「“うーやん” が亡くなったことは捜査員から告げられました。『マスターとは仲がよかったから連絡してほしい』と言っていたそうです」
そう語るのは、神奈川県藤沢市内でバーを営む男性・Aさんだ。
1月29日に死亡した「内田洋(うちだ・ひろし)」が、その3日前に突如明らかにした “爆弾魔” としての過去。彼は、東アジア反日武装戦線メンバーの桐島聡容疑者(70)と特定されつつある。
「2023年12月29日に、うーやんと路上でばったり会ったのが最後でした。1年前から『自分は胆管がんなんだ』と聞かされていた。いつもニット帽を被って散歩していたけど、ずいぶんと体が細かった」(Aさん)
49年を迎えようとしていた逃亡生活のほとんどを藤沢市で過ごしていたとみられ、本誌が入手した動画も、2012年6月に藤沢市内のバーで撮影されたもの。
「いいよー! いいよー!」と、合の手を入れながらダンスをする桐島容疑者には、政治犯として逃亡中の身だという緊張感はまったく感じられない。
長年、工務店に住み込みで仕事をしていた桐島容疑者にとって、自宅近所の飲食店は自分をさらけ出せる大切な場所だった。
「音楽、特にブルースなどが好きで、うちの店でライブをやるときは必ず最前列に陣取って盛り上げ役を買って出ていたし、ほかの常連もみんな彼のことを知っている “愛されキャラ” でした。
店の仲間でバンドを組んで、レイ・チャールズの曲を披露したときは、うーやんがボーカル。そのときの彼は、一張羅だったハワイブランド『KIKI』のトレーナーを着ていました。
店の仲間とギターを奏でたり、バーベキューやスキーに行ったこともあるなど、活動的でよく遊んでいましたよ」(同前)
店には『おどるポンポコリン』で一世を風靡したB.B.クィーンズの近藤房之助もライブで訪れており、桐島容疑者は場を盛り上げていたという。
一方で、トラブルを起こすこともしばしばだった。
「自宅で夕飯の際に缶チューハイを2本飲んだ後、うちの店に来るんです。店でもいろんなお酒を飲むんだけど、飲ませるのは決まって4杯まで。
酔うと知らないお客さんにも『バーカ』と悪態をついたりするので、飲ませすぎないようにしていた。酒乱が原因で、地元の飲み屋は何軒も “出禁” になっていた。
5、6年前には店内でほかの客と口論になったことがあって、『お主に俺の何がわかるんだ』と激昂したんです。ただ、うちの店で怒ったのはその1回だけでした」(同前)
藤沢市内の別のバーの店主であるBさんは、桐島容疑者の別の顔を見ていた。
「今から十数年ほど前に、うーやんが『女性からアプローチされたんだよ。でも、幸せにできないから断わったよ』と、言いだしたんです。相手の女性は別のお店で知り合った30代の方だったようです。
あと、うーやんから不要になったビデオをもらったことがあります。『ウッドストック・フェスティバル』や、彼が好きなバンド『サンタナ』のものでした。映画のビデオもそれなりに持っていて、いちばん好きなのは『カッコーの巣の上で』だと言っていました」
日常生活を謳歌していたように見えた「内田洋」だが、周囲の人々はその素性を感じ取る瞬間はなかったのだろうか。
「彼は出会ったころから無精髭を生やしていたんです。今思えば、手配写真にもある顎下のホクロを隠すためだったのかもしれません」(Bさん)
前出のAさんも、彼の過去を詮索することはなかった。
「健康保険証がないのは昔から知っていましたが、“訳あり” でしょうからその理由は聞かないようにしていたんです。
工務店での給料は月払いだったようで、うちの店に来るときは1万円を握りしめて来た。
ニットのセーターを『30年大事に着ている』と。慎ましいけれど、楽しく暮らしているように見えたんです」
桐島容疑者が、49年前の事件をどう考えていたのかは謎のままだ。
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