国内外のサッカー選手が、「真の天才」と口をそろえる。札幌MF小野伸二。欧州で活躍する日本人選手が増えた今も、中村俊輔らが「史上最もうまいのは彼」と言ってはばからない。
そんな小野が過去の度重なるケガや、オランダなど海外挑戦の日々、2度のW杯などを語ってくれた。
正直、試合に出たいというのはある ─
── 札幌が1部残留を果たした。出場機会は少なくとも、同僚や他クラブの旧知の選手は「やっぱり伸二さんのいるチームはうまくいく」と口をそろえる
正直、試合に出たいというのはある。でも経験上「出てないからいいや」という選手がひとりでもいたら、チームはうまくいかない。そこには気をつかう。出た選手もそうじゃない選手も、勝ったときに同じような気持ちで喜べる。そういうチームでありたい。いつも、どこでも、そう思う。
── そういう考え方は「天才肌」のイメージとギャップがある
昔から、周りが幸せそうにしているのを見ているのが幸せ。それに、僕はたくさんケガもしてきました。サッカーの神様がいろんな試練を与えてくれたんじゃないかなと思っている。その中で、たくさんの人に支えられてきたし、いろいろ経験もさせてもらった。その中で感じたことは、伝えていきたいと思っている。
ケガで"イメージ"を失った─
「手術はライフワーク」。そう笑うほど、ケガを繰り返してきた。特に「日本サッカー界最大の損失」とファンが悔やむのは、99年のシドニー五輪予選、フィリピン戦で負った大ケガだ。悪質な"かにバサミタックル"で、左ひざのじん帯がちぎれた。
── フィリピン戦で負ったケガについて
それまで、大きなケガをしたことがなかったんです。だから正直、事態の重大さが分からなかった。まあ、大丈夫だろうと。そうしたら、次の日手術だった。つらかったです。人生の中で、ボールを蹴れなくなることは一度もなかったので。でも、失ったものの本当の大きさに気付いたのは、ピッチに戻った後でした。
── 「失ったもの」とは
イメージ、です。いろいろな意味で。それまではプレーしながら、ピッチの全体像が常に頭の中にあった。誰がどこを走るだろうとかいう予測も含めて、すべてが的確だった。それがなくなった。なんなんですかね。自由に身体が動く中で、自然と身についた感覚だからかな。
── "失ったまま"プレーを続ける心境
ケガをする前の境地を求めすぎて、つらくなっていました。それまでは練習をしている時から、試合で複数のDFが寄せてくるイメージを持ちながらできていた。それがなくなったから、毎日淡々とメニューをこなすようになった。
「ああ、今日も練習のための練習になってしまった」。そうやって、毎日後悔していました。そして、自分を追い詰めては、またケガをする。その繰り返しでした。
それでも、小野は並外れた技術の高さで、世界からの評価を高めていった。01年、オランダのフェイエノールトに請われ、欧州移籍を果たした。
── 初の海外でのプレーは
当時のオランダリーグは、ドイツなんかよりもレベルが高かった。ドルトムントからもオファーがあったけど、こっちの方が格上だなと普通に思った。そういうところでやっていたので、とにかく試合に出るために必死だった。
そうやって、移籍して4、5試合目から先発に定着して、1年目からUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)でも優勝できた。気が付いたら、失った感覚について思うこともなくなった。またサッカーの面白さに気付くことができた。
── ファン・ペルシーなどは、いまだに「最高のパサーは当時の小野」と言う
純粋にうれしいですよね。技術のことを言われるのもそうですけど、生まれた場所が違っても、ファミリーのように心を通い合わせることができたというのがうれしいんです。
自分が入って流れが変わったのはショックだった─
日本代表でも、02年のW杯で決勝トーナメント進出に導いた。しかし06年ドイツW杯で、小野は苦杯をなめた。初戦のオーストラリア戦で1点リードの後半に途中出場したが、意図がはっきりしない投入で、周囲が混乱。逆転負けを喫した。大会後には「戦犯」とレッテルを貼るメディアまであった。
── 06年は損な役回りだった
自分が入って流れが変わって負けてしまった。ショックでした。思えば02年はゴンさん(中山雅史)、秋田さん、森岡さんたち先輩選手がチームを常に明るくしてくれていた。06年は戦力的にはさらによかったかもしれないけど、何かが違った。
── 「違ったもの」とは
何が違うというのは、難しいんですけど……。例えばヒデさん(中田英寿)の引退を、僕らも後で知りましたけど、前もって分かっていたら皆がひとつになれていたかも。チームというのは本当に難しい。あらためて思いました。
06年には浦和に復帰。同年のリーグ、天皇杯優勝、翌年のアジアチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。ドイツのボーフムでも活躍し、清水もリーグで優勝争い、天皇杯でも決勝に導いた。
オーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズをも、リーグ参入初年度で優勝させた。旧知の選手たちの言葉通り、どこに行ってもチームを強くする。しかし小野は、あえて移籍を繰り返した。
── なぜ同じクラブに安住しなかったのか
なんなんですかね。一度海外に行った選手は、その刺激が忘れられないのかもしれません。もともと、同じ街に住んでいる間にも、つい引っ越しを繰り返してしまうタイプだったりもしますしね。サッカーはなおさら。新鮮な気持ちでやれる環境を求めてしまう。
── それでも札幌では長くプレーを続ける。来季で5年目。続けての在籍期間としては最長だったフェイエノールト当時に並ぶ
それは社長、GMがこのクラブをこうしていきたいというビジョンが、自分に刺激になっているからかもしれないですね。「自分がサッカー界のために、こういうことをしたい」ということに一致するんです。北海道から、日本のサッカーを盛り上げるクラブをつくりたい。そのためには、1部にいるのを当たり前にしないと。
今年は残留できましたけど、これで満足してはいけない。落ちて、上がって、残留を目指すというスパイラルから抜けないと。サッカーも、クラブも、もうひとつ上のレベルにいかないといけない。
── 札幌では娘さんも活躍されている
(次女・里桜さんは劇団四季「ライオンキング」の札幌公演にヤングナラ役で出演)
最初は東京でミュージカルに参加させてもらっていて、それを見て僕も「これは一番あってるんじゃないか」と思いました。そういう大事なものを、自分で見つけ出したことが、親としてすごくうれしかった。
札幌の劇団四季のオーディションに受かったので、単身赴任だった僕と一緒に住むことになりました。こっちでは僕が食事をつくっています。レシピ動画なんかを見ながら。便利ですよね、あれ(笑)。
── ケガ続きの運命を呪いたくなることは
そりゃ、フィリピン戦の自分に助言できるなら「お前、集中しろよ」と言いたいですよ。気を抜くなと(笑)。でも結局、ここまでサッカーできている。そこですね。いろんな人が支えてくれている。変わらずサッカー好きだし。
まだまだ僕の中には、もっともっとやりたいという気持ちがある。そういう意味で、あのケガがなければ、今の自分もない。チャレンジできるなら海外でも。この年齢で海外はなかなかないけど、松井大輔も行きましたよね。チャンスがあれば。
── プレーの中で一番大事にしていることは
相手が受けやすいパスを出すこと。そこに尽きます。パスを受ける人が、そこからスムーズに次のプレーに入れるように、無駄な動きはさせたくない。気持ちよくプレーしてほしい。それをいつも考えています。周りがいて、自分がいる。それが自分の考え方です。
相手の足元に吸い付くような、滑らかなスルーパスは「ベルベットパス」と評されていた。それは技術の高さだけが生んだものではなかった。いつも、みんなのために―。そんな天才らしからぬ考え方が、周囲を輝かせる。
だから小野と関わった選手、スタッフは、皆こう言う。「伸二は太陽のような選手」と。
小野伸二選手
1979年生まれ、38歳。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属。 浦和レッドダイヤモンズから、フェイエノールト・ロッテルダム、VfLボーフム、清水エスパルス、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズを経てコンサドーレへ。W杯には3大会連続出場。
(写真・松本洸、取材・塩畑大輔、構成・LINE NEWS編集部)