cat_13927_issue_collaboration @linenews_collaboration_70a4d90672b0_提携メディアコラボ特集とは 70a4d90672b0 70a4d90672b0 提携メディアコラボ特集とは @linenews 0

提携メディアコラボ特集とは

2021年4月27日 14:46

「コラボ特集」とは、LINE NEWS提携媒体各社が、それぞれの専門領域での深く、継続した取材をもとにつくりあげる、LINE NEWSユーザーの皆さんのための特別企画です。未知のジャンル、遠い過去、全国各地の話題など、普段読まないテーマの記事に触れてもらい、多くの発見を得てもらえるようにと、各媒体から特別なコンテンツが限定配信されています。

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ビューティ業界が新色を積極的に打ち出さない!? 代わりに連呼する「血色感を引き出す」に込める想い

2023年3月15日 11:00

最近、ビューティブランドの新製品発表会で明らかな変化が起きている。

「この春は、この色です!」「春の新色は、こちらです!」ーー。

シーズンごとに繰り返し聞いてきた、カラーコスメの新色を伝えるための決まり文句が聞こえなくなってきたのだ。

代わりに飛び込んでくるフレーズは、「血色感を引き出す」や「輪郭を強調する」。使い手の個性や「らしさ」に寄り添おうとする姿勢は消費者の支持を広げ、こうした新しいフレーズを聞く機会は増えるばかりだ。

時代を映し出すメイク業界では今、何が起こっているのだろう?いち早く「血色感を引き出す」というフレーズを使い始めた人物に話を聞いた。

目指すのは「透き通る」カラーコスメ

「血色感を引き出す」は、リップやチークの色を紹介する時に使われる。「血が通っている感じ」な唇や頬を手に入れるためのピンクやレッド、オレンジを紹介する時の言葉だ。

一方の「輪郭を強調する」は、アイブロウやコントゥアリング(光と影の部分を生み出し、顔を立体的に見せるメイクテクニック)を紹介する時に聞く言葉だ。

コスメブランドは「血色感を引き出す」ことでメイクをする人の生き生きとした魅力を表現しようと試みて、「輪郭を強調する」ことでその人ならではの個性を際立たせようとしているのだ。

その根底にはいずれも、作り手が一方的に提案する色で個性を奪うのではなく、使い手の魅力を引き出すことでむしろ個性を楽しんでほしいというブランドの思い、もしくは、そうしなければ消費者に支持されないという危機意識が見え隠れする。

多様性の時代だからこそ、勝手に決めた色の一方的な発信を避けているのだ。

新製品の発表会で「血色感を引き出す」という言葉を最初に連呼したのは、ビューティクリエイターの吉川康雄が手がける新メイクアップブランド「アンミックス」だ。

吉川は1983年にヘア&メイクアップアーティストとして活動を開始し、ファッションや広告制作などの現場で幅広く活躍。その後はカネボウと共にコスメブランド「キッカ」を立ち上げたが、2020年に終了した。

「アンミックス」は、独立独歩のブランドとして翌21年にスタート。製品の第一弾は、“血の赤”にこだわった“モイスチャーリップスティック”だ。


「メイクで表情を隠すのは、正しいのだろうか?」


吉川は、ヘア&メイクアップアーティストの頃から、「メーンはアーティストではなく、モデル。個性をいかに生かしつつ、ストーリーに溶け込ませるか?」を考え、多くのアーティストによる「メイクをモデルに被せてしまう」表現方法に疑問を抱き続けてきた。

「メイクで表情を隠すのは、正しいのだろうか?『メイクをしているから、顔が赤いのが見えなくなった』ではなく、『メイクをしているのに、顔が赤くなっちゃった』の方が人間らしい。顔が赤くなるのは、人間らしく、いろんな感情が溢れている証拠。モデルの個性を生かす方が、より遠くまで到達できる」と当時を振り返る。

だからこそ「アンミックス」では、「メイクで表情を隠すのではなく、個性や特性をどうやって表現・再現するか?」にこだわり、「どれだけ透き通るのか?」を追求するカラーアイテムを作り続けている。

彼は、「ストーリーを語って、そのムードを表現する色を売るのは、作り手には楽しいこと。でも、そのムードと同調できない人には、どうなのだろう?ブランドが『今年はコレ』や『こうなりましょう』という強い発信は、必要なのだろうか?」と一石を投じる。

とはいえ、色を強く打ち出さないカラーコスメは売れるのか?そう吉川に聞くと、「コロナ禍でリップは苦戦したが、(アイシャドウの)“アイリッドニュアンス”は3カ月分の在庫が数日で無くなった。『何も隠れない』メイクを売るには、確固たるメッセージと丁寧な説明が必要だが、支えてくれるお客さまは広がっている」と話す。

吉川は「大きな会社に身を置いていたら、個性を引き出す製品づくりには転換しきれなかったかもしれない。(『アンミックス』のように)歩みを進めるのは、手間のかかる仕事だったのでは?」と振り返るが、古巣の大手、カネボウ化粧品のブランド「カネボウ」もまた個性を際立たせるアイテムの拡充を進めている。

打ち出すのは、色ではなく、“うるみ”。


同ブランドが最近打ち出すのは、色ではなく、“うるみ”。

昨夏には、ぷっくりとした“うるみ膜”をまとうティントタイプのリップコートや、立体感を引き立てる“うるみ艶”を仕込むマルチジェリーなどを発売した。

新しいカラーコスメに関するコミュニケーションでは、「透明感」「生命感」「血色感」「上気したような艶」などの言葉が並ぶ。いずれも元来、人間に備わっているものだ。

「カネボウ」を含む花王の化粧品事業は「Celebrity of Indivisuality. 一人ひとりの人間を、その生き方を、讃える」をコンセプトに定めている。

その中で「カネボウ」は商品コンセプトを「Unlock Your Energy」と定め、一人ひとりが元来持っているエネルギーを最大化することを目指し、「憧れの均一なビューティルックは提唱せず、一人ひとりのパーツを際立てる商品設計を心がけている」という。

同ブランドはリブランディング以降、20~30代の若い世代や男性のユーザーが増えた。そして、研究員から店頭の美容部員までが「驚くほど元気になった」という。

噴出した批判を、可視化されなかった声と捉える


実は「カネボウ」は2020年、「生きるために化粧をする」というブランドCMを展開し、大きな批判を浴びたことがあった。

「カネボウ」は、「生きる上で、化粧は大事な営み」という思いを発信したかったのだろうが、「女性は化粧をしなければ、生きてはいけないのか?」「化粧を強制しないでほしい」などの批判を浴び、SNSは炎上した。

だが「カネボウ」は、一気に噴出した批判を、これまで可視化されてこなかった声と捉え、真摯に向き合う。

そして翌年には「ポジティブなムードを表現したい、でも、それを勝手に押し付けてはいけない。そのバランスやメッセージ、放映時期については状況も鑑みながら、考え抜いた」という「希望よ、動き出せ。」というメッセージを発信している。

「押し付けてはいけない」という考え方は、「透明感」や「生命感」「血色感」「上気したような艶」を引き出すことに集中する昨今の製品コンセプトにも通じている。

ビューティ業界の多様性に関する配慮は、数多い。

廃止したのは、「標準色」


例えば「スック」は21年、“諭吉ファンデ”と呼ばれた1万円台の看板ファンデーションの進化版「ザ クリーム ファンデーション」のカラーバリエーションを拡充。

12色を追加する一方で1色を廃止し、全23色とした。

カラーバリエーションを増やしたのは、多様な肌色に対応するため。

一方廃止した1色は、それまでブランド側が最も多くの日本人女性の肌に馴染むであろうと定めていた「標準色」。

「標準色を選ばない=自分は普通じゃない」と捉えてしまうかもしれない人の存在に目をむけ、この色を廃盤としたのだ。

カラーコスメの新色とは異なるが、これもまた「憧れの均一なビューティルック」から女性を解放するための一助だろう。

近年ビューティ業界で「標準色」という呼称を改めるブランドは多いが、その色ごと廃盤にするのは珍しい。

おそらく「最も多くの日本人女性の肌に馴染むであろうと定めていた」色だけあって、「標準色」の売り上げは、「ザ クリーム ファンデーション」の中でトップクラスだっただろう。

その取り扱いをやめてまで、一方的な決めつけと捉えられかねないコミュニケーションを改めた「スック」には拍手を贈りたい。

コーセー社長は、「私は女性用、男性用をうたわない」


コーセーの「雪肌精」は、女優の新垣結衣とスケーターの羽生結弦を起用したビジュアルと共に、年代・性別を問わないブランドとしてコミュニケーションを刷新した。

小林一俊社長は、「私は女性用、男性用をうたわないポリシーを一貫している。多様な価値観や嗜好を持つ人がおり、女性、もしくは男性向けという訴求は意味を持たない」と訴える。

同社はグローバル(Global)、ジェネレーション(Generation)、ジェンダー(Gender)の「3G」をキーワードに新客の獲得を図る 。

「アンミックス」の吉川は、「青や赤が顔にのって、似合う人はそんなに多くない。だからこそ『どれだけ透けさせるか?』をテーマに、色がはっきり出ない仕上がりを追求したい」と話す。

色をはっきり打ち出さず、はっきりしない色を積極的に問いかける。

色をはっきり伝えないという決意は、はっきりしている。

そんなブランドが増えていくのかもしれない。


※この記事は、WWDJAPANによるLINE NEWS向け特別企画です。

外部リンク

cat_13927_issue_collaboration @linenews_collaboration_p50prttg2x83_「自分だけが息をしていた」向き合った100人近い遺体  死を身近に感じた菓子職人の12年 #知り続ける p50prttg2x83 p50prttg2x83 「自分だけが息をしていた」向き合った100人近い遺体  死を身近に感じた菓子職人の12年 #知り続ける oa-kyodo 0

「自分だけが息をしていた」向き合った100人近い遺体  死を身近に感じた菓子職人の12年 #知り続ける

配信 2023年3月9日 11:00更新 2023年3月15日 16:59

小学校の体育館には100人近い遺体が横たわっていた。津波の犠牲者だ。

菓子店主で消防団員の菅野秀一郎さん(47)は、遺体安置所となったこの場所に1人でいた。広い体育館にこれだけの人がいるのに、呼吸をしているのは自分だけ。「正直、恐怖も感じた」

身元を確認するため、一人一人の顔を順番に見ていく。商店街の店主仲間、近所に住む幼なじみ、まだ小さな子ども…生まれ育った地元だから、見覚えがある顔ばかり。津波は、弟や親友も奪っていった。

震災から12年。かつての街の上に盛り土した新しい市街地に店を再建し、忙しく働く。それでも、失った故郷の風景と犠牲になった家族や友人の面影が頭から離れることはない。

「俺らは文字通り、多くの人の犠牲の上に生活している。彼らに恥ずかしくないように生きる」。こう語った一方で「死ぬのを楽しみにしている」と笑顔を見せた。なぜ、そんな言葉を口にしたのか。

最初は煙だと思った「灰色の壁」、津波だった

海岸沿いに続く松原と白い砂浜が美しい岩手県陸前高田市。小さな駅舎から延びる古い商店街に建つ「菅久菓子店」の5代目に、菅野さんは生まれた。

明治時代から続く老舗。看板メニューのチーズケーキやシュークリームを買い求め、近所の人が訪れる庶民的な店だった。

高校まで地元で過ごした後、仙台で修行。菓子作りを学んだ。24歳で陸前高田に戻り、父の店で職人として働き始めた。ところが2006年、父は63歳で突然亡くなった。多額の負債を抱えていたことを死後に知った。

妻の故郷・仙台で心機一転、やり直そうと決めた。2011年3月11日の夜は同級生が集まり、送別会が開かれる予定だった。場所は同い年の親友、及川充さんが働く寿司店だ。

午後2時46分の地震後、消防団員として出動しようと屯所に向かった。途中の公園で見かけた人々に、津波を警戒して「上に上がれ」と叫んだ記憶がある。

ふと見やった先に、煙が立ち上がっていた。「最初は火事だと思った」が、津波だった。灰色の「壁」が信号や電柱をなぎ倒していく。必死で逃れた高台で、街が水に埋まっていく光景を眺めた。「高田は終わりだと思った」

遺体安置所にいた親友、泥まみれの顔を拭い

翌朝の夜明けを待って、生存者を捜すため消防団の仲間と水が引いた街に下りた。雪がちらつく中で目にしたのは、茶色に塗りつぶされたがれきの海。

最初に遺体を目にした時のことは、ショックであまり覚えていない。多くの亡きがらを見た一方、助け出せた人はわずかだった。

数日後、がれきに足を突っ込んで負傷し、捜索から離れて遺体安置所となった体育館に詰めた。身元の確認をして警察に伝える役割だ。

思い立って被災を免れた民家で線香をわけてもらい、がれきから見つけたおわんに挿して手向けた。館内に漂っていた磯の匂いと死臭に、線香の匂いが重なる。「その時初めて、お線香の意味を知った」

少しでも早く、家族の元に帰れるように。一体一体確認していくうち、泥にまみれた人々の顔や体を雪解け水や泥水、涙で拭うようになった。 たくさんの遺体の中には寿司店の親友、及川さんもいた。

「おめえも行っちまうのか」

失ったのは親友だけではない。結婚したばかりの市職員で弟の浩平さん=当時(33)、幼い頃から面倒を見てくれた親戚、子どもの誕生日ケーキを買いに来てくれた消防団の上司も亡くなった。

「おめえも行っちまうのか」。 彼らにそんなふうに言われる気がした。妻子と仙台に行くことはやめ、ひとりで故郷に残った。

犠牲になった上司の代わりに、消防団の部長も引き受けた。死者の魂を弔う夏の伝統行事「動く七夕」では実行委員会のメンバーに。津波で流された店の再建に向けても動き始めた。

「たくさん亡くなった人を見た。それなら、やれる人間がやらなきゃ」との思いからだ。

それでも、余りにも多くの人の死を見たためか、「死」を身近に感じるようになった。津波注意報が発令されても避難しなかったこともある。「津波が来たら来たで仕方ない」。震災から1年半後、投げやりになった気持ちをそう吐露していた。

誰かに相談したくなるたび、浮かぶ顔

仮設店舗で菓子店の営業を再開したのは、震災から2年が経過した2013年4月23日。

その5年後、盛り土された新たな市街地に店を再建した。震災で亡くなった弟・浩平さんの誕生日だった。仙台にいた家族も戻り、近くに家も建てた。ハード面での「復旧」はもう終わった、と感じることもある。

ただ、街の再建や店の経営、消防団の運営など、誰かに相談したくなるたびに、亡くなった多くの人々を思い浮かべて「あの人がいてくれたら」と願う。土の下にある以前の街並みも思い出し、「忘れられない」と反すうする。

「亡くなった人も、前の高田も、もう戻らないのは分かっている。ここから始めるしかない」。自分に言い聞かせるように口に出す。

2020年3月11日、陸前高田市の追悼式で遺族代表を務めた。たくさんの面影が浮かぶ。「あなた方が、私の故郷で『陸前高田』だったのです」「今日という日だけは昔を思い出し、あなた方を思い、立ち止まる」

実は式典への参列は周囲からずっと勧められていたが、踏ん切りが付かなかった。震災から9年が経過していた。

陸前高田に根付く「新しい縁」

「カン、カン」。2023年2月下旬。夜の帳が下りた陸前高田の市街地に、鐘の音が響く。消防団の夜警だ。「気を付けろよ」。屯所前に立つはんてん姿の菅野さんは、団員を乗せたポンプ車を送り出していた。

菅野さんが部長を務める高田分団第3部は、震災で団員6人が犠牲になった。残った団員も仮設住宅などへの転居でばらばらになり、存続が危ぶまれた時期もある。今は実働14人。うち半数以上が震災後に入った。

大工の鈴木豊さん(46)もその1人。2012年に入団した。「自分は家も職場も大丈夫だった。家族を亡くしながらも捜索に出る姿を見て、力になりたいと思った」

東京から移住してきた塗装工の山内一平さん(32)は、菅野さんの店のペンキを塗った縁で誘われ、5年ほど前に入った。「小さいことしかできないけど、少しでも高田の役に立てるなら」。菅野さんは「こうやって、新たに高田に縁ができる人が増えるとうれしい」と目を細める。

うれしいことは他にもある。仙台で菓子作りの修行をしていた長男の久秀さん(25)が3年前に戻り、一緒に働き始めた。「道の駅」にも卸す新たな看板メニュー、マドレーヌを任せている。

菅野さんは「もっと新しいアイデアを出してほしい」と注文を付ける一方で、父親の顔になって相好を崩した。「後継ぎが戻ってきて、俺は幸せ者だ」

いつかあの人たちと語り合うために生きる

がれきと涙と悲しみに覆われていた街には今、新しい家や店が少しずつ増えた。訪れる人も、復興に尽力したボランティアから観光客に変わった。

街の中心地に建ち、海を望む刻銘碑には、浩平さんや及川さんら亡くなった人たちの名前が刻まれている。菅野さんは陸前高田市の都市計画審議委員会のメンバーでもある。

「ここに名前がある人たちと一緒に、町づくりをやっているつもり。同じような犠牲をもう出さず、子どもたちが古里だと愛着を持てるような、新しい高田をつくりたい」

震災からの12年間を尋ねると「2011年3月11日という点を見ながら、後ろ向きに走ってきた」と表現した。

あの日のまま時間が止まった人たちと懐かしい街並みは、どんどん小さく遠ざかっていく。「前向きじゃないよね。時だけは前に進んでいるけど」。それでも、いろいろな人に支えられ、この場所で生きてきた。投げやりになることはもうない。

いたずらっぽく笑い、こうも口にする。「俺は死ぬのを楽しみにしている。亡くなった人と話がしたいんだ」。あの時どこへ逃げたのか、何を思っていたのか、被災後の自分の生き方をどう感じるのか。聞いてみたいことがたくさんある。

「だから今は生きて、報告事項を増やしているの」

(共同通信社会部 兼次亜衣子、撮影=金子卓渡)

※この記事は、共同通信によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、一人一人ができることを。


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“怖い”と感じた被災地での舞台挨拶…「許せない」と思われても。新海監督が震災描く理由#知り続ける

配信 2023年3月8日 11:00更新 2023年3月8日 17:00

「おかあさん、どこ?」と泣きそうな声で誰もいない荒れ地をさまよう小さな女の子。ギイイッという音の先には、建物の上に乗り上げた漁船が…。

 2022年11月11日から公開され、大ヒット中のアニメーション映画『すずめの戸締まり』冒頭のワンシーンです。12年前の震災を思い出し、心をえぐられるような思いをした人もいたかもしれません。

「舞台あいさつって、普段はあまり緊張せず楽しいものなんです。でも、今回は怖いと感じました」

 本作を手掛けた新海誠監督は、数々の大ヒット映画を創造し続けている、気鋭のアニメーション監督です。新作を発表するたびに全国各地の映画館を訪れ、観客とコミュニケーションするためにたくさんの舞台あいさつを行っています。

 それは2002年の商業デビュー作『ほしのこえ』の頃から一貫して監督が大切にしていること。「観客の顔を見て声を聞くことが自分にとって何より特別な時間で、それが映画づくりの醍醐味」と考え、20年以上、繰り返し行ってきた舞台あいさつですが、『すずめの戸締まり』で被災地である東北の映画館を訪れた時は怖さを感じたと言います。

 2016年公開の『君の名は。』や、2019年公開の『天気の子』でも、災害をモチーフにしたアニメ映画を手掛けてきた新海監督にとって、東日本大震災は「(作家として)作るべきものを変えさせられた」出来事でした。

 東日本大震災から12年。監督が今も震災をはじめとする災害に向き合い続ける理由と、2011年の震災発生当時から、『すずめの戸締まり』公開後のこれまでを新海監督に聞きました。

「3・11」からずっと続く「ある気持ち」

 2011年3月11日14時46分、東北地方を襲った巨大な揺れは、200キロ以上離れた東京をも大きく揺るがしました。1995年の阪神・淡路大震災の時は大学生だった新海監督は、関西に住んでいた妹の心配をするなど「ただただ翻弄されるばかりだった」そうですが、2011年の東日本大震災はアニメーション監督として災害に向き合う転機となりました。

 その時、新海監督は同年5月に公開を控えていた長編映画『星を追う子ども』を東京都内で制作中でした。「自分や日本という国の将来、そして、まだ1歳にもなっていない娘の将来はいったいどうなるのか」と、その先のリアルな人生を初めて心配する事態だったと語ります。

「こんなことをやっていていいんだろうか、もっと役に立つことをしなければいけないのではないか」

 しかし、アニメーション制作には膨大な人たちが関わり、それらスタッフの生活や人生もかかっています。監督が投げ出すわけにもいきません。

「仕事を休んでボランティアに行く人や、実際に仕事を変えた方もいらっしゃるでしょうけど、僕はそこまで踏み切ることはできませんでした」

 新海監督は震災以降、アニメーションを作り続けていくことに、自分が被災者でなかった、当事者ではなかった、という「後ろめたさ」を感じるようになり、それは現在までずっと続いているといいます。

 しかし、自分にできることはエンタメを作ること以外にない、「エンタメを作ることの意義や意味のようなものを、震災をきっかけに考えるようになった」と話します。

東北での舞台あいさつで聞かれた「声」とは

 2011年7月、『星を追う子ども』の公開から遅れること2か月。被災地である東北の映画館が営業再開し、仙台や福島の被災地域でも同作品の舞台あいさつが行われました。その時、監督は大きな津波被害のあった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)にも番組の取材で足を延ばしています。

 人口の1割以上となる800人もの犠牲者が出たこの地域は、当時津波によって建物が流され、荒涼とした風景が広がっているだけでした。

 その閖上を訪れた体験が、2016年の『君の名は。』の発想の原点だと新海監督は言います。あの時、閖上で新海監督は「自分もここにいた可能性があったかもしれない」と感じ、その感覚が、東京の男子高校生と彗星の落下で被害に遭う地方の女子高校生が入れ替わるという発想につながっています。新海監督がそのことを初めて公に打ち明けたのは、同作の舞台あいさつで名取市の劇場を訪れた時だったそうです。

「名取でそのことを話してくださって、ありがとうございます」

 観客から掛けられたその言葉が、新海監督にとって今も印象に残っているといいます。

『君の名は。』に続く『天気の子』では気候変動により異常気象が続く世界をテーマに、誰でも被災当事者に成り得ることを描きました。しかし、『すずめの戸締まり』では今まで直接描かなかった現実の震災による爪痕を、物語のなかに登場させたのです。

 主人公のすずめが東北に向かう道中、道路沿いには朽ちた家屋が見られます。荒涼とした場所に電波塔がぽつんと立つすずめの実家付近も、参考にした場所があるといいます。そうした現実の被災現場を娯楽映画のなかに取り込んで本当に良かったのだろうか、と監督は悩んだようです。

 そして作品の公開後も「東北地方の劇場に行くべきか迷った」と、複雑な胸中だったことを明かしました。

「お客さんに嫌な思いをさせてしまうのではないか。無用なハレーションを起こしてしまうかもしれない。かといって東北だけ舞台あいさつに行かないのも不自然ですから、スタッフとも相談し、行くことにしました」

 新海監督が東北での舞台あいさつで緊張するもうひとつの理由は、他の地域と比べて「トーンが違う」という点です。

「どの地域でも、舞台あいさつの合間にローカルテレビ局や新聞社の取材を受けますが、東北では、インタビュー中に涙ぐむ方や、『自分も被災者で…』と、ご自身の体験を語ってくださる方もいらっしゃいました。もちろん、観客の温度感も違いました。どの地域の舞台あいさつでも鑑賞後に泣いてくださっている方はいるのですが、東北の劇場の場合、その涙がどういう意味なんだろう、本当に大丈夫だったのだろうか、必ずしも映画に感動したということだけではないのかも、と思いました」

 しかし、そんな新海監督の心配をよそに、東北の観客から温かい言葉をたくさんもらったそうです。

「奇妙な話かもしれませんが、みなさんこちらを励ましてくださるんです。『大丈夫ですよ』とか、『ナイーブに見えますけど、元気出してください』といったお言葉をたくさんいただきました。それは東北三県で共通していたことです」

何かを表現することは常に「暴力性」を帯びる

 しかし、新海監督は、そうした励ましの声の「外側」にいる人に想像力を働かせることも忘れていません。

「映画を観に来てくださる方々が励ましてくれた一方、『こんな映画は許せない』と思っていらっしゃる方々もいるだろう、ということも同時に思いました」

『すずめの戸締まり』には、震災の被害を想起させる描写も少なくありません。そうした表現は誰かを傷つける可能性があることを、新海監督は十分に自覚した上で、それでもあえて描写することを選んでいます。

▲公開中の『すずめの戸締まり』PVでは、作品タイトルが表示される0分51秒から、地震災害を想起させる表現が随所に挿入されている。PVで災害を止めたい、大切な人を守りたいという主人公の思いに感情移入させられる場面も

「何かを表現することには常に何らかの暴力性が帯びると自覚しています。しかし、その暴力性を過剰に避けたら誰の心も動かせないものになってしまう。それではそもそもエンタメを作る意味も意義も見出せない。人間関係はなんであれ、深く知ろうと思えば、傷つけあう過程がどうしてもあります。勝手な言い分かもしれないですが、触れてほしくないことというのは、触れてほしいことでもあると思うんです」と、新海監督は話します。

『すずめの戸締まり』では、主人公のすずめが震災による悲しい記憶と向き合い、自分自身を励ましながら前へと歩き出す姿が描かれています。

 実際に震災で友人や家族を亡くされた方から、映画に対して「明日につなげられるんだ、生きていていいんだと思った」や「この映画をきっかけに、家族を津波で亡くしたことを友人たちに打ち明けることができた」という声もあがっています。

震災に興味がなくても「面白そうだから見てみよう」と思える作品を

 新海監督は、物語の「人の心を動かす力」は震災の記憶をつなぐことにも役立つと考えているようです。

 監督は、本作の制作動機として、若い人びとを中心に震災を知らない世代が増えていることへの危機感を挙げています。しかし、東北地方では震災からの復興が終わったわけではありません。それは映画の風景にも刻印されています。

「映画で描いた国道6号線沿いのシーンは、道路だけが真新しく、道路沿いの家々は廃屋のようになっていますが、あれは現実の風景で、全て誰かの帰るべき家です。実際に東北へ向かう道路を走っていると工事車両の多さに気がつきます。地元住民よりも、工事関係者の方が多いようなところもあります。そういう風景が今も続いているんです」

 エンタメには人びとの共感を集め、感情移入させる力があると新海監督は言います。その力は、震災を知らない若い世代へと伝える力にもなると、監督は信じています。

「もし、震災に興味がなくても、面白そうだから見てみよう、話題だから観に行ってみよう、という広がり方ができるのがエンタメの力だと思うんです。そして、物語は観客と登場人物に感情移入、共感させることができる。そのためには、作品自体が面白くなければなりません」

「物語の力」というバトンが受け継がれていく

新海監督自身も「物語」から多くのことを学び、そして助けられてきたと言います。

「物語は、学校や家とも違う、第三の居場所のようなものだと思います。自分も10代や20代のころ、そういう場所に逃げたことはあるし、物語を通じて世界を少しずつ知ってきました」

 そういう物語を、いま、自分が提供する番が来たと新海監督は自覚するようになったそうです。

「『君の名は。』の公開前、なにかバトンのようなものが手元に来たような気がしたんです。アニメーションによる自分の得意な表現と、観客が共有できるテーマに接点が見つかり、何らかの役割を果たすターンにいるんだという感覚です」

 エンタメの物語を作ることは、そのバトンを渡していく行為とも言えるかもしれません。

「自分がバトンを持っている感覚は、錯覚のようなものかもしれません。それでも、物語の作り手には、バトンが来たと感じるタイミングがきっとあるはずです。その錯覚がふいに訪れるという意味で、それは受け継がれていくものなんだろうと思います」

『君の名は。』、『天気の子」、そして『すずめの戸締まり』と。震災を機に自然災害と向き合い続けてきた新海監督。大きな衝撃を与えた2011年の大震災が若い世代にとって遠い出来事となってしまう前に、今しかないという強い覚悟で作った『すずめの戸締まり』は、震災の記憶を次の世代へと渡すバトンとなるのかもしれません。

[取材・文=杉本穂高/編集=佐藤勝、沖本茂義/撮影=小原聡太]

※本記事は、「マグミクス」によるLINE NEWS向け東日本大震災特集です。

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東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、一人一人ができることを。



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行方知れずの親、結核で入院、原発事故…流転の人生を経て帰り着いた古里と、愛する伴侶 #知り続ける

2023年3月6日 11:00

 幼いころ、両親が離婚し、児童相談所に預けられた。「1週間たったら迎えに来るから」。父はそれきり、戻ってこなかった。
 小児結核を患い、中学2年まで病院で過ごした。看護師さんたちは「親みたいに」大事にしてくれた。
 30歳を前に、縁あってその病院の職員となった。生まれた地でなくても、家族はいなくても、ここは間違いなく自分の〝故郷〟だった。
 定年退職を迎えるその年、東日本大震災が起きた。愛する町には、東京電力福島第1原発が立地していた。

 避難の日々が始まった。流転の人生に、逆戻りしてしまった。
 伏見明義さん(72)は現在、避難先で結婚した妻の照さん(70)とともに帰還を果たし、JRの駅舎の清掃業務に当たっている。
 「お世話になった町のためになるなら」
 何気ない言葉の裏には、万感の思いがある。

清掃に込める思い

 福島県大熊町。明義さんがJR大野駅の清掃業務に就いたのは、2年半前だ。掃除機やほうき、雑巾を手に、手すりや床、トイレを丁寧に磨く。駅に列車が停車するのは1時間に数本で、乗り降りする人はわずか。それでも、「町を訪れた人に玄関口の駅がきれいだと思ってもらいたい」と願い、汗を流す。

JR大野駅で清掃作業に当たる伏見明義さん、照さん

 駅を含む一帯は福島第1原発事故に伴う特定復興再生拠点区域(復興拠点)に指定され、2022年6月に避難指示が解除された。新たなまちづくりは動き出したばかりだ。
 駅舎から見える景色は刻々と変化している。町の復興事業が進むのに伴い、家屋や事務所などの解体が進む。特にこの1年で、原発事故前からの建物はほとんどなくなった。
 「何もなくなってしまったなあ。復興のためには仕方がないのかな。どんな町になるんだろうか」。2人がつぶやく。見慣れた風景が失われるさみしさと、生まれ変わる町への期待感が入り交じる。

帰ってこなかった父。そして入院

 明義さんは福島県相馬市出身。幼いころに両親が離婚し、児童相談所に預けられた。「父親には『1週間たったら迎えに来る』と言われた。でも、バスに乗ってどこかに行って、もう来なかった」。理由は今も分からない。その後、相馬市の児童養護施設に送られた。
 小学校に上がる前だった。施設の職員2人に汽車に乗せられ、大熊町に来た。着いたのは大野駅近くにあった県立大野病院の結核病棟だった。何も告げられないまま、病室に連れていかれた。職員2人はすぐに出て行った。「2人を必死に追いかけたけど、看護師さんにストレッチャーに乗せられて病室に戻された」
 自身が小児結核を患っていたことを後から知った。
 病院内には、入院中の子どもが学ぶ院内学級があった。「知らない町や病院がすごく嫌だった」。でも、すぐに他の児童と仲良くなった。当時は病棟への出入りに厳しい規制はなく、頻繁に外で遊んだ。

 福島第1原発が立地する前、町内は林業が盛んだった。豊かな自然、木の香りに包まれて過ごした。木登りをして泥にまみれたり、ザリガニ釣りに夢中になったりした。病院前の売店では度々、おばさんが大福をくれた。口の中いっぱいに広がる甘さは今も忘れられない。

忘れられない場所

 療養は中学2年生まで続いたが、周囲の支えもあり、さみしさは感じなかった。「何人かで看護師さんの家に遊びに行き、食事もごちそうになったときもある。看護師さんは親みたいな存在だった」。長く生活するうちに、大熊町が大好きになった。
 「大熊は俺の古里。本当に良い思い出ばかりで忘れられない場所なんだよ」
 退院後、中学3年生で相馬市の向陽中に転校した。卒業後は集団就職で上京。東京都内の段ボール会社や埼玉県内の自転車部品工場で働いた。盆と正月は大熊町に向かい、お世話になった町民の家にあいさつに訪れた。町への強い思いを常に心に抱いていた。

原発事故3カ月前に建てたマイホーム

 29歳のころだった。知人に誘われて大熊町に戻った。大野病院の用務員となり、患者や医師を送迎する運転手も担った。
 「大野病院には縁がある。大熊町に暮らし続けよう」。2010年12月、大野駅近くに木造平屋の自宅を新築した。定年を翌年春に控え、「ゆっくりと暮らそう」と考えていた。マイホームの居心地は良く、愛犬「チャッピー」と穏やかな日々を過ごした。慣れ親しんだ場所での新生活に心を躍らせた。原発事故が起きる、わずか3カ月前のことだった。

 約30年にわたり大野病院で勤務した。2011年3月11日は、定年退職のための送別会が開かれる予定だった。仕事は休みで、自宅でテレビを見ていた。午後2時46分―。「緊急地震速報」の文字が目に飛び込んできた。
 突然の揺れに襲われた。大野病院が心配になり、すぐに車を走らせた。

殺気立ち、大混乱の院内

 院内は混乱し、医師や看護師は殺気立っていた。職員は安全を確保するため、患者を外に移動させた。「早く、早く」。必死に呼びかける声が至るところで響いた。繰り返す余震がようやく落ち着いた後は、寒さをしのぐため病室に患者を再び移した。その日は病院で不安な一夜を過ごした。「とにかく大変な状況だった」
 翌12日、福島第1原発1号機が水素爆発し、全町避難を強いられた。「何が起きたか分からなかった。必死だったから正直、あまり記憶がない」
 患者をすぐにバスに乗せ、福島県内陸部の病院などに転院させた。「すぐに戻ってこれる」。当時はそう考えていた。
 3月14日、福島第1原発で今度は3号機が水素爆発したとニュースで知った。「だめだ。もう戻れないかも知れない」。絶望感とともに、長期の避難生活を覚悟した。

時の首相に直接訴えた、「帰りたい」

 約1カ月後、田村市にある工場の大部屋に移った。冷たい床に布団を敷いて毎日を過ごした。寒さが体にしみた。十分とは言えない食事も続いた。「いつ家に帰れるのだろう」。常に不安を抱えていた。「原発事故さえ起きなければ…」。さみしさや悔しさは日々、増すばかりだった。
 その後、田村市内の避難所に指定された体育館に身を寄せた。視察に訪れた菅直人首相(当時)に声をかけられた。「帰りたい、帰りたい」。必死の形相で訴えた。
 いつ戻れるのか、答えはなかった。

 2011年の夏ごろ、ようやく生活が落ち着いた。田村市の仮設住宅に愛犬と入居した。周囲に知人や友人は少なく、知らぬ顔ばかり。近所付き合いもほとんどなかった。土地勘もなく、環境の変化に戸惑った。
 大好きな愛犬は、入居後1週間ほどで息を引き取った。次々と変わる生活にストレスを感じていたのではないかと考えている。「賢い犬で、本当にかわいかった。さみしくなった」。つらい経験が続いた。

避難先で出会った、生涯の伴侶

 照さんとの出会いは2013年のことだった。仮設住宅での生活が続く中、友人の家政婦をしていた照さんと話すようになった。すぐに意気投合した。明るく、温かな性格に引かれていった。互いに1人暮らしだったため、一緒に出かけるようになった。
 田村市滝根町の観光鍾乳洞「あぶくま洞」、いわき市の飲食店…。同じ時間を過ごすと、心が落ち着いた。避難生活のつらい気持ちが和らいだ。

大熊町の自宅で震災と東京電力原発事故発生前の町並みの写真を見つめる伏見さん夫婦

 仮設住宅で2人で暮らし、2015年5月に結婚した。明義さんは「小さいころから1人で過ごすことが多かったから、まさか結婚するなんて思わなかった。(照さんを)好きとか嫌いではなかったけど」と照れ笑いを浮かべる。照さんも「別に仲が良いわけではないけどね」とはにかむ。

 新婚生活を楽しみ、2018年に住環境がより整った田村市船引町の災害公営住宅に引っ越した。

避難指示解除に向けた動きが加速

 明義さんの自宅がある大熊町では、避難指示の解除に向けた動きが加速していた。
 自宅から約5キロ離れた居住制限区域の町内大川原地区が第1次復興拠点となり、町役場や町民向けの災害公営住宅、商業施設、宿泊・温浴施設などの整備が進んだ。

 2019年4月10日、福島第1原発立地町として初めて、大川原地区の避難指示が解除された。「やっと大熊に戻れる」。明義さんは災害公営住宅への入居を申し込み、照さんと引っ越しの準備にいそしんだ。気持ちが高ぶり、作業がはかどった。
 同年6月、明義さんは照さんと新たな生活を始めた。車で10分程度走らせた場所にある自宅にはまだ住めない。町は建物の解体が進み、草が生い茂る場所も点在する。「あの日」から時間が止まったままの場所もあり、慣れ親しんだ風景は変わり果てていた。それでも、約8年3カ月ぶりに大熊で暮らせる。「自宅に近づけただけでも良かった」

 一時帰宅の制度を利用し、頻繁に自宅に通った。風雨による建物の損傷や動物に荒らされる被害はなかった。「大工さんの腕が良かったんだろうな。時が止まっていたようだ」と感謝した。将来の帰還を見据え、手つかずになっていた片付けを少しずつ始めた。「町に再び人が住めるようになった。いつかは自宅に戻れるようになる」と信じ続けた。
 災害公営住宅の入居から約9カ月がたった2020年3月、大野駅の利用が再開。駅の清掃員の募集を知った2人は構内で働き始めようと決めた。「長く町で暮らし、良くしてもらった。恩返しになればと思った」と明義さんは明かす。

11年間待ち続けた、「避難指示解除」

 大野駅東口から約1キロ離れた自宅周辺は復興拠点に指定され、集中的に除染やインフラの整備が進められた。放射線量が低減し、2022年6月30日に避難指示が解除された。

 当日、2人はいつものように大野駅で掃除に励んでいた。午前9時、避難指示解除を伝える放送が聞こえた。駅前では町や警察による式典が行われた。「大熊の復興が進む」。駅舎から目の前に広がる光景を写真に収めた。
 「我が家に自由に入れるのは本当にうれしいよ」。夫婦で自宅に戻ると、明義さんが声を弾ませた。いつも以上に片付けや掃除に熱が入った。

手を取り合い見届ける、故郷の復興

 復興拠点の避難指示解除から半年以上が過ぎた。拠点内にスーパーや病院などは、まだない。生活環境が十分とは言えないのが実情だ。
 先行して避難指示が解除されていた地区の災害公営住宅が生活拠点となっている。大野駅周辺の再開発は今後、さらに本格化する。駅西側には産業交流施設と商業施設が新設される。

 明義さんと照さんは現在、災害公営住宅と自宅を行き来している。少しずつ自宅に荷物を運び入れる。早ければ3月中にも自宅での生活に移行する考えだ。「ゆっくり、ゆっくり、準備を進め、その時を迎えたい」と夫婦のペースで作業している。
 最近、大野駅で清掃にいそしみながら周囲の景色を見渡すと、新しい家が建っていたのに気付いた。「時間はかかるだろうけど、徐々に活気を取り戻していくはず」。照さんはそう信じる。

 「2人でのんびりと、大好きな大熊の復興を見届けていくよ」と明義さん。夫婦で手を取り合い、大切な〝故郷〟で人生の歩みを進めていく。

※この記事は、福島民報によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、一人一人ができることを。

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「地獄絵図」にうなされても…夢追う息子に誓った牧場の再建「僕の代で潰すわけには」 #知り続ける

配信 2023年3月5日 11:00更新 2023年3月16日 16:53

人口が500人に満たない小さな山村がある。福島県葛尾(かつらお)村。

日本テレビ系列で放送している「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画、福島DASH村でコメ作りを進めている村でもある。

そこに1軒だけ、牧場がある。

牧場主は言う。「酪農家にとって、牛は家族と同じだ」

12年前のあの事故によって、地獄を見た。

避難を余儀なくされ、置いてきぼりにした牛たちは、逃げ出し、餓死した。生まれたばかりの子牛の亡骸に、絶望した。

7年半待って再起したが、困難の歩みは今も続く。「あっという間だったなんて、言いたくない」と牧場主は呟く。

絶望の中に射した、かすかな光。それは、かつてあった当たり前の営みが全て失われ、絶望してもなお「父のようになりたい」と言ってくれる息子の存在だった。

親子の苦闘を追った。

「牛と残って死んでもいい」

佐久間哲次さん(47歳)は、葛尾村にある佐久間牧場の3代目だ。北海道で酪農を学び20歳の時に跡を継いだ。少しずつ牧場の規模を拡大し、2010年当時、130頭もの乳牛を育てる福島県内で有数の牧場に成長させた。

経営が軌道に乗っていた2011年3月、東日本大震災が発生した。

自宅は内陸の山の中にあり津波被害は受けなかった。しかし、東京電力福島第一原発で全電源が喪失する事故が発生。放射能が広範囲に飛散し、国は原発から3キロ、5キロ、10キロ、20キロと住民への避難指示エリアをどんどん拡大していった。その一部に葛尾村も含まれていた。

妻と当時6歳の息子、そして両親を連れて避難しようとした。しかし、長年牛の世話をしてきた父の信次さん(当時60歳)が、涙ながらに抵抗した。

「牛とここに残って、死んでもいい」

父の思いは痛いほどよく分かる。それでも、家族を守るために、村から逃げるしか道はなかった。

「避難先から通いながらでも、牛たちの世話はできるはず…」

哲次さんは自分にそう言い聞かせ、いつものように牛たちにエサをあげて車に乗った。遠のいていく牛たちの鳴き声を背に、親戚がいる茨城県つくば市に避難した。

その直後だった、原発が次々と水素爆発を起こしたのだ。

「地獄絵図のようだった」

放射能の被害から村民を守るため葛尾村の松本允秀村長(当時)は「全村避難」を決断した。村から全ての住民が別の自治体へと退避する。その最中に近所の人から「佐久間牧場の牛舎にいた牛たちが逃げている」と聞いた。

避難と同時に人生をかけた酪農という生業が失われてしまうかもしれない。哲次さんはいてもたってもいられなかった。

震災から1週間後の3月18日、被ばくを覚悟でありったけのガソリンを集めて牧場に向かった。そこで目にしたのは、変わり果てた牛たちの姿だった。

「何頭もの牛が死んでいた。生まれたけど死んじゃった子牛も何頭もいて地獄絵図のようだった。その時の“ギャー”っていう牛たちの叫び声がずっと耳に残っています」

当時を思い出しながらインタビューに答える佐久間哲次さん

逃げた牛、餌をもらえず痩せこけた牛、牛舎から出られず餓死していた牛…助けられなかった牛たちの姿が頭から離れなかった。

夢でもうなされ、眠れない日々が続いた。牧場や自宅は、立ち入りや居住が制限される区域に指定された。生き残った牛たちも北海道の牧場へ預けるか、売りに出して、すべて手放した。

代々続いてきた生業を失った。

長男・亮次さんが村立の学校に通い続けた理由

佐久間さん一家は避難所を転々とした後、葛尾村から約30キロ離れた郡山市に避難した。哲次さんは牧場から何とか持ち出した重機を使って、陸上競技場の整備などの仕事を見つけたが、賠償金を切り崩しながら暮らす日々が続いた。

長男の亮次さんは、震災が起きた翌月に村内の小学校に入学するはずだったが、村全体で避難することになったため一時村立の学校は休止となった。その間、亮次さんは避難先の自治体にある学校に通うことになったが、2013年に郡山市の隣にある三春町で、使われなくなった校舎を借りて村立の小学校を授業を再開することになると、亮次さんはすぐにその小学校に通うことを決めた。

愛息はかつて、村の広報誌に「将来の夢」として、こんなことを書いてくれた。

「お父さんといっしょに牛のお仕事がしたい」

子牛にミルクをあげ、親牛の背中をそっとなでる。牧場は息子にとって日常であり、遊び場だった。避難生活が長引くにつれて、転校する生徒が増えた。亮次さんが中学生になる頃には、同級生はわずか3人に。全校生徒は15人と、震災前の4分の1ほどに減った。

それでも、亮次さんは村の学校に通うことにこだわり続けた。そしてまた、こう口にするのだった。

「僕の将来の夢は、酪農家になることです」

幼児のころの無邪気な夢とは、違った重みを帯びていた。子供ながらに秘めた覚悟のようなものがあった。継いでくれたら、佐久間牧場の4代目になる。父の哲次さんは、ついに動き出した。

親子で繋いできた牧場を自分の代で終わらせたくない―。

何とか、息子に継がせてやれる状況にしてやりたい―。

「僕の代で潰すわけにはいかない」

震災から5年ほどが経過した2016年6月12日。環境中から放射性物質を取り除く除染が進み、放射線量も下がったことから、ようやく避難指示が解除された。

だが、すぐさま村に戻り酪農を再開するというわけにはいかなかった。牛のエサを育てる東京ドーム8個分の牧草地は、まだ避難指示が解除されなかったからだ。

輸入には頼らず、自分で栽培した牧草を牛に食べさせ、安心・安全な牛乳をつくることが、酪農家としてのプライドだった。

荒れ果てた牧草地を目の前にすると、虚しさだけが募り、牧場再開への道を閉ざされた気持ちになった。けれど、立ち止まる訳にはいかないと思った。

哲次さんは借金をして牧場の周辺に広大な土地を購入した。そして郡山市の避難先から車で1時間かけて通い続け、重機で切り開いた。牧草を作れる農地を整備するまでには、2年ほどかかった。その場所で試験的に、エサとなるトウモロコシや牧草の栽培を始めた。

「だってこれであきらめたら、負けみたいな感じじゃないですか。負けず嫌いというか、逆境を跳ね返したいし、息子にも『次』という字をつけているので、僕の代で潰すわけにもいかない」

覚悟の開拓だった。

再び故郷で…牧場復活へ

2018年、佐久間牧場の哲次さんは家族で故郷・葛尾村に戻ってきた。その年の9月には、ついに北海道から8頭の乳牛が牧場に運ばれてきた。牧場の復活だ。

哲次さんは、トラックから顔を出す牛たちを懐かしそうに見つめる。少し緊張した面持ちで、牛を1頭1頭牛舎へ連れていく。

「7年半でやっと今日の日を迎えた。今までうちの牧場で飼っていた牛たちの分も可愛がってあげたいと思う」

避難するときに涙ながらに抵抗した先代の父・信次さんも「やっぱり牛に触ると情が湧く。夢みたいです。牛がいなくなって7年半も過ぎたと思えない」と感無量だった。

午後になると、学校から帰ってきた息子の亮次さんも、まっすぐ牛舎にやってきた。

佐久間牧場、リスタートの瞬間だった。

生乳出荷再開 命と向き合う生業

しかし、進むはいばらの道だった。

牛乳の出荷までには、放射性物質の量を調べる厳しい検査を幾度となくクリアしなければならない。佐久間牧場の生乳は、約4カ月の検査の間、基準値を超える放射性物質は一度も検出されなかった。

そして2019年1月、ようやく生乳の出荷の日を迎えた。

【動画】佐久間牧場から生乳の出荷が再開

搾りたての生乳が、トラックに積まれていく。かつての日常が、ようやく戻ってきた。

「やっとスタートラインに立つことができた。安心したというか、一つ肩の荷がおりた。これから葛尾村を盛り上げていけるように頑張りたい」

「ばか者!何やってんだ」

再起の足取りは、少しずつ力強さを増していった。徐々に牛の数が増え、人手が足りなくなり、中学生の息子・亮次さんも牧場の仕事を積極的に手伝うようになった。

特に頑張っていたのは、子牛の世話だ。生乳が入った哺乳瓶に勢いよく吸い付く子牛に驚きながらも、優しく撫でながら飲ませていた。

ただ、うまくいくことばかりではない。

ある日の朝。生まれたばかりの子牛にミルクを飲ませる亮次さんに、年配のスタッフの怒声が飛んできた。

「お前どこにくれているんだよ!ばか者!何やってんだ!」

生まれたばかりの牛には、母親の免疫が入っている「初乳」を与えなければならないが、亮次さんは別の牛にのませるミルクを誤って飲ませてしまったのだ。

先輩の剣幕に、改めて命を扱う仕事の厳しさを痛感していた。

父の背中を追って息子が進んだ道は

2020年3月、亮次さんは中学校の卒業式を迎えた。進学先に選んだのは、酪農を学べる農業高校だった。照れ笑いをしながら、将来をこう語った。

「酪農家になるしかないですね。日本一?いや東北一?」

農業高校があるのは葛尾村の自宅から約50キロ離れた遠い場所。車でも1時間半かかるため、親元から離れての寮生活となる。実習では、多くの同級生たちと一緒に学校で飼育している乳牛の世話をした。

【動画】農業高校で実習する亮次さん

牛の管理や飼料の配合など、父・哲次さんたちが毎日やっている仕事の意味を一から学んだ。父の仕事をより身近に感じるとともに、尊敬の念が増していった。

「今、目標にしているのはお父さんです」

休日には自宅に帰り、父の仕事を手伝った。牛舎の清掃や搾乳機へ牛を追う仕事も、手際よくこなしていった。重機に乗って、牛舎内におが粉をまくこともある。成長する我が子の姿を、哲次さんは誇りに感じていた。

「あまり何も言わなくても、気が付いて仕事ができるようになったというのは、高校に行って学んでいることがすごく活きているのかなって感じています。本人には言わないですけど」

酪農家親子のこれから

現在、佐久間牧場は200頭以上を飼育する、福島県内でも有数の牧場になった。

業界を取り巻く環境はかつてないほど厳しい。コロナ禍による生乳の消費量低下や、ウクライナ危機などによる物価高で飼料・燃料費が急騰し、廃業する同業者の話も耳にする。

原発事故以前は1500人が暮らしていた葛尾村は、帰村率が低く、人口はかつての1/3ほどになってしまった。事業拡大に打って出ようとしても、人手の問題が常に頭を悩ませる。

どこかで一歩間違えれば、という不安は尽きない。

そんな時、哲次さんに浮かぶのはあの「地獄絵図」だ。あきらめるわけには、いかないのだ。

「牧場を再開したときのことを忘れず、支援してくれた人たちに恩返しができるような牧場にしていきたいなと思います」

息子の亮次さんは、この4月から福島県内にある農業短大に進学する。将来、牧場の経営を担えるようにするためだ。

息子の夢を叶えようと進み続ける父と、その背中を追い続ける息子。2人の夢は続く。

(福島中央テレビ報道部 渡辺早紀)

※この記事は、福島中央テレビによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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全く食べなかった1歳の息子が… 被災と子育て、苦しかった私を救ったパン #知り続ける

配信 2023年3月4日 11:00更新 2023年3月6日 15:12

 7年前、水野いずみさん(45)は新米ママだった。

 疲れ果てていた。 息子は1歳半。もう普通にご飯を食べるころ。

 なのに、食が細かった。 お米も麺も、ほんの少し。特に野菜は「イヤイヤ」。

 周りの赤ちゃんは、うらやましくなるくらいよく食べる。発育もよさそう。
 
 東日本大震災の津波で家を流され、移り住んだ知らない町。 気軽に話しかけられる相手はいなかった。

 お母さんたちがまぶしい。「ちゃんと」子育てしているように見える。

 わたし、「ちゃんと」できない。 ダメ母だ。 ずっと落ち込んでいた。自分を責め続けていた。

 そんなある日、公民館の講座に行った。家に帰り、講座で作ったあるものを息子に渡した。

 そうしたら、思いも寄らない光景が。 目の前がぱっと明るくなった。凍った心が溶け始めた。

 「わたしの復興」がその時、始まった。

市役所で働いていた「あの日」

 水野さんは、宮城県の北の端、港町の気仙沼市で暮らす。 出身はさらに車で30分ほど行った岩手県陸前高田市だ。 大学を出てUターンし、陸前高田市の職員になった。

 昔からなぜか、ほどほどに手を抜くということができない性格だった。市立博物館の学芸員として年2回の特別展を任されたが、そのたびに「前の企画を上回らねばならない」と思い詰め、プレッシャーに押しつぶされていた。

 12年前の「あの日」は、海から1キロ内陸の市役所で、書類を作っていた。

 突然、指を乗せていたキーボードが揺れ始めた。キャビネットが傾き、上に載せていた資料が次々落ちる。そばの上司は、頭に何かものがあたったらしく、血を流していた。
 
 まもなく、大津波警報が流れた。水野さんは3階建ての庁舎の屋上に上がった。

「私も死ぬ」覚悟した

 気づくと、海から黒い壁が、そそり立って近づいてきた。あっという間に、眼下のまちなみがのみ込まれ、同僚が顔をのぞかせていた、隣の市民会館も波に沈んだ。

 黒い壁は庁舎にぶつかり、屋上までせり上がってきた。周囲の女性職員たちが、我が子の名を呼び、泣き叫ぶ。 さらに、屋上のタンクによじ登った。そこより高いところは、もうない。

 読んでいたマンガにこんなシーンがあった気がする。 「私も死ぬ」と覚悟した。 現実には思えなかった。

 津波は、屋上ぎりぎりで引いていった。 かろうじて、命拾いした。

吐けなかった弱音

 陸前高田市はその時、職員の4人に1人にあたる111人を失った。市全体では、人口の約7%の1761人が犠牲となった。

 その中には、水野さんの義父母もいた。建てたばかりの自宅も消えた。

 弱音は吐けなかった。

 「もっとひどい被害を受けた人がいる」

 そう思うと「私なんか大したことない」と、空元気を出さざるを得なかった。

 膨大な仕事を引き受け続けた。そのうち、体調がおかしくなってきた。妊娠もしていた。初めての子どもだ。健康にはかえられなかった。震災から3年後の春、役場を辞めた。

どうしてこの子は

 退職して4カ月後、無事に息子が生まれた。心底喜んだ。

 「立派な母になって『ちゃんと』育てないと」。 心に決めた。

 なのに。 どうしてこの子は食べないの。

 離乳食は頑張って、手作りした。しかし「そろそろ普通のご飯を食べてもいいよね」と思い始めても、息子はほんのちょっぴりしかお米を口にしなかった。

 特に、野菜は完全拒絶。 焦った。

「食べないのは私のせい」

 児童館に行くと、周りの赤ちゃんは驚くほどよく食べている。

 「どうしたらそんなに食べてくれるの?」

 聞きたかったが、周囲のママたちはみんな自分より若い。 気後れした。

 実家の両親はまだ働いていたし、高齢だった。夫は忙しい。ひとりで抱え込んだ。「食べないのは私のせい」と思い込んだ。

 助産師の指導通り、野菜の煮汁から始めた。形が見えると食べないので、ペーストにしてポタージュにもした。

 発育がよくない気がした。「何をやってもうまくいかない」。気持ちにまったく余裕がなかった。「完璧な母でなければいけない」と思い込み、そうなれない自分に絶望していた。

 自宅で息子と一対一で向き合っていると、しんどくなった。近くの児童館に通い詰めた。

きっかけは、児童館で焼いたパン

 息子が1歳を迎える頃、児童館でパン教室が開かれた。イングリッシュマフィンを焼くという。お菓子作りは子どもの頃から好きだった。

 気分転換のつもりで出かけたが、息子はむずかって泣き通しだった。私の方が泣きたい。そう思って焼いたマフィンは、ぷっくり膨らんでいた。

 「子育ては思い通りにならないのに、パンは書いてあるとおりにやればちゃんと焼けるんだ」

 素直に喜べない自分がいた。

 息子が1歳半になった頃、別の公民館でパン教室があった。その日作ったのはグラハムブレッド。あらびきの全粒粉で焼く、パウンドケーキのようなパンだ。これもうまく焼けた。

 家に持ち帰り、試しに、息子の口元に近づけた。 食べるかな。たぶん食べないだろうな。

 そう思っていたら。息子が両手で握りしめた。 そして、小さな口で。

 かぷっ、もぐもぐ。 しかも、どことなくうれしそう。

私の作ったパンなら

 食べた。私の作ったものを食べてくれた。 胸がいっぱいになった。 そうか、この子は、私の作ったパンなら、たくさん食べるんだ。

 そう気づき、水野さんは片っ端から作り始めた。

 「子どもが食べるのだから」と、国産小麦を使い、添加物を入れなかった。外国産を敵視していたわけではないが、地産地消も念頭にあった。

 息子が一番食べたのはフランスパンだった。「もうそろそろやめない?」と止めるまで、ずっと食べていた。

「うちの子にも食べさせたい」

 息子が3歳になったころ、製菓学校の通信講座で本格的に学び始めた。講座の課題でパンを作り、周囲にお裾分けしていたら、自然と知り合いも増えた。そして、そのうち「うちの子にも食べさせたい。売ってほしい」という声がかかるようになった。

 気仙沼の街は当時、復興の真っ最中。メーカー以外の手作りパンが買える店は少なかった。

 「パン屋さん、やってみようかな」

 起業を考え始めた。最初は「夫と二人三脚」と思ったが、パン屋一本で生計が立つのか危ぶんだ夫は、首を縦に振らない。

 だが、もう思いは止まらなかった。

支援を受けて起業 立ち上げた自前の工房

 2018年1月、開業届を出し、隣町のシェア工房「oui(ウィ)」で、2週に1度、30個ほど焼いては、イベントで売り始めた。

 工房は、東日本大震災の後、被災地入りしたボランティアが立ち上げた、女性支援のNPO「ウィメンズアイ」が、起業を後押しするために建てたものだった。そこで、パン作りだけでなく、宣伝のスキルも教えてもらえた。「このシェア工房がなければ起業は難しかった」と水野さんは振り返る。

 ただ、ouiは当時、車で1時間ほどかかり、家から遠すぎた。そこで翌2019年9月、気仙沼市内に自前の工房を構え、福祉施設などで販売を始めた。口コミで徐々に引き合いが増え、地元のスーパーの産直コーナーにも置かれるようになった。

 いまでは、イベント出店の誘いもひっきりなしだ。子育て中のママ友も5人、配送で雇った。女性が無理なく働ける、地方では貴重な職場だ。

 いまは週に4、5日、工房を開ける。1日十数種類、100個ほど焼く。人気が高いのはハードパンだ。小麦、塩、酵母だけ。消費期限は4日だが、高齢者やママ友が「安心」と喜ぶ。

 添加物を使えば手間もかからず、安くできるのは分かっている。だが、水野さんは「子どもに食べさせたいパン」の原点を譲る気はない。

 店名「いずみぱん」は、あえて全部ひらがなにした。丸みを帯びた字の形に「パンが優しく丸く膨らんで欲しい」という思いを込めた。

パンを焼くことは、生きること

 今年2月12日。前夜から6時間立ちづめで、午前2時までかかって135個のパンを焼いた。わずかな仮眠を取り、自宅から車で30分の岩手県一関市のイベント会場に向かった。

 「いずみぱん」の小さなブースには、開場と同時にお客が次々やってきた。売れるとすぐ補充。それもすぐ手に取られていく。

 ベーグルを10個まとめ買いした女性は「あり得ないもちもち感だから、一度でハマる」と、うれしそうだ。

 お客さんとやりとりしているうちに、眠そうだった水野さんの顔が、りんと輝いてきた。

 「それで食えるくらい稼いでいるのか」と言われれば、そうではない。だが、自分にとってパンを焼くことは、もう、生きることと同義だ。

 お客から面と向かって「いいね」と言ってもらえる日々。

 それが自らの誇りにつながる。

あの日の理不尽 目の前の出会いを大切に

 水野さんは、3月11日が近づくと、気が重くなる。

 目の前の人を、突然奪った、あの日の理不尽。 そして、津波は必ず、いつかまた来るという現実に。

 だからこそ「いま、この目の前にいるお客さんとの出会いを大切にしよう」と、自分に言い聞かせる。

いまは言える「失敗しました」

 40代中盤に入った。体力は明らかに衰えた。25キロの粉袋はまだ、軽々持てる。だが、開業当初はよくした徹夜が、できなくなった。最低7時間寝ないと、体が持たない。定期的に鍼(はり)にも通う。

 馬力だけで突っ走れない年になった。 これからは、知識を深めて、細く長く続けていくしかない。

 そのために、子育てが一段落したら、パン屋さんに修業に行きたいと思う。

 売り上げは増やしたいが、だからといって、やみくもに働けばいいというものではない。 母として、子どもを一人前に育て上げるのも、大事な仕事だ。

 息子は8歳になった。相変わらず偏食だが、量は人一倍食べる。 「がんばってもうけてね」と応援してくれる。

 この間、12年前の3月11日に何があったか話した。息子は「ふーん」と言ったまま、黙っていた。

 起業して5年。 時には、パンの膨らみが足りないこともある。 それでもいまは「失敗しました」と言える。

 パン作りは子育てと同じ。 思った通りに焼けなくても、面白い。

(朝日新聞気仙沼支局長 星乃勇介)

※この記事は、朝日新聞デジタルによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、一人一人ができることを。

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救い得た命、癒えぬ心。岩手と中南米、重なる国境なき備えの教訓 #知り続ける

配信 2023年3月3日 11:00更新 2023年3月6日 15:16

 「BOSAI」。リスクを理解し、正しく備え、より強い社会をつくる。日本発の言葉は世界に伝わる。

 そんな防災先進国の威信は2011年、東日本大震災で大きく揺らぐ。備えの「想定外」が大きな被害をもたらした。救い得た命を守れなかった後悔を抱くメキシコの遺族の姿が、あの日の岩手に重なる。

 大切な人を失った事実と後悔は消えない。津波で息子を亡くした岩手県の男性は、訴える。「つらくても、災害を忘れないこと。忘れたとき、次の災害がより大きくやってくる」と。同じ思いをする人が1人でも減るよう、願いを込めて。

 次の災害は刻一刻と近づく。だが、人々の警戒感は時と共に薄れる。新たな悲劇を生まぬため、具体的にどう取り組めば効果的なのか。実践のヒントは、カリブ海の島国にあった。

受け入れられぬ現実

 「どうして逃がしてやれなかったのか。神様、時計の針を戻してくれ」

 22年9月19日、メキシコ。5年前の悪夢がよみがえり、ペドロ・マルティネスさん(44)は震えていた。

 娘を亡くした17年の大地震と同じ日にマグニチュード(M)7・7の地震が発生。今回は被害を免れたが、強い揺れは深い傷痕をえぐった。

 メキシコ市郊外サン・グレゴリオ・アトラプルコで被災した記憶が胸をかきむしる。街の象徴だった教会の壁が崩落し、当時5歳の娘ナオミさんを目の前で亡くした。

 あの日。マルティネスさんは学校にナオミさんを迎えに行き、手をつないで自宅に帰る道中、大きな揺れに襲われた。とっさに娘を抱きしめる。足がすくんで動けない。その時、背後でごう音。2人はコンクリート壁の下敷きになった。

 下半身に激痛が走る。ナオミを助けなければ。動けない。焦燥感の中、時間が過ぎる。幸運にもおいが駆け付け、トラックで病院に運ばれた。右脚を切断。一命は取り留めたが…。

 娘は即死だった。頭が混乱し、現実を受け入れられなかった。「自分が代わりに死ねば良かった」。それまで精を出していた農業や養鶏の仕事を辞め、ふさぎ込む日が続いた。

訴える、娘の「生きた証し」

 悲嘆を和らげたのは、被害を免れた自宅に残された数々のナオミさんの生きた証しだった。絵を描くことが大好きで、成績も優秀。将来は医者か学者になりたいと話す自慢の娘だった。落書きから、いたずらして壁に付けた傷まで、一つ一つがいとおしかった。

 死と向き合うことができるようになると、日増しに「もっと備えていたなら、娘を救えたのではないか」との思いが強まった。

 1985年に大地震で 約1万人が亡くなった教訓から都市部で耐震化が進み、9月19日に全国一斉訓練も実施するようになった。

 17年の犠牲者が約400人だったのは、その成果ともされる。だが、首都の学校が倒壊し、20人以上の子どもが下敷きになるなど備えは不十分だった。マルティネスさんは若い世代の犠牲が多かったと知り「自分を含め、助けてやれなかった大人の責任」と感じた。

「自助」にも正しい学びを

 悲劇は二度と繰り返さない。そう心に誓い、災害発生時、第一に自分や家族の安全を守る「自助」について考え始めた。定期的に妻、4人の子どもと避難方法を話し合う。

 だが、いざ家族と膝を突き合わせても命を守る行動は、分からないことだらけだった。避難場所や経路、災害時の備蓄はどうすればいいのか。地震以外の災害リスクも把握できない。自助にも、正しい学びが必要と痛感した。

 子どもたちが通った学校に目を向けると、備えの教育の物足りなさが目に付く。年に数回、地震や火事を想定した避難訓練を行うが、毎回同じ内容で反省会もない。実践を想定したものとは程遠く、歯がゆさを感じた。

 もちろん、備えの学びは学校だけが担うものではないと理解している。「17年地震の記憶を共有する有志で何かできないか」と考え、防災の専門家を招いての勉強会開催に向けて動き始めた。

 被災経験を語り継ぎ、伝えていく。それは大切な人の命をつなぐための生きた教材となる。悲しみを抱えながら「伝承者」としての責任感が、マルティネスさんに芽生え始めていた。

「想定外」を悔やむ

 「命を守るために何が足りなかったのか」「どうすれば助けられたのか」。

 岩手県陸前高田市に接する内陸の住田町世田米の丘 で、団体職員岩城和彦さん(62)は唇をかんだ。

 11年3月11日の東日本大震災津波で亡くなった三男・直俊さん(当時高田高2年)の墓前。「想定外」の災害を前に、もっと備えることができなかったのか。癒えぬ胸の痛みとともに自問する。

 「順番が違うよな」

 下校中だった直俊さんは地震後、住民が多く身を寄せた陸前高田市役所へ避難した。当時の津波ハザードマップで、付近の予想浸水深は0・5~1メートルほど。「2階以上は安全」とされた避難場所に向かったのは模範的な行動だった。

 だが、津波は市役所もろとものみ込み、直俊さんは市役所から内陸側に数キロ離れた同市竹駒町 で見つかった。やり場のない感情の波に、岩城さんは襲われ続けた。

失って気付く、備え欠く災害の恐怖

 震災発生まで、災害はどこか人ごとだった。海がない住田町で津波は遠い存在だが、ほかの災害への備えも甘いことに気付いた。

 自宅裏で土砂崩れが起きたらどう動くか、家族との綿密な意識共有をしていなかった。自宅には十分な食料備蓄も、非電源で暖を取る器具もなかった。

 情けなくて、自分に腹が立った。すぐに自家発電装置を導入。家族と災害状況別の避難行動も常に確認するようにしている。

 さらに全国、世界の災害にも心を寄せることが、備えを省みる機会となった。「地球の裏側で起きた地震による津波は、何度も三陸に押し寄せている。世界の災害を『対岸の火事』と油断してはならない」と自らを戒め、情報収集を欠かさない。

 根底にあるのは「命を守る知識と実践を、親として子どもに教えてやれなかった」との後悔、そして息子の命の教えを無駄にしたくないとの思いだ。

 「災害の怖さは、大切な人を失って初めて気付く。そこに国境はないとつくづく思う」

 同じ悲しみを抱える人が1人でも減るように。思いは、実際に被災地へ出向く行動につながっていく。

「熊本の息子」に重ねる思い

 16年4月、岩城さんはテレビが映す惨状に心を痛めた。震度7を2回記録し熊本、大分両県で計276人が犠牲となった熊本地震。家屋が崩れ、避難所生活を送る住民の姿に、熱いものが込み上げた。

 「今度は自分が励ます番だ」。全国から受けた多くの支援が突き動かした。同8月、住田の子どもたちと「がんばっぺし」などと記したメッセージボードを作り、熊本市に送った。

 17年2月、同市を訪問。仮設住宅で小学1年の前田健翔(けんと)さんと出会った。家族は無事だったが、自宅は全壊。「大変だったな」と頭をなでると、静かにはにかむ。温厚で優しい性格だった直俊さんの幼少期と重なった。

 「直俊の分まで、この子の成長を支えたい」とその場で、20歳になるまで交流を続けると約束した。手紙や無料通信アプリLINE(ライン)で頻繁にやりとりし、最近は中学1年の前田さんが打ち込むサッカーの話題で盛り上がる。「熊本の息子」「東北のお父さん」と慕い合う。

つらくても、災害を忘れない

 地震や豪雨など災害時は、すぐ電話で安否確認する。「一目散に高台へ走れ」。あの日、直俊さんへ届けられなかった言葉が脳裏をかすめる。

 「災害は人ごとと思う心の隙が一番恐ろしい。教訓を忘れないことが『想定外』と向き合う一歩」。震災から12年。深く胸に刻んだ思いを、これからも周囲に伝えていく。

「事前避難」が文化に=キューバ

 命を守ることは、逃げること。「世界の防災モデル」として国連や欧米の先進国が注目するキューバの国民に根付いた考え方だ。

 時に最大瞬間風速60メートル超の猛烈なハリケーンが襲い、数メートル級の高潮も頻繁に発生するが、死傷者はほとんどいない。災害常襲国が備えの模索を続ける中、代表的な実践「事前避難」が文化といえるレベルにまで定着している。

 ハリケーン被害が特に多い西部ピナール・デル・リオ州グアネ。00年以降の被災では、大半の住家が浸水している。イサベル・ルビオ地区のオダリス・ペレス・ノンテスさん(54)も幾度となく自宅天井まで水に漬かった。

 それでも、過去を振り返る声に悲壮感はない。精密な観測と分析に基づく気象予報をラジオで聞き、被害予想の2日前には知人宅や公共施設など指定の場所へ避難。公共施設には医師が待機し、食料の備蓄も十分だった。家財は事前に公共のトラックで安全な倉庫へ移しており、壊れたときは政府の保障もあった。

 キューバでは、政府機関から一般市民まで一体となって災害予防に取り組む。ハリケーン季の前には全国民参加の防災訓練を実施。ハザードマップは地区ごとに毎年見直す。妊娠中の女性や障害者ら要支援者の情報を細かく記し、家屋の耐震性や避難所としての適応性も調べる。

 個々の状況別の避難行動も更新されたマップは、そのまま最新の「個別避難計画」となる。一人一人が当事者として備えのプロセスに関わって理解を深めることが習慣に。ノンテスさんは「備えが『日常』になり、避難時も無意識に体が動く」と実感する。

妥協なき共助の実践、切れ目なき人材育成

 実際の避難をより安心なものにするのが、地域の支え合いだ。トラック手配や食料調達など、自主防災組織(防衛委員会)の一員としてそれぞれ積極的に動く。防災まちづくりもつながりを重視。浸水被害が特に深刻な約180世帯を高台移転した際は、共助の継続性の観点から、学校や病院を含めてコミュニティー単位で動かした。

 イサベル・ルビオ地区防衛委員長のフランシスコ・ディアス・ロケさん(56)は「顔の見える信頼関係の下、個人レベルの細やかな防災計画を住民の手でつくることで、誰もが命を守る当事者となる」と力説する。

 切れ目のない命を守る学びも、事前避難の根幹を成す。小学校は災害史や人命救助の実技など全科目に防災要素が組み込まれ、高校は物理や気象学を通してハリケーンの仕組みを学習。大学は全学部で防災関連2科目が必修で、大半が災害ボランティアを経験する。

 災害対応を統括する全国市民防衛本部のルイス・マカレーニョ副本部長は「高度な災害予測に加え、避難準備の計画と手段が整えばどんな災害からも人命は守れる。それを可能にするのが教育だ」と強調。気候変動で世界の災害が激甚化する中、草の根の人材育成こそ重要と説く。

世界に通じる、岩手の遺訓

 災害常襲国は、命を守る学びを避けては通れない。全国民参加の防災訓練を毎年行い、要支援者を把握するキューバでも、基本には「構造物を頼らず逃げる」考えがあった。岩手県三陸地方の「津波てんでんこ(津波の際は、人に構わずてんでんばらばらに逃げろ)」の教えと重なる。

岩手日報社が東日本大震災5年を機に、東京大大学院の渡辺英徳教授と共同で制作したデジタルアーカイブ「震災犠牲者の行動記録」。地震発生時と津波襲来時の居場所が判明した犠牲者1326人の避難行動を地図上で再現・分析し、避難の教訓を伝えた

 間もなく震災12年を迎える岩手県は中南米に学び、改めて胸に刻みたい。岩手日報社が震災5年を機に犠牲者の行動記録からまとめた「命を守る誓い」を。

 「とにかく逃げる 逃げたら戻らない」「助かるための避難訓練を」との遺訓は世界に、未来に通じる。

備え、復興「人が主役」

 中南米で「BOSAI」という言葉を知る人は熱心な関係者に限られたが、日本での捉え方とは少し意味合いが違った。ハードよりも「人が主役」。防潮堤はほとんどなく、防災資機材も十分とはいえない。それでもリスクを正しく理解し「逃げる準備」を整え、自然との共生を楽しむ暮らしは幸せに満ちていた。

 岩手県も復興を歩みながら、次への備えが求められている。気候変動で災害が激甚化する中、人が主役のBOSAIがさらに必要とされたとき、世界のモデルケースは「IWATE」でありたい。

(岩手日報社国際部・小野寺隼矢)

※この記事は、岩手日報によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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「関わった人たちは、誰も死なないでほしい」わずか1年で教師を辞め、釜石へ向かった理由 #知り続ける

2023年3月2日 11:00

「1年で教員は辞めて、釜石に学びに行きました」

わずか1年で教員を辞めた。

こう語ったのは、静岡県内の小学校で教壇に立つ中川優芽さん(28)だ。

きっかけになったのは、子どもからのある質問に答えられなかったことだった。

「逃げる必要あるの?」答えられなかった子どもからの問い

「子供から『なんで新しい校舎なのに、運動場に逃げる必要があるの?』と聞かれた時に、答えられずにいました」

初任校で行われた避難訓練。校舎は前年度に完成したばかりだった。

地震が起こった時、最新の耐震性を備えた建物から、外に逃げなければならない理由―適切な答えが、出てこなかった。

「自分は、何を学んできたんだろう」。勉強不足を痛感した。

2018年、中川さんがふるさと・静岡の教壇を下り向かった先は、岩手県釜石市だった。そこで探したのは、子どもの命を守るための「答え」だった。

「復興ボランティアの経験を生かしたい」防災教育への想い

中川さんを釜石に向かわせたもの、それは、防災教育―命を守るための教育への想いだ。

2011年に発生した東日本大震災。当時、高校3年生だった中川さんは、復興ボランティアで、被災地を訪問。翌年、静岡市内の大学に進学すると、自ら復興支援サークルを立ち上げ、ボランティアとして、震災で傷ついた被災地に寄り添った。

「ボランティアに行っていた時のことを生かしたい、という思いはありました。そういう思いで一度、教員になったんです」

しかし、そこで得た知識や経験だけでは、足りなかった。

防災教育を学ぶため釜石へ

2018年、教職を離れた中川さんが、学びの場に選んだのは、学生時代に立ち上げた復興支援サークルで4年間訪れ続けてきた、岩手県釜石市だった。

慶應義塾大学の大学院生となった中川さんは、大学と釜石市の連携協定に基づく「地域おこし研究員」という制度を利用し、釜石市の仮設住宅で暮らしながら、2年間、防災教育の研究に力を注ぐ。

「釜石の出来事」から学ぶ教訓

東日本大震災で、巨大な津波が押し寄せ、犠牲者・行方不明者が1,000人以上と、大きな被害が出た釜石市は、市内の小学校2校と中学校1校も全壊するなどしたものの、小中学生およそ3,000人のうち、99.8%が避難して無事だった。

多くの子どもたちが助かったのは、地震が起きたら、すぐ自主的に避難する、という防災教育がしっかり身についていたからだとされ、「釜石の奇跡」(※後に「釜石の出来事」と改められる)と讃えられた。

全児童が無事だった釜石小「下校時避難訓練」に着目

「釜石小学校の児童が、当時どんな避難行動をとったのか、興味を持ち、当時の子たちに会ってインタビューを重ねていきました」

中川さんが注目したのは、釜石市の中でも、184人の児童全員が無事だった、釜石小学校の事例だった。震災の翌年に釜石小学校が発行した児童たちの体験記『いきいき生きる』には、すみやかに避難できた理由として「学校の避難訓練をやっていたから」「防災教育をしていたから」といった言葉が随所にみられる。

「当時の子どもたちと彼らが高校生になった時期にお会いしたんですけれども、口々に、当時印象に残っている訓練を下校中の避難訓練だって」

中川さんは、体験記を書いた釜石の子どもたちにインタビューを重ね、とっさの判断力と行動力がついた理由を明らかにしていった。

研究の中で、浮かび上がってきたのは、釜石小学校で震災の3年前から、サイレンを鳴らすなどして地域ぐるみで下校時間に繰り返し行われていた、避難訓練の大切さだった。

「釜石の教訓を静岡へ」下校時避難訓練の実現

中川さんは、この下校時避難訓練を、南海トラフ巨大地震で甚大な被害が予想されている静岡県でも取り入れられないかと考えた。

行政や学校と自ら交渉を重ね、2019年7月、大学院生として迎えた2年目の夏に、中川さんの熱意は実を結んだ。学区内に津波浸水想定区域を持つ掛川市の千浜小学校が、下校時避難訓練の実施を受け入れてくれたのだ。

サイレンを鳴らして行う釜石をモデルとした下校時避難訓練が静岡県内で行われたのは、これが初めてのことだった。

静岡につなげてくれてありがとう

「訓練やった後、釜石の方が、涙を流しながら『釜石のことを次起こり得る静岡で、つなげてくれてありがとう』って言ってくれた」

多くの子どもたちの命を守った、釜石の下校時避難訓練。その教訓を広めていくことに一番喜んでくれたのは、釜石の人たちだった。

「頑張ってきてよかったなって感じました」

千浜小学校の下校時避難訓練は、いまも続けられ、中川さんはアドバイザー的な立場で関わりを続けている。

釜石での学びそして絆を胸に、再び教職へ

「現場に戻って防災の大切さを教育現場から発信していきたいって思いがありましたので、静岡に帰ってきました」

千浜小学校で下校時防災訓練の実施が実現した翌年の2020年、研究を続けるなど、さまざまな選択肢があった中で、中川さんは教職に復帰することを決意する。

静岡県では、最大で10万人以上が犠牲となると想定されている南海トラフ巨大地震、釜石で学んだことを、静岡で子どもたちを守るのに生かしたいとの想いが、研究を続けようという気持ちを勝った。

防災倉庫に必要なものは?自分で考え提案

「まとめて終わり、では意味がありません。これが必要だな、あれがほしいなって思ったものを、後輩たちのために、残していってもらえたら」

そして、再び立つことになった教壇。3年目を迎えた今年、中川先生は、6年生のクラスの担任をしている。

この日、総合的な学習の時間で行ったのは、防災倉庫に関する授業。子どもたちは1年間学んできたことを生かし、学校に設けられている防災倉庫に、追加であったらよいなと思うものを考え、倉庫を管理する事務職員と校長に提案した。

児童「ペットを飼っている人が多いので、動物用ケージやエサが必要だと思いました」

児童「富士宮市では液状化現状が起こる可能性があると知り、長靴を備えておくことがよいと考えました」

災害時に求められる避難行動や事前の備えは、地域によって異なる。富士宮市は、海に面しておらず津波の心配はないが、富士山の噴火による被害が想定されているし、学区内には液状化現象が発生する危険性が高い地域もあるという。ペットの保有率が高いことも、子どもたちが自ら聞き取り調査を行って調べた。

「知る」だけなく考える力を養う

「1年間通して、最後、自分たちの住んでいる場所に返していくっていうところが、やっぱり大切」

こうして、学びを自分が置かれている状況、地域に落とし込んでいくことが、1年間続けてきた防災の授業の総仕上げだ。

まとめて終わりでは意味がない。災害について知るだけでなく、主体的に考える力を育むことが、どんな場所でどんな災害が起こっても、命をつなぐ力につながっていく。

先生と関わった人たちは、誰も死なないでほしい

「調べたことをこの先の未来にしっかり生かしていってほしいと思います。災害が起きた時に、先生と関わった人たちは、誰も死なないでほしい」

1年間を通して行われてきた自然災害について学ぶ総合学習も、最後のまとめの段階に入った、この日の授業の最後、中川さんは、こう子どもたちにメッセ―ジを伝えた。

自然災害について知り、そして自ら考えて行動する力を育んだ子どもたちは、この先も自分の命をしっかりと守るだけでなく、地域の防災のリーダーとして、活躍してくれるに違いない。

そんな、教え子たちとの別れを迎えると、中川さんが再び教員となってから丸3年となる。その3年間は、新型コロナウイルスの流行と重なっていて、教育現場は様々な場面で制約を強いられたが、前向きに捉えられる点もあった。

教職復帰後の3年間は、新型コロナの3年間

「学校現場で一番感じるのは、ICTがすごく推進された。コロナ禍だったからこれだけパソコンとかも配布されて、学びの幅が広がったなと感じています」

コロナ禍で加速したのが、教育現場におけるICTの活用推進だ。日本語では「情報通信技術」と訳されるICTは、「Information and Communication Technology」の略で、教育現場では、パソコンやタブレット端末などを生かした学習のことをいう。

6年生たちは、一連の防災の授業の中でデジタルハザードマップについて学ぶ機会があったが、1人1人に配布されたパソコンで、学びを深めることができたという。

2022年7月に行った社会科の授業では、災害時に政治が果たす役割について、子どもたちは、釜石市の野田武則市長や職員から話を聞いたが、やりとりは釜石市と教室をオンラインでつないだ。

遠く離れた東北と、静岡をリモートでつなぎ、話が聞けるようになったのも、コロナ禍で、こうしたオンラインでのやりとりをするためのインフラが、加速度的に整ったことが後押ししたともいえる。

被災者の生の声を聞く

「本物の声をちゃんと子どもたちに届けることが大事。釜石市の人たちから実際に話を聞いたというのが、子どもたちの中でとても印象づいていて、やっぱりホンモノなんだなと思っています」

東日本大震災から12年、いまの子どもたちには震災の記憶がない。だからこそ、実際に被災した人たちの生の声を、子どもたちに届けることを、中川さんは大切にしている。

全ての児童が震災後に誕生

4月になれば、また、新たな子どもたちを導くことになる中川さんだが、来年度は、ついに、すべての小学生が、震災後に生まれた世代となる。

震災を風化させないためにも、被災者の生の声、そして、釜石で学んだ中川さんの言葉は、今後、ますます、子どもたちに必要になっていくに違いない。

釜石に住んで学んできたからこそ、できることを尽くしていきたい

「自分は釜石に住んで現場で学んできたからこそ、1人でも多くの命を守れるように、これからも教育現場でできることを尽くしていきたいと思っています」

中川さんは、被災地と静岡をつなぐ架け橋として、これからも、子どもたちに、釜石の教訓を伝え続けていく。

(SBS報道制作局富士支局 天野大輔)

※この記事は、SBS NEWSによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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震災から12年「あの時、死んでいたかも」 間接的被災者と映画製作の巡り合い #知り続ける

2023年2月28日 11:00

 かばんに、カメラを忍ばせていたが、何も撮影はできなかった―。

 当時28歳の青年が2011年5月、岩手県の避難所にいた時の思いだ。その人物は、清水健斗(39)。被災地を舞台にした作品を撮り、国内外の映画祭で数々の賞に輝いた映画監督だ。

 そうだ、ボランティアに行こう。そんなことを思った理由は、ふと見たテレビでアナウンサーがこう告げていたからだ

 「ゴールデンウィーク明けにはボランティアの数が足りなくなります」

 当時、清水は大手映像制作会社の制作部に所属していた。主な仕事はCM制作だ。納品を済ませたばかりで、有給休暇もたまっていた。

●被災地に行かなければ……身近に感じた「生と死」

清水が避難所へ向かう途中に撮影。瓦礫と壊れた建物。現実を受け入れるのに時間がかかった。

 清水には、被災地に行かずにはいられない理由があった。当時、彼は毎週のように岩手に足を運んでいた。4月に撮影予定のCMのため、1月からロケハンを始めていた。3月12日もその予定が入っていた。

 「では、明日伺いますので、よろしくお願いしますね」

 仕事相手への電話を切った約5分後、都内で大きな揺れを感じた。震源地は宮城県沖。お世話になった岩手の人たちは無事だろうか。慌てて電話をかけたが、つながらなかった。テレビをつけると、つい最近まで訪れていた多くの場所が被災していると分かった。

 もしかしたら、自分も死んでいたのかもしれない。初めて「生と死」を身近に感じた。自分は生かされたんだ。1週間後、音信不通だった仕事相手の無事も確認できた。

●ボランティアとしての日々


 こうして、ボランティアとしての生活が始まった。学校の避難所では大学時代のアメリカンフットボールでの経験を生かし、被災者にストレッチを教え、日を追うごとに被災者と会話できる機会も増えた。

 ボランティアには決まりがある。被災者には震災の話はしないこと、被災者自らが震災について語る時だけ答えること、被災者にできない約束はしないこと……。

 顔なじみになると、自然と身の上話にも花が咲く。

 「実は映像の仕事をしているんです」と言うと、おばあさんはこういった。

 「それは素晴らしい仕事だね。外の人に被災地を伝えてもらうことはすごい重要なことよ。それは、あなたしかできないことよ。だから、撮れる時は撮ってね」

●エンターテインメントが無意味なものに思えた


 映像を通じて、外の人々に被災地を伝える。そこで初めて映像の力を再認識し、自分にしかできないことは何かを自問自答した。しかし、答えはなかなか見つからなかった。

 清水「当時、『映像に残さないといけない』という気持ちはありませんでした。あの光景を目の当たりにすると、そんなことはとても……。映像を残すこと自体、正しいのかと思いました。と同時に、自分がやっているエンターテインメントが無意味なものに思えたんです」

●終わっていたかもしれない人生 自分自身にかけてみよう


 そんな時に長年の夢だった映画監督のオファーをもらった。エンタメは本当に無力なのか? 自分の力を試してみたい、との思いに駆られた。だが、CM制作部と監督は異職種であり、CMと映画では拘束期間も大きく違う。悩んだ末、会社に相談すると休職してもいいと背中を押してくれた。

 しかし、休職となれば、会社の先輩・同僚にも負担をかけてしまう。それは本意ではなかった。1度、終わってしまったかもしれない人生だ。自分自身にかけてみよう。

 2012年3月には会社を辞めて、フリーのディレクターに転身。映像作家として生きると決め、2013年『瞬間少女』を公開。

 この映画デビュー作は、余命わずかな少女2人が残された時間を生きる中で友情を育み、生や死と向き合うことで成長していく物語。この作品にも、震災ボランティアでの経験、当時培った死生観が反映されている。

●漂流ポストとの出合い「今だからこそ、撮るべき作品だ」


 復興とともに、ボランティアの数も減っていく。それでも清水は断続的に被災地に足を運び続けた。

 そして、震災から6年が経過した2017年夏、世間で震災記憶の風化が懸念される中、たまたま“漂流ポスト”のテレビドキュメンタリーを目にした。

 漂流ポストとは陸前高田の山奥で喫茶店を経営する赤川勇治さんが2014年3月11日に設置した実在する郵便ポスト。震災で大切な人を失った人々がその思いを手紙にしたため、投函していく。

 これだ、と思った。ストーリーがパッと頭に浮かんだ。

 震災から数年後、ヒロインのもとに思い出の品が届けられる。中身は中学時代、親友と一緒に書いた手紙が入ったタイムカプセルの小箱。大人になってから、一緒に開けようと約束していた。ヒロインはそれを見て涙する。

 実は震災の直前に親友から電話がかかってきたが、大人になったヒロインは電話に出なかった。恋人との時間を優先してしまったのだ。「いつでも話せるから」と思っていた。

 でも、実際は“いつでも”は話せなかった。親友はその直後に起こった震災で亡くなってしまった。ケータイの留守録には今も、親友の声が残っている。ヒロインは親友を偲んで漂流ポストを訪れる……。30分の短い物語だ。

●震災を商売の道具にはしない


 清水はすぐに陸前高田を取材した。漂流ポストの事情は何も知らずに書いたストーリーだったが、ポストを設置した赤川さんからは、ほぼ同じ話を耳にした。フィクションと事実がひとつに重なった。

 「避難所で大切な人を亡くされた方の話を聴いていたから、同じ目線で書けたのかもしれない」

 余計な作り込みは必要なかった。震災が風化している今だからこそ、撮るべき作品だ。

 すぐに製作へと動き出した。やるなら、商業映画ではなく自主映画だ。震災を商売の道具にはしたくなかった。

●映像作家として生きる“自分”にしかできないこと


 企画から撮影まで約3カ月というハイペース。CM制作の経験が生きた。スケジュール決め、ロケ先の許可取りなど実務は慣れたものだった。仲間に協力を求め、重要なヒロイン役とその恋人役のキャスティングには3日間のワークショップで約50人を集めた。

 最後には大切な人に宛てた手紙も書いてもらった。10月には神奈川、千葉、陸前高田でロケ。ヒロインが親友への思いを伝えるシーンは大雨の直後に撮った。その海は津波を起こした、自然の厳しさを物語っていた。

 「まったく偶然の産物ですけど、あの海のシーンがなかったら、こんなに評価されることはなかったかもしれない」

『漂流ポスト』海のシーン

 被災地での経験から映像作家として生きることになった。では、あのおばあさんに言われた「あなたにしかできないこと」とはなんだろう? それは、映像を通じて被災地を伝え、被災した人々の思いをも伝えること――映画『漂流ポスト』で形になったような気がした。

 これがどのように受け入れられるか。作品を世界に託すことにした。

●海外で気づかされた“共通の思い”


 映画は日本より先に海外で火がついた。2019年、ニース国際映画祭最優秀短編外国語賞をスタートに、ロサンゼルス・インディペンデント・フィルム・アワーズ最優秀外国語短編賞などを受賞した。

 当時のバージョンには震災シーンはあえて挿入されておらず、東日本大震災がモチーフになった作品だと気が付かない人もいた。だが、突然、失った大切な人を思う気持ちは万国共通だったのだ。

 「ちょうど海外ではテロなどで日常が急に奪われることがあったので、人間ドラマ的な部分が響いたのかもしれない」

 震災の事実を知ってもらおうと、海外版には震災のカットを挿入し、国内の上映版の同様のバージョンだったが、現在配信中の国内版(U-NEXT)にはそのカットは入れていない。それには特別な思いがある。

 「被災者の方に限らず、いまだに震災の映像を見られないという方も多いんですね。僕には、『被災者の方にも見られるものを』という思いがありました。たまたま映画館で被災した方が見てくれたのですが、その方が『辛い過去を思い出すのが嫌だったけれど、映画を見て、もう少し向き合ってみようと思いました』と言ってくださったのが嬉しかったです」

『漂流ポスト』予告編

●2つの被災者の心に寄り添って


 海外の評価を受けて、短編映画として異例の劇場公開も決まった。清水自身も、海外に向けた作品作りをさらに意識するようになった。

 清水によれば、被災者には2種類あるという。直接被害に遭った被災者と、その場にはいなかったが、震災によって、精神的なショックや物理的負担など何らかの影響を受けている「間接的な被災者」だ。

 自身を「間接的な被災者」と呼ぶ清水は、その2つの被災者の心に寄り添って、映像を作っていかなければいけないと感じている。

 『漂流ポスト』が、世界の人々に届いたのも、その間接的な被災者の目線があったからこそだろう。映画を見て、心を動かされた人が涙する、そして、終映後に拍手を送る、東日本大震災の事実を知り、何かのアクションを起こす。

 2011年3月11日当日を思い出す人もいるだろう。映画は、閉じられた世界の入り口であり、そこに差す一筋の光でもある。今、清水は表現者として新たな取り組みを行っている。

●当たり前だと思っていたことは当たり前じゃない


 清水の頭に強く残っている言葉がある。

 「今まで当たり前だと思っていたことは当たり前じゃないんだ」

 小学校4年生の時に岩手・陸前高田で震災に遭い、今は看護師を目指す金澤楓さん(21)が口にした言葉だ。

 清水は、表現者として新たに取り組んでいるプロジェクトの製作中に彼女と出会った。

 残すべき「時代の記憶」が消えつつある日本の灯火を消さないために、薄れゆく明治・大正・昭和・平成の「記録・記憶・文化・想い」を、最新技術(3DVR)を取り入れた映像で記録し、令和へ引き継ぐドキュメンタリー「タイムカプセルプロジェクト」

 今は亡き人々へ向けた鎮魂の思いでもあり、未来を紡ぐ人々への手紙でもあるのだろう。

 この中に登場する金澤さんは広田小学校で被災し、高台の道路から黒い濁流のような津波を目撃した。

 もともと看護師になることが夢だったが、震災、その後に参加した地域活動を経て、その想いはさらに強くなった。すべての人がストレスなく生きることができる環境を作っていくのが今の目標だ。

 家族は無事だったが、親の家業である漁業関連の船や施設は津波で流された。クラスメイトの中には家族を失った人もいた。震災を機に、関東へ引っ越した親戚もいた。小さい頃、仲良く遊んでいた従兄弟にもずっと会えていない。

 金澤さんは今も震災時の映像を見ると、当時の衝撃が走るのだという。

 「正直、映像を見るだけで涙が止まらない時もあります。中には震災のことを忘れたいという人もいると思います。でも、伝えていかないと、体験していない人の命は救えないと思います。自分より年齡が下の子たちは震災の記憶がない子もいますが、自分たちの体験を次の世代の人には生かして欲しいとは思っています」。

●歳月の区切りはないけれど……“今”の願い


 ドキュメンタリー「タイムカプセルプロジェクト」Web版は昨年3月11日に公開、現在は長編映画として公開を目指し、再編集とスポンサー探しを続けている。

 清水「震災、被災者には歳月の区切りはないのですが、何かを考える時期にしてほしいんです。僕は、震災で死んでいたかもしれない人間なので、一日一日を大事に生きていきたい、と思っています」。

 思いを閉じ込めたタイムカプセルを開けた時、自分の大切な人を思って欲しい。それが清水の願いだ。あなたは3・11のあの日、何をしていて、何を考えていただろうか?


□清水健斗(しみず・けんと)

 神奈川県横浜市出身。CM制作会社のPMとしてCM・MV・Webムービーと数々の有名作品を手がけ、国内外で多数の賞を受賞。

 2012年にフリーディレクターへ転身。2013年、監督作品『瞬間少女』が公開。同作がハリウッドで上映されたのを機に、世界を意識した作品創りにも取り組み、複数の作品で海外上映を果たす。

 美しくアーティスティックな画作りと繊細な人間の機微を切り取る演出は世界からも評価されている。近年は映画演出と広告演出両方の経験を生かし、通常の映画・広告・企業VPに加え、映画的要素を取り入れたブランデットムービーやVR映像作品など多面的に活動。

 NBCユニバーサル「シネマティックVRアイデアコンペ」「WOWOWシナリオ大賞ファイナリスト」やGoogleが行った世界的なプロジェクト「YouTube VR Creator Lab」などに名を連ねる。

[取材・文=平辻哲也、企画・構成=映画.com編集部(岡田寛司、尾崎秋彦)]

※この記事は、映画.comによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。

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