9月27日に執りおこなわれた安倍晋三元首相の国葬で、菅義偉(よしひで)前首相が友人代表として述べた「追悼の辞」(弔辞)は、多くの国民の涙を誘った。
遺影に向かい「総理」と呼びかけた菅氏は、朴訥(ぼくとつ)とした語り口で、ときに涙をこらえながら安倍氏との親交を振り返った。弔辞の最後は、明治の元勲・山県有朋が盟友・伊藤博文を銃撃で失った後に詠んだ歌で締めくくった。
「この歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。『かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ』。深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当に、ありがとうございました」
菅氏の「追悼の辞」が終わると、武道館は葬儀会場としては異例の拍手に包まれた。
国葬に参列した熊谷俊人千葉県知事は27日、自身のTwitterで、こうつづった。
《外国からの参列者が葬儀の厳粛さを超えて思わず拍手し、それが会場全体へとさざ波のように広がった光景が印象的でした》
自民党の森山裕選対委員長も国葬後、「葬式には数多く出席しているが、弔辞(追悼の辞)が終わった後、拍手が出た葬式は今日が初めてだった」と語っている。
故人の死を悼み悲しみ、永遠の別れを惜しむ。政界以外でも、参列者の涙を誘った弔辞が歴史に刻まれている。
まず思い出されるのが、2008年8月7日、故・赤塚不二夫さん(享年72)の葬儀・告別式で、タモリが述べた弔辞だろう。
《あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そしてときおり見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました》
《あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって、死もひとつのギャグなのかもしれません。私は、人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひとこともお礼を言ったことがありません。それは、肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う、他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかしいま、お礼を言わさしていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです》
約8分にも及ぶ弔辞で、何度も読んでいたように見えた紙が、じつは「白紙」だったことが報じられ、話題も呼んだ。
お笑い芸人のカンニング竹山が述べた弔辞も記憶に残る。
2006年12月20日、お笑いコンビ「カンニング」の竹山の相方・中島忠幸さん(享年35)が、白血病によるウイルス性肺炎で亡くなった。24日におこなわれた葬儀・告別式で、竹山は、弔辞を握り締めたまま「書いたけど、読むんじゃなくて、しゃべるわ」と、普段通りの博多弁で語り始めた。
《おいよかったな! みんな見に来てよるよ、お前。なんかさ、マスコミとかもすごいぞ。なんか昔、ぜんぜんこんなんじゃなかったのに、すごいことになっとる! 昔、お前に辞めようって話したときに、でもなんかこう、芸能界の前に爪跡だけ残して辞めようって話しして……爪跡どころじゃなくなっとるよ!》
《なんかいろいろなあ、俺とお前のなんか感動秘話みたいになって、いっぱい流されよるけども、俺はお前がもう何て言いよるか、もうわかるわ。「気持ち悪いなあ」ってお前、笑いよると思うんよ。俺もそう思っとるよ。
こんな形で終わるのはしょうがない。お前とコンビを組んで、漫才をやれて、お笑い芸人やれて本当に、幸せやった。ありがとう。俺も、いつそっち行くかわからないけど、行ったら、漫才やろうな、今度はお前が待っておけよ。ありがとう。じゃあな。いつもとおんなじように別れるぞ、じゃあな! 》
何度も泣き崩れそうになりながら、中島さんの遺影に呼びかける姿が参列者の涙を誘った。
むせび泣きながらも弔辞を読み上げたのは、俳優の藤原竜也だ。
2016年5月16日、多臓器不全のため他界した演出家・蜷川幸雄さんの葬儀・告別式で、“愛弟子”として知られる藤原が、弔辞を読んだ。
《「その涙は嘘っぱちだろ?」と怒られそうですけど、短く言ったら長く言え。長くしゃべろうとすれば、つまらないから短くしろ、と怒られそうですけど。まさか僕が今日、ここに立つことになろうとは、自分は想像すらしてませんでしたよ。最後の稽古というか、言葉で弔辞。5月11日、病室でお会いした時間が最後になってしまうとは……。
先日、公園でひとり『ハムレット』の稽古の録音テープを聞き返していましたよ。恐ろしいほどのダメ出しの数でした。瞬間にして心が折れました。「俺のダメ出しで、お前に伝えたことはすべて言った。いまはすべてわかろうとしなくていもいい。いずれ理解できるときが来るから、そうしたら少しは楽になるから。アジアの小さな島国の、小さい俳優になるなと。もっと苦しめ、泥水に顔を突っ込んで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなったときに手を挙げろ。その手を俺が必ず引っ張ってやるから」と蜷川さん、そう言ってましたよ。
蜷川さん、悔しいでしょう、悔しくて泣けてくるでしょう。僕らも同じですよ。もっと一緒にいたかったし、仕事もしたかった。たくさんの先輩方、同志の方々がたくさん来てますね。蜷川さんの直接の声は、もう心の中でしか聞けませんけれども、蜷川さんの思いをここにいる皆で、しっかりと受け継いで、頑張っていきたいと思います。
気を抜いたら、バカな仕事をしてたら、怒ってください。1997年、蜷川さん、あなたが僕を産みました。奇しくも昨日は僕の誕生日でした。19年間、苦しくも……、まぁほぼ憎しみしかないですけど、最高の演劇人生をありがとうございました。蜷川さん、それじゃあまた》
弔辞には、故人の人となりはもちろん、弔辞の送り主との濃密な関係が反映されている。故人との最後の会話は、故人の面影とともに、記憶に刻まれるだろう。
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