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河西:戦後史をテーマにしていますが、天皇、皇族の意思を国民がどう受け入れるかは難しい問題だと思っています。天皇、皇族の個人の権利は、憲法学からどう捉えられますか?
木村:一般的な見解では、天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではありません。長谷部恭男先生は「身分制の飛び地」と表現します。憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めているということですね。
河西:秋篠宮さまは眞子さまの結婚を「認めるということ」と記者会見で言った時、憲法の「婚姻の自由」を持ち出しましたが。
木村:皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。だから、男性皇族の婚姻に皇室会議の議を要求した皇室典範は違憲ではないのです。現状、女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではなく、皇室典範がそう定めているからです。女性に皇位継承資格を認めれば、婚姻の自由が制約されるかもしれませんが、それは憲法24条違反ではないでしょう。
河西:その意味では、秋篠宮さまの言葉は、正確ではないということになりますね。
木村:親心として娘に「婚姻の自由がある」と言いたい気持ちはわかりますが、日本国憲法下の天皇制と考えると、あまり一般的な見解ではないと思います。
■退位の手続きの必要性
河西:天皇、皇族たちが我慢を強いられていることを顕在化させたのは2016年、天皇(現在の上皇陛下)が退位の意向を強くにじませたビデオメッセージだったと思います。
木村:憲法解釈の世界では、以前から退位の手続きの必要性は指摘されていました。気づいている人はいたけれど、広がっていなかったのだと思います。
河西:これまでも国会で天皇の高齢化などが議論されることはありましたが、深められませんでした。考えないでおこうということだったと思います。
木村:そもそも女性皇族には人権問題が起きていましたよね。美智子さまが皇后になった時、雅子さまの皇太子妃時代などバッシングから体調を崩され、眞子さまもそうなりました。日本では、男性皇族と女性皇族で国民の反応が違う気がします。
河西:女性皇族が二重の役割を背負わされているからだと思います。象徴天皇制になり、皇室の民主化を伝える役割を担わされた一方で、男子を産むなど伝統的な役目も残っている。女性皇族は同時進行で二つをしなくてはならず、そのバランスが崩れるとバッシングが起きる。
木村:女性皇族に、随分と勝手なことをしてきたのですね。
■女性皇族バッシング
河西:女性皇族は、男性皇族以上に国民の仮託を背負っている。雅子さまなら「キャリアウーマン」の期待と、「男子出産」という期待。相反しはしませんが、複雑です。男性皇族と違い、そういう複雑なバランスの上に立たされているのが女性皇族です。行動が仮託とずれたと思われると、バッシングに火がつく。
木村:女性蔑視ですよね。女性皇族はいじめても大丈夫と思われているけれど、男性皇族の批判はタブーになっています。
河西:平成になった直後の美智子皇后(現在の上皇后)へのバッシングも、つまりは「平成流」への不満でした。それでも天皇には向かなかったし、今の天皇と皇后に男子が生まれないことへの不満も、まずは皇太子ではなく雅子さまへ向かいました。
木村:実名アカウントのツイッターで女性皇族の悪口は書けても、天皇の悪口は書けない、ということですよね。
河西:はい。女性皇族は絶対に天皇にならないですから。小室さんバッシングの根底には、女性宮家や女性天皇という宙ぶらりんになっている問題があると思います。眞子さまが皇位継承の対象になっていたら、バッシングはされにくかっただろうし、女性宮家の議論もなく「皇室に残らない」とはっきりしていたら、これほど関心は呼ばなかったのではないでしょうか。
——コロナ禍で皇室の活動が見えにくくなっている。皇室の存在感は保てるだろうか。
■天皇制自体への説明
河西:「公的行為」を増やすことで、象徴天皇への支持を高めていったのが平成という時代でした。当初、皇室への無関心層が増えていて、国民と苦楽を共にしないと天皇制が立ち行かなくなった。その危機感の中で平成のお二人は「ご公務」を増やした。しかし形骸化もでてきたところに、コロナ禍が重なったという面もあると思います。
木村:天皇制の目的を何ととらえるか、ということだと思います。そもそも天皇制自体、憲法の立て付けとしては少しおかしいんです。国民主権の国家なのに、別に天皇がいるわけですから。つまり天皇制があること自体に説明が必要で、説明の仕方は大きく二つあります。
河西:上皇が公的行為を拡大したのは存在意義、それも自分というより「連なるもの」としての存在意義を意識したのだと思います。被災地に赴くことが象徴的です。上皇は、戦国時代に天変地異や疫病を鎮めるため写経をした後奈良天皇らの名を挙げ、「そういう連綿と続くものが自分の体に染み付いている」という言い方をしてきました。現在の天皇も挙げています。過去の理想的な姿を自分は実現しているということで、天皇制の正当性を認識しているのだと思います。
木村:天皇は国民主権の「リザーブ」のように使えてしまうんです。国民主権のパフォーマンスが落ちた時、控えの選手である天皇が統治の主体として期待されます。
■国民を統合する象徴
──五輪開催が迫る6月、宮内庁長官が「開催が感染拡大につながらないか(陛下が)ご懸念されていると拝察している」と発言した。反対派からは「これで開催は見送り」という声も出た。
河西:あの発言は、「反対」と言ったわけではないところがバランスだったと思います。今のままでなければ開催してもよいとも聞こえましたし、結局、無観客での開催となりました。
木村:天皇に何かを決められる権威があるわけではないというのが私の見方です。歴史を見ても天皇は、大勢が見えた時にそれを確認して決着させる役割を果たしてきました。日本国憲法下でも「象徴」で、国民に「統合された思い」がある時に象徴することはできても、国民の総意のないところに総意を作り出すのは難しい。五輪発言でも心配の対象は感染拡大であって、開催ではない。感染拡大は、誰だって心配です。
河西:賛成と反対で国民が分断されている現状を何とかまとめよう。そういう感じを受けました。コロナ禍でご進講に行った人たちも、非常に多岐にわたっていました。国民の意識を広く吸収した上での発言で、近年の天皇は「国民の統合の象徴」でなく「国民を統合する象徴」になっていると感じます。
■皇族の不自由さとは
木村:今の世論は「天皇制は続いてほしい」けど「制度改革の労はとりたくない」というものでしょう。しかし、実際は、皇位継承者を増やし、天皇の地位に伴う負担を軽減して即位しやすくする制度改革をするか、皇位継承者がいなくなって、天皇制の安楽死を待つかしかない。コロナ抑え込みか経済活動のどちらかを諦めなければならない状況と似ています。こういうときは、政治家がリーダーシップを取らなければならないのに、できていない。
河西:政治家は天皇制を触ることを怖がって、「とりあえず悠仁さまがいるし」と逃げています。一つ気になっているのは、国民に「眞子さまの意思をすべて反映させてあげたい」という意見があることです。我々と同じ人間として扱えということですが、木村先生の指摘通り立憲君主制である以上、皇族はたくさん制限がある存在です。それは仕方がないというか……。
木村:必然的な帰結です。「お気の毒」と考えるなら、天皇制をやめた方がいい、となります。
河西:皇族の不自由さの究極的な解決は、「制度をなくす」ですよね。時代や社会状況の変化で、制限を緩める議論も必要とは思います。でも、皇族に国民と全く同じ自由意思があるなら、皇族とは何かという存在への疑義も生じる可能性はあります。
木村:「天皇制と人権」は昔からある問題で、昨今関心が高まっているだけと見ています。昔からある議論を丁寧に見直してほしいなと思います。
河西:天皇制はとても厄介な制度だということを理解し、我々自身で考えていく。そういうことではないでしょうか。
(構成/コラムニスト・矢部万紀子)
【紀子さま友人が願う「穏やかな日々」 眞子さまに背中で見せてきた紀子さまの思いとは】
※AERA 2021年11月1日号の特集「眞子さま結婚 批判の深層」より抜粋
※敬称は取材時のものです