを切られることもあり得る。喜んでばかりいられませんでした」
「阪神では最速で支配下登録されたと思います。僕は育成選手はプロじゃなく、練習生と思っていましたから、とにかく必死でした。キャンプはまずアップから始まりますが、僕はこの時点でフルパワーで動けるように事前にアップはすませていました。ほかの選手と明らかに違うので、コーチらの目に留まるんです。『あまり無理するなよ』と言われましたけど、とにかく必死で毎日アピールし続けました」
「支配下選手になれないのでは、という不安は常にありました。キャンプの夜間練習がないときもコーチを呼んで、『スイングを見てください』と頼んだり、自分からコーチの部屋に行ってアドバイスを求めたり。育成選手は支配下選手と違って、何年も見てもらえる立場ではない。年間で上がれるのは10人中多くて2人。その枠を取るのは本当にきつかったですね」
「28歳という年齢は、“伸ばす”より体力をキープする年齢です。でも、キャンプでは若手と同じ練習を科されます。コーチは育成選手を育てたい気持ちが強いですからね」
「入団時の年俸は300万円程度で、とてもじゃないけど家族を養えませんから、家族がいることを隠して寮に入ったんです。ただ、6月の初めだったと思いますが、二軍監督にバレた。『ちゃんと籍を入れろ』と言われたんですが、『だったら支配下選手にしてください』と言いましたよ。それが効いたのか、支配下選手となって寮を出ました(笑)」
■一軍に上がるため、「先発転向」の挑戦
「その結果、二軍ではおもに中継ぎとして5勝2敗1セーブの好成績を残せた。しかし、自分より成績が悪い二軍の選手がいたのに、支配下選手になれない。コーチに『なぜですか』と聞きに行くと、『一軍に同じサイドスローの中継ぎが2人いて被る』というのです。そこで提案されたのが、先発挑戦でした。一軍に上がるためならと奮起した結果、『フェニックスリーグ』という宮崎の教育リーグで先発完封し、ようやく11月25日に支配下選手になれたんです」
「年俸300万円では贅沢なんかまったくできない。支配下選手は休日前は外食で、それもタクシー移動。僕らは近場のスタバに電車で行っていました。また、一軍の選手は用具は無制限でもらえていましたが、僕は年間でグローブが2個支給されるだけ。スパイクも壊れれば、スポーツ店に行って自腹で直していました」
「とくに困ったのが怪我をしたとき。『チームドクターには絶対に言わないで』と、内緒で町医者に診てもらいました。育成選手は、少しの怪我でも契約に影響する。その不安が常にありましたね」
「2年めに大村巌コーチと出会い、スイッチヒッター転向をすすめられたんです。捕手では、元ヤンキースのポサダくらいしかおらず不安でした。でも『絶対に3割を打たせるから』とマンツーマンで教えてもらうと、二軍ながら6月には3割に打率が上がった。無謀に思えた挑戦ですが、本当にやってよかった」
「育成から成功していった選手には体の強さに加え、気持ちの強さがあります。ハングリー精神を持って努力できる。やらされるのではなく、自分からやれる向上心の高い選手が伸びていきます」