cat_3_issue_premium @linenews_0_65f3987bc89f_菊池雄星、"2段モーション問題"乗り越えたどり着いた境地 65f3987bc89f 0

菊池雄星、"2段モーション問題"乗り越えたどり着いた境地

2017年11月9日 10:01 LINE NEWS 編集部

10月14日、クライマックスシリーズのファーストステージ、楽天戦。埼玉西武ライオンズのエース菊池雄星は、最後の打者・島内をサードライナーに打ち取ると、握りしめたグラブを天に突き上げた。

121球での完封勝利。味方が10点を援護しても、最後まで腕の振りは緩まなかった。

最多勝、最優秀防御率の投手2冠にふさわしい、圧巻と言っていい投球。歓呼の声に、晴れやかな笑顔で応える。しかし、ベンチ裏まで引き揚げてくると、菊池はポツリとこぼした。

「悪くはなかった。でも、納得できるボールはありませんでした。1球もなかった」
  

 

試合初球でのボーク判定──

 
大事なフォームを、シーズン半ばで見失っていた。

8月24日、ソフトバンク戦。1回裏、先頭打者川島への初球。投げた瞬間、球審が腰を浮かせた。そしてマウンド上の菊池を指さす。判定はボーク。

会場はどよめいた。しかし、菊池本人に驚きはなかった。

1週間前。17日の楽天戦で、菊池は2回に2球連続でボークを取られていた。「投球動作が途中でいったん止まっている」との指摘だった。つまり、日本のプロ野球では2006年から禁じられている「2段モーション」にあたるということだ。
 

 
審判の立場を尊重し、判定は受け入れた。しかし、これは1プレーで完結する類いの問題ではない。

具体的にどの部分が「2段モーション」にあたるのか。菊池は辻監督とともに、すぐに審判団に確認した。しかし、その場でははっきりした答えは得られなかった。

ふに落ちなかった。しかし、時は待ってくれない。次の登板機会に備え、菊池は土肥投手コーチとともに、フォームの矯正に取り組んだ。

「問題点がはっきりしないので、おそらくこういうことだろうという感じで、さぐりさぐりでフォームを直すしかなかった。はっきり言って、ぐっちゃぐちゃでした」

その結果が、1週間後のソフトバンク戦、試合初球でのボーク判定だった。

菊池はやむなく「クイックモーション」に切り替え、投球を続けた。しかし、球威は落ちる。何より、動揺していた。
川島をストレートの四球で出塁させると、そのまま初回3失点。2回にも4点を奪われ、計7失点で降板した。
 

 
打たれたこともショックだった。だがそれ以上に、大事なフォームを取り上げられたことで、途方に暮れていた。

「土肥さんと2人で3年間、一緒につくりあげてきて、ようやく固まったフォームでした。投球動作中に上体が前に突っ込むクセがあるので、足を上下動させることで、左の股関節に体重をしっかりと乗せられるようにしました。それで、球威も制球も格段に良くなった」

左の股関節に乗る意識を、春先よりも強めているのは確かだった。しかし基本的には、春のキャンプ当時と同じ方向性のフォームで投げているつもりでいた。キャンプ地を訪れた審判団に見てもらい、お墨付きを得たフォームだ。

それが、ここに来て「ボーク」と判定された。思わず、周囲にこぼした。

「いったい、どうしたらいいんでしょう…」
 

「帰っても毎日黙り込んだ」──

 
09年のドラフト会議では、6球団が1位指名で競合。鳴り物入りで西武に入団した。しかし、プロ入り以来制球が定まらず、球威も上がらなかった。

そんな菊池が、理想のフォームを得て変わった。今季は開幕から1点台の防御率を守り続け、8月3日楽天戦では、日本人左腕最速記録となる毎時158キロもマーク。140キロ台中盤に達する高速スライダーもあいまって、他球団の打者を圧倒し続けた。

「よし、ここからというところでした。足の上下動が問題だと指摘されたので、左の股関節に乗る『間』がとれなくなった」

シーズンも終盤戦。4年ぶりのクライマックスシリーズ進出へ向け、エースには大きな期待が寄せられていた。そんな大事な局面で、あろうことか「投げ方」が分からなくなった。

「あの時期は、うちに帰っても、毎日黙り込んじゃっていました。妻には本当に気を遣わせたと思います。ただ、『どうしたらいいかな』って言える相手がいるだけで、本当に救われました。妻がいたから、辛うじて気持ちが折れずにいられた」
 

 

絶対に2軍に落ちないと決めた──

 
野球評論家からは「他にも同様のフォームの投手がいる」「基準が不明確」と問題提起する声が上がった。2段モーションを禁じるルール自体を「国際基準とは違う」と疑問視する意見もあった。

一方で、いくつかのメディアには、審判団の"証言"とされるコメントが掲載されていた。

「菊池には5月から、何度も2段モーションだと指摘していた」

これは事実とは違うという。後日、球団や菊池からの指摘で、審判団もきちんと認めている。

しかし、世間の人々はそうとは知らずにニュースを読む。「度重なる注意に聞く耳を持たず、ついにはボークを取られた」。そんな見方が世に広がり、一部では"事実"として受け入れられてしまう。

重い足取りで向かった球場。土肥コーチがある提案をしてきた。

「一度、2軍に落ちて、調整してもいいぞ」

信頼する恩師の言葉に、菊池は少しだけ、気持ちが揺らいだ。

「固まっていないフォームで投げ続けて、ケガをするのだけはもったいない、ということでした。確かに、理想とは違うフォームで投げるこのボールでは、勝てないかもしれない。一瞬、そう思いました」

しかし、次の瞬間には、気持ちが固まった。

「その時に、絶対に2軍に落ちないと決めました。土肥さんの親心をありがたく思う一方で、それではきっと負けた気になるなと。次の試合までの1週間で、なんとかすると決めました」
 

 
自宅に戻った菊池は、本棚からノートを取り出した。

「悩んだ時は、いつも昔を振り返るようにしています。プロに入ってからの8年間、ケガもあったし、フォームで悩んだり、人間関係で悩んだりもしてきました。それらを忘れないように、常に日記やメモにして、後で見返すんです」

ところどころ擦り切れた冊子には、表に「2010年」と書いてある。

「その時は、プロ1年目のメモを見ました。当時は、もう野球できなくなるんじゃないのかと思っていました。注目されてプロ入りしたのに、左肩をケガしてしまった。それに加えて、指導者の方とうまくいかないということも重なりました」
 

プロ1年目の事件──

 
まだ10代の菊池は、"2軍のコーチによるパワハラ疑い"という問題に巻き込まれていた。当初、このコーチは責任を認めて謝罪し、謹慎処分も受け入れていたが、後に主張を翻した。

謹慎の後の解雇は不当だと、球団に対する訴訟を起こした。パワハラを受けた側として出廷を求められた菊池は、都心の法律事務所に通わざるを得ないことになった。
 

 
西武鉄道などに乗って、片道1時間。裁判に備え、専門家からアドバイスを受けるためだった。

「ボールを投げられない上に、グラウンドにいる時間と同じくらい、法律事務所にいる時間が長かった。いったい、何をしに岩手から出てきたのか…。そう思い悩んでいました」

裁判になったとたん「菊池は夜遊びがひどい」「もともと素行に問題があった」「コーチに何か言われると反抗していた」など、事実とは異なる報道が続くようにもなった。

「もう、誰も信じられない。あのころは、そう思うことすらありました」

8年前は、ひどいもんだったな─。ノートをめくりながら、菊池はそう思った。

「田舎から出てきたばかりということもあって、高校の監督や同級生以外には、相談できる相手もいませんでした。だから、本を読んでなんとかしようとしていました。当時のノートには、本から見つけ出した救いの言葉みたいなものも、いっぱい書かれています。でもほとんどは『つらい』とか『苦しい』とかいった言葉ばかりでした」
 

 
当時の痛々しい文章を読んでいるうちに、ふと思った。

「あんなに苦しかった当時に比べれば、2段モーションの問題なんて、あくまで野球をやれている上での悩み。そう思うことができました」

胸のつかえが下りたような気がした。心が軽くなった。

「一度、絶望を味わった野球人生。そこから思えば、やれるだけでも丸もうけ。勝っても負けても、マウンドに立ってボールを投げられるだけで、すごくありがたいことなんですよね」
 

2段モーション問題があったからこそ──

 
8月31日楽天戦。菊池は楽天の先頭打者オコエに、この試合の初球をバックスクリーンに放り込まれた。やはり、今季はもうダメか─。そんな空気も漂ったが、この日の菊池は違った。

「いろいろ試して、結局去年までのフォームに戻しました。納得いく球は1球もなかった。でも、割り切って腕を振りました。とにかく、投げられるだけで丸もうけ、なんですから」
 

 
9回を被安打5、失点2で乗り切り、完投勝利。9月には3試合に先発し、計23イニングを自責点0で乗り切ってみせた。

「『2段にしていたから勝っていた』とか絶対言わせたくなかった。調子はよくない。でも、負けたくない。そこは意地です」

「丸もうけ」と気持ちに整理をつけてからの防御率は、脅威の「0.23」。クライマックスシリーズ進出の原動力となった。

「宝物のようなフォームを失うのはつらかった。でも、2段モーション問題があったからこそ、野球をできるありがたみを再確認できました。野球ができているんだから、その上での悩みや勝ち負けは、どうしようもないこと。とにかく『味わう』だけだなと」

初の大舞台を前に、菊池はそんな境地に達していた。
 

 
10月14日、楽天戦。
菊池はクライマックスシリーズ初登板を、見事な完封で飾った。

最優秀投手賞にあたる「沢村賞」こそ、巨人の菅野に譲った。それでも、ダルビッシュがTwitterで「2人とも沢村賞でよかった」との旨をつづるなど、シーズン通しての活躍は各方面から高く評価された。しかし菊池は、今季を振り返るより先に、こんなことを言った。

「あの子たち、今のオレをみて、どう思っているのかなぁ」

昨オフ、東北各地で主催した野球教室で、菊池は子どもたちに「まっすぐ立ってから投げるんだよ」という話をしていた。
軸足の股関節にしっかり乗ってから投げなさい、という指導だった。

「そういうフォームも、ルールに沿ったものだと理解していましたから。でもシーズンに入ったら、その理解ではボークを取られた。だから、あの子たちが今回の問題を知ってどうしているのか、すごく心配なんですよね」

個人的には、"問題"を肥やしにできた。しかし、自分だけが消化できればいいとは、なかなか思えない。戸惑っているのは、あの日の子どもたちだけではないだろう。
 

そんな記述はルールに一切ない──

 
「僕ら投手は、11月くらいから来年のフォームをつくっていく。だからいち早く、はっきりした指針を示してほしい。もちろん、ルールには従います。でもそれなら、上下動の許される範囲とかも、明確にしておいてほしいんです」

多くの評論家も指摘するように、菊池と同じように上げた足のひざを上下動させる投手は、他にもいる。なのになぜ、菊池だけがボークを取られるのか。
 

 
「審判のみなさんの答えは『同じ場所で上下動させるのはダメ』ということでした。他の投手はひざの位置が、わずかであっても横方向に動きながら上下動するからいいんだと」

動きが2段になること自体が問題ではないのだという。"2段モーション"という言葉からは、なかなか想起しにくい論点ではある。

「それがルールなら、それに沿って投球をします。ただ、明文化はした方がいいとは思う。同じ場所で上下動させるのはダメとか、そうじゃない上下動ならいいとか、そんな記述は現段階ではルールに一切ないんです」

ルールに「解釈」の余地を残していては、いずれ同じような問題は起きる。それで不利益を被るのは、選手だけではない。

最高のプレーを待ち望むファン。選手を見習って練習する子どもたち。野球を愛する多くの人々に納得してもらうためには、ルールを明文化した上で、それをきちんと世に知らしめた方がよいのは自明だ。
その意味で言えば、まだ"問題"は終わっていない。
 

恩返し、そしてアメリカ──

 
20日。シカゴ・リグレーフィールド。
ドジャースとカブスのナ・リーグ優勝決定戦の会場に、菊池はいた。

楽天とのクライマックスシリーズ、初戦を菊池で勝った西武だが、1勝2敗で敗退した。
「自分の後に投げる人も勝てる流れをつくるのがエース」。そう思って投げてきた。
だから、たとえ初戦で完封勝利を挙げても、なんの慰めにもならなかった。ただただ悔しかった。

それでも、ふさぎこんでいるわけにはいかない。一度きりの野球人生。走り続け、味わい続ける。
 
「すぐ飛べば、秋季練習が始まる前に戻って来られる」

菊池はアメリカに飛んだ。

たどり着いたシカゴでは、メジャーを代表する左腕、ドジャースのカーショウが好投していた。8月までの菊池と同じように、右ひざを上下動させるようにして左の股関節に体重を乗せ、ためたパワーで強い球を投じている。

あのマウンドに立ちたい、ではない。あのマウンドに立ったらどうするか。菊池はそんなことを考えながら、試合を見ていた。

「僕の夢は、いずれアメリカでプレーすることです。自分はまだまだ技術不足で、課題もある。でも、メジャーで活躍できる見込みがあるかどうかという話は、進路を選ぶ判断材料には入らない。行きたいのか。行きたくないのか。そこに尽きる。他にあるとすれば、球団や応援してくださるファンの方に、きちんと恩返しができているのかどうか。それだけですね」
 

 
時が許す限り、野球を楽しむ。2段モーション問題は、菊池にとっては「原点」に立ち返るきっかけにもなった。

「経験すればするほど、断言できることって、少なくなると思うんです。今回の問題だって、シーズン前には予想もしていなかったですから。何も知らない高校の時なんかは、分かった気になって『野球ってこういうものだ』って簡単に言ってました。でも、いろいろ経験していくと『野球って何なのか』というのを、簡単に説明できなくなる」
 

「楽しむしかない、ということです」──

 
言葉を選びながら、菊池は続ける。

「ただ、今でも断言できることについては、昔よりももっと自信を持って言えます。誰になにを言われようが、こうだよねと言える。それっていうのは…」

ふーっと息を吐いて、一拍置く。そして、語気を強めて言う。

「楽しむしかない、ということです」

何度か、小さくうなずく。シンプルな言葉が、重みをもって響く。

「そもそも、自分は楽しくて野球を始めたんです。だから行き着くところ、そこになる。一度きりの人生ですから、楽しむ。そして、今しかできない貴重な経験を、しっかり味わう」
 

 
10月下旬、秋季練習。
メットライフドームのバックネット裏の階段をのぼると、ロッカールームの手前で、急に外の光が差し込んでくる。
左手をかざして、菊池はまぶしそうな表情をした。

「どうして勝てるようになったのか、とかよく聞かれますけど、今年がどうこうという話じゃないです。悪い時、つらい時も含めて、プロ8年間の積み重ね。2段モーションの問題を乗り越えられたのも、それがあるからです」

こちらを振り返ると「まあ、だてに遠回りしてませんから。僕も」と、いたずらっぽく笑う。


トンネルが長ければ長いほど、その先に待つ光は強く、まばゆい。


(取材・文 塩畑大輔 写真・松本洸)


インタビューの様子はこちらから

出典: YouTube

詳細はスマートフォンから

cat_3_issue_premium @linenews_0_e6d8f19c12ba_「一番太いじん帯、そこが骨化していく」内田篤人が語った苦闘の2年 e6d8f19c12ba 0

「一番太いじん帯、そこが骨化していく」内田篤人が語った苦闘の2年

2017年10月26日 11:00 LINE NEWS編集部

9月26日午前11時、ベルリン市内。小さな森に抱かれた、ドイツ2部ウニオン・ベルリンの練習ピッチに、内田篤人が現れた。

足取りが軽くないのは、体調の問題ではない。練習器具を積んだ小さなワゴンを、若手選手と一緒に引っ張っていたからだ。

器具を所定の場所に置き、「やれやれ」といった様子で背伸びをする。身体がほぐれると、洋芝の濃い緑が美しく染めるピッチを、軽い足取りで走り出す。
 

右膝のケガから2年───

 
前夜のカイザースラウテルン戦では、出場機会がめぐってこなかった。ビッグクラブのシャルケから移籍してきた内田だが、この日はベンチ外メンバーらとともに、調整をすることになった。

それでも、屈託のない笑顔で、周囲の若手とやりとりをする。

「独特の言い回しとかあって、言ってること全部を理解できないこともあるんですけど、あまり気にしないようにしてます。もちろん、最初は気になりましたよ。『あいつこっち見て何か言ってるなぁ』とか。でもしばらくすると、たいしたことを言ってるわけじゃないって気づく。たいてい、オレに深くかかわる話をしているわけでもないんですよね」

そう言って、笑ってみせる。やがて、同僚たちと肩を並べて走り出す。ピンクのスパイクで、サクサクと芝生を踏みしめる。そのリズムに、かつての乱れはない。
 

 
リーグ戦前々節では、フル出場を果たしていた。右膝のケガから2年。内田篤人が帰ってきた。
 

交通事故でもこんな難しいことにならない───

 
「レア中のレアケース。交通事故でもこんなに難しいことにはならないくらい、特殊な症例だったんです」

内田はそう言って、右膝のケガと、2年間のリハビリ生活を振り返りだした。

「膝が固まっていく感覚がありました。膝蓋(しつがい)じん帯といって、人体で一番太いじん帯ですけど、そこが骨化していくんです」

「ストレスがかかり続けることで、こういうことが起きることがある。たいていは膝が痛くなって、動かせなくなることでストレスが減って、骨化の進行が止まります」

しかし、内田の場合、骨化の進行は続いた。なぜか。走ることをやめなかったからだ。
 

 
「14年のブラジルW杯もありました。直後には欧州チャンピオンズリーグもあった。だからムリをしました。膝が壊れているのは、自分が一番分かっていた。でも、続けていた。痛みがどんどん強くなって、自然とかばうから、右足がみるみる細くなった。曲げ伸ばしもできなくなって、最後は地面に足をついているだけだった。ほとんど動かせなかった」

14-15年シーズンの欧州チャンピオンズリーグ、決勝トーナメント1回戦。レアル・マドリードとの大一番の陰で、内田は決心した。ディ・マッテオ監督に初めて、万全のプレーが難しいと伝えた。痛いのは耐えてきた。だが、動かせないのではどうしようもなかった。
 

"戻れない"と思っちゃうことはあった───

 
15年6月、内田は膝にメスを入れた。

「半年で復帰するつもりで手術しました。ドイツのドクターだけは、ここにメスを入れて戻ってこれたやつはいねえ!と最後まで反対していました。すごいドクターなんですよ。彼の病院では、陸上のボルトと待合室であったこともあるし」
 

 
それでも、手術を受けると決断した。最速でピッチに戻るためだ。
しかし、リハビリは思うようには進まなかった。

「自分がイメージしていた、半年での復帰ペースに比べると遅いから『あと2カ月かな』と考え直すけど、そのペースにすらならない。『じゃ、あと3、4カ月かな』って思い直しても、またしばらく進まない。気づけば、とっくにできているでしょうという時期に、まったく何もできていなかった」

そもそも、膝の骨格が一般的な形と違うなど、リハビリ自体が難しいものでもあった。こちらの痛みが消えれば、あちらが痛む。
そして、痛みを抱えたままのトレーニングでは、筋力は戻りにくい。あまりに長引くリハビリに「内田はもう治らないらしい」という声まであがっていた。

「オレ自身も、戻れないと思っちゃうことはありました。だからいろいろ考えないようにしました。いつか治るんだろう、と気楽にかまえてないと、長いリハビリはできない。だんだんそれが分かってきました。だから、気は急くけど、あえて適度にさぼるように心がけました。定められた回数をわざと守らないようにしたり、とか」
 

 
さぼらなければと、自分に懸命に言い聞かせる。そんな中で救いになったのは「出会い」だった。
国立スポーツ科学センター(JISS)でのリハビリ中には、滞在が長引いた分だけ、多くのアスリートと知り合う機会があった。

「サッカー選手は恵まれていると感じました。待遇の面もそうだし、世間からの注目の部分もそう。それに比べて、普段から大変な思いをしている選手たちがケガをして、集まって一緒の部屋でリハビリをしているんですけど、みんな息の抜き方を知らない。だからキューっとなっちゃうんですよね」

このころ、サッカー協会のメディカルスタッフがJISSを訪れると「アツトさんがメシをごちそうしてくれた」とさまざまな競技のアスリートから報告されていた。内田は手を振って、照れたように振り返る。

「うまくいかなければ、また明日がんばろうと切り替えることも大事。自分でもそう感じていたので、みんなにもそういう話をしました。そのうち、仲間の中からリハビリが終わって施設を出て行く選手が出てくる。その時はサプライズで送別会をしました。泣くんですよね。そういうのはいいなぁと」
 

 
内田が言う「仲間」には、先日現役を引退したテニスの伊達公子もいた。
卓球の福原愛、石川佳純、水泳の入江陵介、バドミントンの垣岩令佳といった五輪のメダリストも揃う。
彼ら、彼女らとは今でも連絡を取り合う。

「おとといの試合の直前でしたけど、アイスホッケーの選手から連絡が来ました。実業団でプレーを続けるか、プロになるか、海外に出るかの三択で迷っていて、その相談ですね。そろそろ結婚もするんですよ、って切実にいうから、そんなの知らんよって笑ってやりましたけど。でも自分なりの考えは伝えさせてもらいました」

別れ際に涙を流す。今でも相談を持ちかけてくる。内田との出会いは、アスリートたちにとって貴重なものだった。
 

 
「でもね、オレの方こそ、ってところもありますよ。ケガのつらさ、苦しみを、みんなとシェアさせてもらったというか。みんなとのやりとりがなければ、一人きりでケガとまともに向き合いすぎて、自分が参ってしまったと思います」
 

自分の置かれた立場を客観的に───

 
このころ、内田は気晴らしのために、よくYouTubeの動画を見ていた。

「ゲームの攻略動画とか見ていました。すごいんですよ、有名なYouTuberの皆さんの動画って。それから、eSportsのアスリートの方たちのプレーもすごい。パリ五輪で正式競技になる可能性、あるんでしたっけ?」

「最初は自分でゲームをするのが好きだから見てました。でもいつの間にか、自分がやったことのないゲームの攻略動画とかも見るようになりました。動画自体が面白いんで、ね」

アスリートの中でも、特にネットの世界への感度は高いが、一方でこんなことも言う。

「ネットには本当にいろいろなジャンルの情報、コンテンツがある。見たいものが見られる。知りたいことを知れる。でも、自分の興味あるものしか見なくなるという側面もある。ちゃんと意識をしておかないと、いろいろな情報が頭に入ってこなくなる。それは怖いような気もする」

ふっと真顔になった。言葉を続ける。

「ネットの"見え方"って、自然と自分と同じ考え方にそまっていくところがあるじゃないですか。YouTubeとかも、関連動画に自分の好みのものしか並ばなくなるし。自分と反対側の意見に耳をかせなくなるのは、怖いですよね。客観的に見なくちゃいけないと思っているので。自分の置かれた立場を」
 

 

物議をかもした「代表引退説」───

 
客観的に、自分の置かれた立場を見ないといけない。3年前。物議をかもした「代表引退説」は、まさにそんな考え方から出たものだった。

14年のW杯直後、一部メディアで「内田が代表を引退する」と報道された。事実、サッカー協会にもそうした考えは伝えていた。 直後に手術を余儀なくされる膝痛の悪化もあったが、それ以上に「日本代表」という立場へのジレンマを抱えていた。

「代表としてやりきったから、というわけではなかった。むしろぜんぜんやりきれてなかったし。いろいろ考えだしたのは、負けて帰国した時でした。日本は他の国とは、サッカー選手の扱いが違うなと」

負けてなお、日本代表の選手たちの人気は高かった。ありがたいこと。そう思う一方で、フィーバーを客観的に見ている、もう1人の自分がいた。
 

 
「アイドル入っているというか、だいぶ人気が先行しているなと。それでふと、我に返ったというか。オレがドイツ人なら、ブラジル人なら、スペイン人なら、きっと代表にかすりもしないなと。海外には、もっとすごい選手がいっぱいいる。なのになんでオレたちの方が、華やかなところにいるのかなと」

そこを割り切れないまま、代表に合流するわけにはいかなかった。だから、いったん身を引こうと思った。その後、手術、リハビリを経験した。その間も、ずっと考えてきた。
時間は十分すぎるほどあった。4年に一度のチャンスに人生を懸ける、五輪競技のアスリートの姿も見てきた。整理はついた。

「ネイマールとか、ベイルとか、日本代表でW杯に出るからこそ対戦できる選手もいる。限りあるサッカー人生、出られる大会、選ばれる代表なら、そこは出るべきじゃないかと。膝的に、肉体的に、年齢的にチャンスがあるなら、トライしない理由はない」
 

オレの膝は、他の人とは違う───

 
リハビリ開始から半年以上がたっていた。
JISSを"卒業"した内田は、古巣鹿島を拠点にしたリハビリをスタートさせた。 鹿島の塙敬裕(はなわ・けいすけ)理学療法士にサポートを仰ぐためだった。

「彼と出会わなければ、リハビリはうまくいかなかったと思います。JISSにいるうちから、紹介されて話をする機会があったのですが、リハビリに対する考え方、意見が感覚的に合った」

塙氏の考えは、一般的に有効とされるリハビリ法をなぞるものではなかった。もともと違和感なく動いていた時の「位置」に、骨などの組織を戻す、というものだ。

「オレの膝って、他の人とは少しつくりが違うみたいなんです。骨の位置とか、バランスとか」

そう知っていた内田は、自分には一般的なリハビリよりも塙氏のアプローチが有効だと考えた。

「塙さんには最初から、特殊な症例、特殊なつくりの膝を治すから、はっきりいって現段階で正解はないと言われました。でも、治すならそういうスタンスしかないと思った。実際、やってみたら痛みも減るし、力も入りましたしね」
 

 

「内田にW杯は難しい」と思いますよね───

 
出口は見えてきた。
しかし、トンネルはさらに長く続いていた。

シャルケに戻ってからのリハビリでは、クラブ専属のトレーナーの方針で、患部へのアプローチが変わった。それで痛みがぶり返した時期もあった。16年12月。内田は欧州リーグのレッドブル・ザルツブルグ戦で、ついに公式戦に復帰した。しかし、その後は試合に出られず。丸2シーズン、リーグ戦の出場ゼロということになった。 雌伏の時は、2年になろうとしていた。

「みんなきっと『内田にW杯は難しい』と思いますよね。時間ないじゃんとか。膝やっちゃったからとか。今までよくやったよ、ってねぎらってくれちゃってる方もいるかも」

苦笑いしながらも、語気を強める。

「でも実際には、時間はある。経験から言えば、評価は1カ月あれば変わる。というか、1試合で変わります。流れとか、タイミング次第で十分ありうる。手のひら返しって思うこともあるけど、それが評価です。そのためには、まずは試合に出続けないと」

出場機会を求め、今季からはドイツ2部ウニオン・ベルリンに移籍。リーグ戦フル出場も果たした。
 

 
「膝の痛みはもうないです。少しの違和感で、ドーッと冷や汗が出るけど、しばらくすると、ああ大丈夫だと。たぶん、もう一回痛みが出たら、終わりだと思う。でもとにかく、今はぜんぜん大丈夫。サポーター巻いてるじゃんとか言われるけど、プレーがよくなるなら何重でも巻きますよ」

加入して間もないチームでは、まだ周囲と"あうんの呼吸"とはいかず、出場機会は限られている。それでも、内田は言う。

「マイナスな意見が多い状況から、バンバンバンと巻き返していった方が、格好良くないですか?内田はもうダメだとか、W杯までもう時間がないとかいう意見があった方がありがたいです。もしも他人だったら、なかなか厳しいと思うはず。でも当事者としては、いい『フリ』だと思っています」

そう言って、ニヤリと笑ってみせる。
 

 
「確かに2年間のブランクは長かった。でも、W杯とW杯の間に、きれいに2年間が収まった。ケガが治って、またW杯を目指せる。これってすごくラッキーなことじゃないですか?」
 

家族を持ったからには───

 
控え組との練習を終えた内田は、急いでシャワーを浴び、駐車場へと出てきた。

そこには夫人と、生後11カ月の長女が待っていた。内田は娘を抱き上げ、同僚たちがまだ着替えをしているロッカールームへと戻っていく。どうやら"お披露目"をしたいらしい。 しかし、数分と持たず、表に出てきた。娘が号泣している。

「泣き止まないわ」。半裸の屈強なドイツ男たちに囲まれ、驚いたのだろうか。必死にあやす内田の手から、夫人が娘を抱き上げる。ピタリと泣き止んだ。「やっぱりママか」。子煩悩な新米パパは、残念そうにこぼした。

「家族を持ったからには、無条件に競技を優先させていいとは思わないです。でもうちは幸い、奥さんがOKをしてくれている。好きにやっていいよ、と」

「海外に来たら、生活のこと、子どもの幼稚園や学校のことなんかで大変だと思う。本当に感謝しています。そういえば結婚してから、リーグ戦に出ているところを、試合会場ではまだ見せられていないんですよね」
 

 
ベルリンは日本より、はるかに冷え込みが早い。気温15度。澄んだ空気に、空の青さが映える。傾いた冬の日差しに目を細めながら、内田は乗用車のハンドルを握る手に、グッと力を込めた。

(取材・文) 塩畑大輔


※編集部追記
内田選手は16日の練習で左太ももを負傷。幸い軽傷でしたが、26日現在、別メニュー調整を行っています。そのため期待されていた11月のブラジル、ベルギーとの親善試合での日本代表復帰は見送りとなる見込みです。

しかし内田選手本人は、ケガをする以前から「今の段階ではまだ、他の代表選手と自分とでは状況が違う」「まずはウニオンで試合数を重ねること」と話していたこともあり、あせることなく前向きに調整しているということです。

詳細はスマートフォンから

続きはアプリで、快適に LINENEWS