こんにちは。クイズプレイヤー・林輝幸です。
皆さんは、クラウドファンディングに参加したことがありますか?
今、福岡県の北九州市で3億円を目標に掲げたプロジェクトが進行しているそうです。それも、全国で唯一の特定危険指定暴力団「工藤会」の本部事務所跡地で…。
その名も「希望のまちプロジェクト」。単身世帯が急増し、人々が孤立する現代社会。そこにもう一度"家族の絆"を作り出すことはできないか?という新しい街づくりの挑戦です。
このプロジェクトを推進する認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」さんに、話を伺ってきました。
それでは今回も世の中をよくしようと頑張っている人や場所を探求していく、インプットの旅に出かけてみましょう!
認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の江田初穂(こうだ・はつほ)さんは、缶コーヒーとタバコが供えられた、とある遺影の前で立ち止まりました。
抱樸・江田初穂さん
彼は、決まったブランドの缶コーヒーじゃないと絶対にダメだったんですよ。
林輝幸
まだお若いですよね…。
江田さん
40代で亡くなりました。
江田さん
若くしてホームレスをやっていた彼は「抱樸」で支援を受けるようになって、「抱樸館」という施設の厨房で働くようになったんです。
そのタイミングで僕も抱樸で職員として働くようになったので、いわば同期みたいな間柄でしたね。
林
抱樸の支援って、どんな内容なんですか?
江田さん
食料や必要物資などをお配りする「炊き出し」や、繁華街や橋の下などで生活する方に声をかけていく「パトロール(夜回り)」をすることで、ホームレスの方々とつながります。
江田さん
それをキッカケに相談を受けるようになったら、半年間生活できる場所として支援施設のホームレス自立支援センターや抱樸館に入居してもらいます。
林
ふむふむ。
江田さん
そして、その間に仕事を見つけて引っ越し資金を貯めてもらいつつ、生活保護や障害者福祉といった、その方に必要な各種手続きのサポートをします。
林
生活基盤を整える手助けをするんですね。
江田さん
そして抱樸が保証人になって、新しく家を借りることで生活を取り戻してもらう…というのが、おおまかな支援の流れとなっています。
数名のボランティアが1988年に始めた炊き出しが抱樸の活動の原点です。
林
しかし、こうして遺影を見ていると、本当にいろんな方々が抱樸に集まってくるんだなあと思います。
江田さん
そうなんですよ。一言で「ホームレス」といっても、そうなる経緯は人生の数だけ本当にそれぞれ。
江田さん
この床下には、150人以上の分骨用のお骨を納めた骨壷を置いて、いつでも帰れるようにしています。
人生の最後までずっと寄り添い続ける"伴走型支援"が、私たちの活動の柱です。
林
生活が自立しても「はい、終わり」ではないという。
江田さん
はい。私たちは"ホームレス"と"ハウスレス"を分けて考えています。
"ホームレス"は社会的な孤立で、"ハウスレス"は経済的な困窮です。だから"ハウスレス"を解消できたとしても、"ホームレス"のままではダメなんです。
林
家があっても、一人ぼっちにさせたらダメなんですね。
江田さん
しかし日本は今、家族が崩壊しかけています。2020年には単身者の世帯が4割近くになったんですよ。
林
そうなんですね…。
江田さん
でも、制度はそんな環境の変化にまったく追いついていません。
だから私たちは自分たちで身寄りのない方のお葬式も出しますし、年に一回「偲ぶ会」も行っています。
江田さん
参列者は支援を受けている方や、自立されてボランティアスタッフになった方々が中心です。
林
そうすることで、家族みたいな付き合いができるネットワークを作っていると。
江田さん
そうです。代表の奥田が常々言うように、「家族的なつながりを、どう赤の他人がやるかが勝負」なんです。
なぜ人はホームレスになってしまうのか?
最初は別世界の話のような感覚でしたが、梅田さんの体験談を聞いているうちに、不運が重なりさえすれば、誰でもそうなるかもしれない…と思うようになりました。
抱樸ボランティア・梅田さん
私はもともとビルの設備会社で働いていたんですよ。
でも仕事がなくなって、寮も追い出されてしまったんです。今年61歳になるんですが、あれはたしか52歳のときでした。
林
ご家族はいらっしゃるんですか?
梅田さん
独身で子どももいないし、親ももういませんでした。それで最初は安いホテルにいたんですけど、それでも食費を入れたら1日5000円はかかってしまう。
60万円あった貯金もどんどんなくなっていって、ついに路上生活を始めたんです。
林
そのときは、どこにいらっしゃったんですか?
梅田さん
昼間は図書館、夜は駅前バスロータリーのベンチにいましたね。今後どうしようと焦るばっかりで…。
梅田さん
いや〜、まさか自分がこうなるとは思いませんでした。でも、ホームレスのみんなもそうだったと思いますよ。
林
気づいたらそうなってしまった、という感じなんですね。
梅田さん
でも、その一方で「一人でもなんとかなる」という甘い気持ちもあったんです。まだ50代でしたし、自分はまだ働けるって。
だけど家や連絡先がないことには、日雇いの仕事ですらなかなか見つからないんですよ。
林
空き缶を集めたりはしなかったんですか?
梅田さん
それはやりませんでしたね。
梅田さん
路上生活が長い人たちの中にはそういうことをしている人たちもいましたけど…。「抱樸」が2週間に一度やっている炊き出しにも行きませんでした。
自分はあの人たちとは違うっていう意識が、当時はなんとなくあったんでしょうね。だからずっと一人でした。
林
プライドみたいな?
梅田さん
そうですね。私らみたいなおっさんになればなるほど、「助けてくれ」って言いにくくなるんですよ。
みっともないだとか、自業自得だとか、他人に迷惑をかけちゃいけないだとか…。そういう社会だと思いますよ。
林
それで抱樸に声をかけられて、抱樸館に?
梅田さん
そうです。路上生活をしたのは3カ月くらいでしたね。
それで抱樸館に半年いて、仕事と家を見つけて、今は障害年金もいただいているので、一人ならなんとか暮らしていけるようになりました。
梅田さん
今度は自分が誰かを助ける番だと思って、今は抱樸でボランティアもやっています。
林
ボランティアではどのようなことを?
梅田さん
炊き出し委員会のメンバーとして、散髪の担当をしています。まあ、バリカンで刈り上げるだけなんですけど。散髪って、ほら、世間話がしやすいでしょ?
林
なるほど〜。
梅田さん
そうやってつながりを持つんです。こういう支援って、助けたら終わりじゃないんですよ。"一緒にいる"ということが大切だと思って続けています。
この界隈で61歳はまだまだ若手なんでね(笑)。
READYFOR・小谷なみさん
抱樸さんをご紹介いただいたのは、コロナ禍になる直前のことでした。別のプロジェクト(希望のまち)のご相談を頂いていた矢先にコロナウイルスの感染が拡大していったんです。
── 運命のタイミングですね。
小谷さん
そこで代表の奥田さんが、コロナ禍で家と仕事を失った困窮者に、支援付き住宅を提供するために目標金額1億円・募集期間3カ月でやろう!と決断されて。
── 「無理では?」と、思いませんでしたか?
小谷さん
正直、かなり難しい挑戦だと思いました。NPOが1億円を集めるプロジェクトはこれまで前例もなかったので…。
でも、「1億円から5000万円に下げたら大丈夫」という話ではないですし、下方修正した目標金額を達成できたとしても、実際に抱樸さんや奥田さんがやりたいと考えていたプロジェクト自体が成功したとは言えないと思うのです。
── たしかに。
小谷さん
国の支援は大規模に公平を期すためにどうしても遅くなってしまいますし、弊社としても、なるべく早く必要とする人たちに届けたいという思いから、「前例はありませんがやってみましょうか!」となったんです。
── 募金の集まりは順調でしたか?
小谷さん
最初は順調でしたが、クラウドファンディングって一般的に最初と最後が伸びて、中だるみするものなんです。
ラスト2週間という時点で、集まったのは目標金額の半分、5000万円にギリギリ到達していないくらいの状況でした。
── 焦りはありませんでしたか?
小谷さん
抱樸のスタッフの皆さんは不安が大きかったと思います。私も最後の1週間はほとんど寝られませんでした(笑)。
── 前例がなかったわけですからね…。
小谷さん
ところが終盤にかけてYouTuberの「せやろがいおじさん」が取り上げてくださるなど、多くの方に応援していただいたおかげで急速に支援が伸び始め、ラスト2日でついに1億円を突破することができたんです。
── 驚異のラストスパート。
小谷さん
最後の1日は、金額も大切だけど、社会の中にこれだけ困窮者のことを心配している人たちがいるという数字を出すことも大切だということで、目標を「寄付者1万人達成」に切り替えて、そちらも見事達成することができました。
── ドラマチックですね。成功の要因はどこにあったと考えていますか?
小谷さん
当時、コロナ禍という未曽有の混乱の中で、世間の人々は何が正解か分からなくなってしまっていたと思うんです。
小谷さん
でもそれが自分自身を問い直すキッカケとなって、「自分としては、これは正しいと思う」と抱樸さんのプロジェクトをSNSなどで二次発信、三次発信することで応援してくれたからだと考えています。
林
ここが「工藤会」の本部事務所の跡地ですか?
抱樸・石井裕さん
そうなんです。
福岡県警による工藤会壊滅作戦で本部事務所が撤去された跡地は、民間の企業が取得されたのですが、その企業さんから破格の値段で買い受けさせていただきました。
石井さん
林さんから見ても、やっぱり北九州って怖いイメージがあったりしますか?
林
うーん、成人式が派手なイメージがあります(笑)。
石井さん
その成人式って、まさにここの目の前にある「北九州メディアドーム」でやっているんですよ。
林
え、工藤会本部の目と鼻の先でやっていたんですか。
石井さん
まあ、北九州ってそういうヤンチャなイメージがありますよね。でもこれも掘り下げてみると、実は歴史と深く関係していたりするんです。
林
どんな歴史でしょうか?
石井さん
明治時代の日本は近代化のために、まずは鉄が必要だということで、北九州に官営八幡製鉄所が建設されました。
ここだと海の向こうの中国大陸から鉄鉱石を手に入れやすいですし、そしてその鉄鉱石を溶かすために燃やされる石炭がこの辺で採れたんですね。
林
ほうほう。
石井さん
炭鉱労働や港の荷役作業をするために、全国からたくさんの人が集まってきたんですけど、ヤンチャで荒っぽい人が多く、そんな人たちを取りまとめるボス的な役目として台頭してきたのが、北九州の暴力団だったと言われているんです。
林
そういうわけなんですか…。
石井さん
しかし、1960年代にエネルギー源が石炭から石油へとシフトして、炭鉱は相次いで閉山します。
さらに製鉄などの重厚長大から、電子部品などの軽薄短小へと日本の産業構造も変わっていったんですね。
林
このあたりは昔「四大工業地帯」と呼ばれていたそうですが、僕が学校で習った頃には北九州が外されて、「三大工業地帯(京浜・中京・阪神)」になっていました。
石井さん
こうしてだんだん仕事がなくなっていって、ある人は北九州から出て、またある人はホームレスとして路頭に迷うようになりました。
北九州市の人口はどのくらい減ったと思います?
💡林輝幸とクイズに挑戦!
林
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林
Dの35万人減だと減りすぎかな…。でも北九州市は人口減ワースト1位っていうくらいだからな…う〜ん、やっぱりDにします。
石井さん
正解はBの約15万人です。草津市や木更津市といった、中規模の都市ひとつ分くらいの人数がいなくなってしまいました。
林
そうなりますよね。
林
工藤会本部跡地に建てる「希望のまち」は、どんなビジョンを描いているんですか?
石井さん
2年後のオープンを目指して、3階建ての施設を建設します。
石井さん
1階は地域の人たちが自由に利用できたり、不登校の子や困窮家庭の子に学習支援を行ったりするカフェや図書館。
2〜3階に一人で住まうのが難しい人のための救護施設を入れようと考えています。
林
複合型施設なんですね。
石井さん
ここに来たら、家族的なつながりを持てて、困りごとが全部解決できるみたいな場にできたらいいなと。
目指すのは誰もが居場所や出番を作ることができる場所です。
林
うんうん。
石井さん
そして子どもたちには、ここでどんどん成功体験を積ませていきたいのです。
結局、困窮者の問題って個人の問題というよりも、地域全体の問題なんです。
石井さん
ホームレスの方々に話を聞くと、根っこに「育った家庭の問題」があることが多いんですね。
子どもたちの居場所をしっかり作っていくということが、本当の意味での貧困問題の解決につながるんだと思います。
今回のインプット・ジャーニーはいかがでしたか?
ホームレスや困窮者の問題は地域全体の問題であり、自分ともつながっている問題なんだということを学ばせていただきました。
産業構造の変化によって人口が減り、困窮者が増えるという現実は、北九州だけでなく近い未来の日本全体が直面することのようにも思えます。
抱樸さんの取り組みは、そのモデルケースとして注目されるべきでしょう。
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