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「好きだから辞めた」元シンクロ日本代表が23歳で引退した理由 第二の人生とは

2019年4月18日 11:00 LINE NEWS編集部

3月中旬、これまでオリンピックやサッカーW杯など数多くのビッグイベントを取材してきたスポーツカメラマン岸本勉が向かったのは米国ネバダ州のラスベガス。

04年のアテネ五輪シンクロ団体で銀メダルを獲得した元日本代表選手・北尾佳奈子さんが、世界的なエンターテイメント集団シルク・ドゥ・ソレイユの代表的演目である水中ショー「O(オー)」に出演していると聞いたからだ。

あの厳しいと言われるシンクロの世界でメダルまで獲得した彼女が、なぜ23歳という若さで競技者からパフォーマーへと転身したのか。

シンクロ選手におけるセカンドキャリアの選択肢は狭いと言われているが、今回岸本が「O」のバックステージの彼女に密着し、見えたものとは――。


水中ショー「O(オー)」の代名詞ともいえる幅、奥行きともに25メートルから30メートルはありそうなプール。

前日にショーを観劇した際には気づかなかったが、このステージ内にあるプールは深さが約7メートルもあり、スタッフが作業する地下室もある。本来は足を踏み入れることのできない場所だが、今回は特別に撮影取材が許可された。しかし、いきなりの撮影に冷や汗をかかされた。

ライトで照らしたといえども、プールの中は薄暗く水圧に耐えるための分厚いガラス越しの撮影。なかなかピントが合わない……。

手間取る僕に、彼女は嫌な顔ひとつせず微笑みをたたえながら水深7メートルの世界で「ハート」を手でかざしつづけてくれた。

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そのしなやかさで美しく水と戯れる姿は、さすが元シンクロの日本代表。

シンクロが好きだから辞めた

88年のソウル五輪で銅メダル(ソロ、デュエット)2つを獲得し、水中で優雅に泳ぐ小谷実可子に憧れた。そうして9歳の時シンクロを始めたという北尾さん。20歳で日本代表入りし、04年アテネ五輪シンクロ団体で銀メダルを獲得した。

しかし05年のモントリオール世界選手権を最後に23歳の若さで競技からは引退している。
同世代のチームメートの多くが次の08年北京五輪を目指したなかでの決断である。なぜなのか。

「シンクロが好きだったから辞めたんです」
矛盾するようだが、彼女は競技を辞めた理由について、そう話してくれた。
「五輪に出て、メダルを取るという夢を果たせたのですが、どうもスッキリしなくて。自分が願っていた舞台に辿り着いたものの、そこで自分が思い描いていたシンクロを見せられたかといえばそうじゃなかった」

日本代表となり、晴れの舞台でメダルを獲得したものの、心に残ったのはモヤモヤ感だったという。何かが違ったのだろう。

選手時代は年間のほとんどを合宿や練習に費やし、1日10時間近く水の中で過ごす厳しい日々。求められるのも美しさや表現力ではなく協調性や同調性だ。

「私は言われたことをぜんぶ信じてやってしまうような真面目な選手だったので、すべてを受け入れてしまった。もう完全にロボットでしたね(笑)」

当時の日本代表が求めたシンクロに、北尾さんが大事にしている個性を出す隙間はなかった。大好きだったシンクロを嫌いになりそうだった、と続けた。

シンクロは例えば同じ芸術性を競うフィギュアスケートのようにプロの世界が整っているわけではない。もし競技からの引退を決めれば、もう二度とシンクロを泳ぐことはできないかもしれないリスクもあったという。

「辞めるときはもちろん迷いました。だって、大好きなシンクロがもうできなくなってしまうかもという思いもありましたから……。

ただ、それ以上続けてシンクロを嫌いになるのだけは嫌だった。だから、大きな賭けだったんですが、1度辞めることにしたんです!」

第二のシンクロ人生 競技とショーの違いは?

シンクロという競技の特異性ゆえに、引退後に現役時代の経験を生かすことは簡単ではない。

彼女は幸運にもシルク・ドゥ・ソレイユと出会い、06年から「O」のパフォーマーとして舞台に立ち続けている。どういう経緯だったのか。

「ちょうど引退したあとにオーディションが東京であることを聞いて、受けてみたんです。そしたら無事に合格して、トレーニングキャンプを経てラスベガスに呼ばれることに」

水を使ったショーはラスベガスでも「O」のほかに、「Le Reve(ルレーブ)」(「O」と同じフランコ・ドラゴーヌがプロデュースしたショー)があるくらいというから、そこに辿り着いたのは幸運と言うしかないかもしれない。

北尾さんの第二のシンクロ人生は、そこからスタートした。

それから13年。いまでは16人いる水中パフォーマーのなかでも毎日違うパートを泳ぐローテーターという重要な役割をこなす北尾さんは、19時と21時半からの1日2公演を水曜から日曜までの週5日(基本)、年間約470もの公演をこなしている。

ただ、ハードに見える環境も、選手時代に比べれば、苦労に感じることはないという。

「選手のときは連休が年1、2回あるかないか。それに比べれば、いまは週2回も休みがありますから。現役時代は、なかなかシンクロを楽しむことはできなかったですが、ここでは間違っても危険さえなければみんな笑顔。いまは自分の好きなことを仕事にできていて本当に幸せに感じています」

それにしても、北尾さんの無垢で透き通った笑顔は印象的だ。

シンクロ選手の撮影は何度もしてきたが、彼女たちはいつも何かに怯え、どこか窮屈そうに見えた。だが、いまの北尾さんにそんな様子はまったく見えない。

「だって楽しいですから。私は何かを自分自身で表現したいという思いが強かったし、競技よりもショーの方がもっと自分がいます。自分がいるからこそ、心を使って伝えることができると思うんです。選手としては道半ばでしたが、未練があったからこそ自分らしいシンクロの生かし方を見つけられたのかもしれません」

北尾さんはラスベガスで、自分が求めていた〝シンクロ〟にやっと出会えたのだろう。ただ、泳ぐことは同じでも競技とショーは似ているようでまったく違うとも言う。

「水の中から飛び上がるシーンでも競技なら高さが求められますが、ショーなら低くても味があればいい。最初の頃は、選手の感覚で1人だけ高く上がっちゃったり、シャキシャキ動き過ぎちゃったり頑張り方を間違ってしまっていましたね(笑)」

ショーでのチームにギスギスした雰囲気はなく、長く続けるにはこっちの方がいいに決まっている。

貴重な「O」の舞台裏 そこはまるで大きな家族

北尾さんに「O」の舞台裏を少し案内してもらうことにした。衣装部屋に入ると「KANAKO」の文字。そこには彼女の衣装もかかっている。

ショーでは髪も使い表現する。衣装チェンジは3回。ウィッグは水を吸うと相当重くなるらしい。

すれ違う人、その持ち場の人、みんな笑顔で「ハーイ、カナコ!」と声をかけてくる。

この中で彼女は生きている。僕も勝手に居心地がよくなっていくが、こうした雰囲気はきっと日本代表時代にはなかったのだろう。

メイクの様子も特別に見せてもらった。とにかく楽しそうだ。

カメラを向ければ、みんな喜んでくれる。「O」のスタッフたちからは、何か大きな家族のような温かさを感じた。僕もここの専属カメラマンになれたら最高かも、そんなことを思ってしまった。そりゃ、北尾さんも楽しいはずだ。

思いもよらなかった「悲劇」

北尾さんは現地で米国人男性と結婚し、出産も経験。そして、「日本では絶対に考えられない」と笑ったが、「O」のショーを続けながら競技に復帰。

17年には男子シンクロのパイオニア的な選手ともいえるビル・メイとのコンビでミックスデュエット(男女混合)のアメリカ代表としてブダペストでの世界選手権に出場し、銅メダルを獲得している。

ブダペストの世界選手権は僕も撮影に行った大会だ。写真を見直してみた。最初にシンクロを辞めたときのことを「賭け」だったとも話していたが、北尾さんは賭けに勝ったのだ。

「現役を辞めてこっちに来たときから、シンクロに限らずいろいろ勉強してきて、また戻れたんです。ミックスデュエットはよりショー的な要素が多く、自分のやりたかったシンクロに近い。もちろん、それに挑戦できるのは、日本のシンクロがあったからこそなんですけどね」

「O」の出演と競技の両立は可能なのか。ショーは週5日もあるのに、どうやって。頭に「?」が浮かんだが、昼間の空いた時間と休みのたびにコーチのいるサンフランシスコを往復することで、なんとか乗り切ったそうだ。

しかし、その後ラスベガスで充実の日々を過ごしていた北尾さんは思いもよらぬ不幸に見舞われてしまったと告白した。18年夏に最愛の1人息子であったザッカリーくん(享年3歳)を水の事故で亡くしてしまったというのだ。

それまで、そんなことがあったとは到底思えない様子で僕に接してくれていた分、一瞬言葉に詰まってしまった。しかし振り返ればそんな振る舞いに北尾さんの魅力が凝縮されていたように思う。

大好きな水のなかに消えてしまった我が子のことを思えば、悲しくないわけはないし、再び水のなかに入ることがどれだけ怖かったことか。
だが、パフォーマーとして、1人の女性として、悲しんでばかりもいられないと凛として前を向いているのだろう。
息子さんだって、悲しみ続ける母の姿を望んではいないはずだ。

「一時は水もシンクロも、自分自身も大嫌いになり、自分がやってきたことをすべて否定しました。息子の死はどんな意味があったんだろうとか考えたり。ただ、そんなことを考えても答えは出ないし、きっと息子は私が笑顔でいることを望んでいるんじゃないかなと思うんです」

人生は一度きり 北尾さんは再び自ら望む道を歩き出した

取材の最後に、どこか雰囲気のいい場所で撮影したいと相談すると、北尾さんはハンドルを握ってラスベガス郊外のレッドロックキャニオンへ僕を案内してくれた。

そこは赤い岩とラスベガスの青い空のコントラストが美しい場所で、息子さんとの思い出の場所でもあるという。

やっぱり笑顔が似合う。北尾さんは、赤い岩の向こうに見える青い空が好きらしい。

息子さんの死で人生観が変わった部分もあるのだろう。「いまはまた新しい人生を歩んでいるところなんです」とも話す北尾さん。

「競技は、もういいかな」とこぼしたその表情は、どこか晴れ晴れしく、澄んでいた。人生は一度きり、手にしたものも失ったものもすべてを受け入れて、再び自ら望む道を歩き出しているのだ。

「私たちは演技を見て感動してもらいたいと思ってやっているけど、世界選手権に戻った時に、改めてあんなに練習したのにみんな結果しか見てないことに気づかされました(笑)。でも、同時にそんなものなのかとも思います。そういう面では、ショーの方がみなさんに見ていただけるかもしれないですね」

北尾さんは昨年、「O」の休演を利用して自らプロデュースしたショーを東京・品川で開催。ことしの3月には「ONE DROP」というシルク・ドゥ・ソレイユのチャリティーショーで著名な音楽家でもあるハンス・ジマー氏と共演し、自ら考案した振付でシンクロのソロパートを披露するなど、「O」のパフォーマーとしてだけでなくその活躍の幅を広げている。

なんて強い人なんだ。

もちろん、たまにエモーショナルになって崩れてしまうこともあるという。だが、それが当たり前だ。

運転する車の車内には半身が人魚のようになっているキーホルダーが吊るしてあった。「これ、同僚がくれたんですよ。ザッカリーみたいでしょって」

明るく、優しく、そして力強い。
ファインダーを通して、逞しく生きる女性はこんなにもカッコいいのかと思わされた。
観る人の心に何かを伝えたい――。それが北尾佳奈子が目指すショーのかたちだ。
北尾さんはこれからも水のなかで自分らしさを追求しながら、パフォーマンスを続けていくことだろう。
【撮影・文:岸本勉/PICSPORT 構成・栗原正夫】

■北尾佳奈子さんプロフィール
1982年、京都府生まれ。9歳で本格的にシンクロをはじめ、20歳でシンクロナイズドスイミング日本代表。04年アテネ五輪、05年モントリオール世界水泳選手権で団体銀メダルを獲得。05年に競技から引退後、アメリカのクラブチームを経て、06年にシルク・ドゥ・ソレイユ入りしパフォーマーに。その後、米国国籍を取得し、17年にはミックスデュエットアメリカ代表としてブダペスト世界水泳選手権で銅メダルを獲得している。