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「忘れてはいけない記憶」故郷・気仙沼で被災後、アイドルに。アンジュルム佐々木莉佳子と3.11 #あれから私は

2021年3月10日 10:00 LINE NEWS

ハロー!プロジェクト所属のアイドルグループ「アンジュルム」。モデルとしても人気のメンバー・佐々木莉佳子は、あの日の記憶を忘れることができない。

2011年3月11日。生まれ育った宮城県気仙沼市を震度6弱の強い揺れが襲った。

津波から逃れようと高台を必死に駆け上がる途中、振り返った少女の眼に映ったのは大量の水が慣れ親しんだ街を飲み込む光景だった。

家族は無事だったものの、津波で自宅を失い、9歳だった少女はショックで塞ぎ込みがちになった。

そんな少女は、いつしか笑顔を振りまき、見る人を幸せにするのが仕事になる。天職と言えるアイドル活動。そのきっかけを与えたのも大震災だった。

「忘れてはいけないことがある。私がそれを発信すべきなのかな」。気仙沼の街が少しずつ復興するのに合わせるかのように、莉佳子自身もそう考えるようになった。

人々の人生を大きく変えた東日本大震災。明日11日で、発生から10年を迎える。


授業中に揺れ…避難途中に見た黒い濁流


1枚の写真がある。

瓦礫が散乱し、打ち上げられた小さな船がひっくり返っている。その傍らで、あめ色のコートに身を包んだ少女が立つ。物憂げな表情のままカメラに視線を送っている。

震災から10カ月後の12年1月、朝日新聞のカメラマンが気仙沼市で撮影した。「アイドルだから笑顔届ける」と題した記事の中で、写真は津波の痕跡を伝えている。

被写体となった少女は津波に自宅を流された。撮影された当時、佐々木莉佳子はまだ10歳だった。

卒業のシーズンだった。小学3年の莉佳子は同級生と一緒に、6年生の門出を祝う飾り付けをしたのを覚えている。

その後の算数の授業中。わずかに地面が動くのを感じると、続けて体験したことのない大きな揺れに襲われた。

「その時は、とてもおびえている暇もなかった」。両親と兄、姉、祖父母の7人暮らし。家族の安否がとにかく心配だった。

しばらくすると、父親が小学校に駆けつけてくれ、上履きのまま高台にある病院へと走って避難した。

その途中にふと振り向く。木屑を巻き上げながら黒い濁流が近づいてきていた。そこから自宅は見えない。それでも、津波に流されてしまったであろうことは容易に想像ができた。

幸いにも家族全員が無事で、避難所に身を寄せることになったが、余震のたびに恐怖で布団に潜り込み、食事はとても喉を通らない。

幼いながらも自分のことは"元気な女の子"と分析していた。でも、津波を目撃してしまったショックにさいなまれ、余震は休むことを許してくれず、塞ぎ込んでいた。

数週間が過ぎ、街から津波の水は引いていったが、そこに莉佳子が知る気仙沼の街はなかった。

通っていた小学校は2階まで津波が押し寄せたものの、流されることは免れた。泥まみれの校舎の中に恐る恐る入り、昇降口にある自分の下駄箱にたどり着く。

扉を開いてみると、見覚えのあるスニーカー一足だけが流されずに残っていた。父親が買ってくれたニューバランスの靴は黄色と黒色がお気に入りだった。

他に震災前を振り返れる思い出のものはなかった。

通っていた小学校は解体され跡地には公営住宅が建つが、現在も門は残されている


塞ぎ込む莉佳子を変えたアイドル活動


震災から約1カ月後、避難所を出て賃貸のアパートに移り住んだ。それでも、気は休まらない。さらに半年近くが過ぎる頃、塞ぎ込んだままの莉佳子を見かねた父親がこう告げた。

「申し込んどいたよ」

気仙沼にご当地アイドルグループができるという噂は、莉佳子も耳にしていた。

震災前の笑顔を取り戻すきっかけになれば。

父親はその一心で、こっそりとオーディションに応募していた。

グループ名は「SCK45」(現SCK GIRLS)。気仙沼が漁業の盛んな地であることにちなみ、産地(S)、直送(C)、気仙沼(K)の頭文字をとった。45は気仙沼を走る国道45号が由来だ。

震災で傷ついた地元の子どもたちをアイドルが元気付けてくれたらーー。地元でボランティアを行っていた団体が、そんな願いを込めて企画したのだった。

10代の6人をメンバーとして、SCK45は2011年10月に結成。10歳の莉佳子が最年少だった。

中学生以上をメンバー募集の対象にしていたが、莉佳子は水を得た魚のように歌とダンスで元気さをアピールし、小学生ながら抜てきされた。

それまでは余震を感じたり被災した街並みを見たりするたびに、気が滅入ってしまっていた。しかし、「毎日がとにかく楽しくなった」。SCK45は莉佳子の日常を変えようとしていた。

グループのおおらかさは他にも見られた。

結成の翌月には初ステージを迎えた。誰も歌、ダンスをマスターしきれていない。ぶっつけ本番でステージに臨むメンバーの度胸と、それをニコニコと笑って許す気仙沼の人々の寛容さが場を盛り立てていた。


被災地の仮設ステージから武道館へ


SCK45は気仙沼市内の仮設住宅や商店街、さらには仙台市や東京などのイベントにも参加。おおらかな雰囲気のグループにあって、舞台中央のセンターを務め前へ前へと進む莉佳子は異彩を放っていった。

E-girls(イー・ガールズ)に、AKB48ーー。

莉佳子にとってテレビで見る彼女たちは、まばゆいばかりだった。実は震災前もアイドルに憧れていたが、「自分にはむりかな」。そう言い聞かせてきた。

もしかすると、父親は自分の思いを見透かしていたのかもしれない。「パパ!ナイス!!」。オーディションに応募していたことを知って、内心はそう思った。まるで一筋の光が差し込んだようだった。

ステージに立てば立つほど、そして、歌って体を動かすほど、アイドル活動にのめり込んでいった。自分が笑えば、目の前の多くの人も笑顔になってくれる。

SCK45は紛れもなく"被災地のアイドル"であった。メンバーは自分たちに被災者を励ます使命が託されていると感じていた。

「震災に便乗するな」「同情を買おうとしている」。そんなバッシングにも遭遇した。でも、同じように被災した人たちが元気を取り戻す姿を見ていると、気にしている暇はなかった。

メンバーたちはみな、ステージに集まってくれる人々の笑顔をバネに、心無い言葉を乗り越えていった。

そうして、莉佳子は次第にこう口にするようになる。

「いつかは絶対に宇宙一のトップアイドルに」

周囲の大人も、そんな夢を後押しする。「モーニング娘。」のオーディションに不合格になる挫折を味わったものの、震災から2年後の13年3月、ハロー!プロジェクトの研修生になることができた。

その翌月、アイドルとしての道を開いた父親を気仙沼に残し、母親、姉とともに東京へ生活の基盤を移した。

ファンも莉佳子のシンデレラ・ストーリーを支える。研修生として1年7カ月の時間を経て、14年10月にアンジュルム(当時・スマイレージ)に加入。持ち前のダンスと天性の明るさで人気を高めていった。

そして、翌年5月。日本武道館のステージに立つ。被災地の仮設ステージからアーティストの聖地・武道館へ。14歳の誕生日を迎えるその2日前、文字通りトップアイドルへと登り詰めてみせた。


故郷・気仙沼の人々が知る莉佳子


東京から北に約390キロ。故郷の気仙沼はずいぶんと遠ざかった。アイドル活動の忙しさがそれに拍車をかけ、帰れるのは年1回程度。仙台でのツアーに合わせて、なんとか時間をひねり出してきた。

海岸線が入り組んだリアス海岸で知られる気仙沼湾。黒潮と親潮が交わる好漁場で、世界三大漁場にも数えられる三陸沖で獲れたサンマやカツオ、メカジキが水揚げされる。ウニやカキも地元の名物だ。

地元の寿司店・あさひ鮨には、幼い頃から父に連れられて通い寿司の味を覚えた。今も故郷に戻るたびに立ち寄る。

あさひ鮨の会長・村上力男とは、莉佳子が"師匠"とのあだ名で呼ぶ間柄だ。村上は父親の横で寿司を頬張る幼い頃の莉佳子を覚えている。少女は気仙沼を象徴するトップアイドルにまで成長した。

「気仙沼を宣伝してくれるんだ。最高だよ」

店内の片隅には大事そうにサイン色紙が飾られている。

「とにかく元気がありすぎる女の子。カメラを向けられたら必ず何かしらのポーズを決めたり、天性のアイドル性がありました」

結成当初の莉佳子の様子を知るSCK GIRLSの3代目リーダー、まりかはそう振り返る。グループ最年少ながらダンスの振り付けを次々と提案したり、突然5人ほどの同級生をグループに勧誘してきたり。アイドル活動を満喫していた姿を覚えている。

もう一つ印象に残っていることがある。被災地で誕生したSCK45には被災した経験を言葉にして共有することを大切にする雰囲気があった。それでも、莉佳子は決して辛さをこぼしたり表情に出したりすることはなかったという。

「莉佳子はくよくよとする姿も見せず、なりたい自分になっていった。夢を叶えることを次々と体現する彼女を見て、夢を持つ女の子が気仙沼に増えていった」


何度も考え、発信してきたメッセージ


東日本大震災から10年を迎える約1カ月前の2月13日夜、福島県沖を震源としてマグニチュード7.3の地震が発生し、宮城・福島両県で最大震度6強を観測した。

「皆様、昨日の地震は大丈夫でしたでしょうか?」
「有事の際には冷静に行動して、命を守る事を優先して下さい」

莉佳子は14日午前、自身のインスタグラムを更新し、そんなメッセージを投稿した。

気仙沼で生まれ、気仙沼で被災。そして、全国区のアイドルになった。そんな自分が命の尊さを伝えるために何ができるのか。ずっと考えてきた。

2015年3月10日。まだ13歳だった莉佳子は、ブログの文末にこう綴った。

「明日もがんばりかこ\(^o^)/ 明日で4年になりますねっ」

あの日から4年を迎えることを12文字で伝えた。文字からも元気さが伝わるブログの中では、1行だけ浮いているようだった。

毎年の3月11日に限らず、自身が経験した震災の記憶をどう活かすべきか、何度も考えてきた。

それでも、どんな言葉で表現するのが正しいのかがわからず、震災のことを書くことで誰かを傷つける不安もあった。被災した記憶を自分自身も整理し切れていないとも感じていた。

その3年後の18年3月11日。

「人間は自然に負けない」と切り出し、「負けても立ち上がる力を持ってる」と続けた。一人の被災者として、毎日を当たり前に生きられる奇跡について記した。

翌年の19年、そして20年。

3月11日を迎えると、ブログでは震災を忘れない決意、人々の支えへの感謝を自分の言葉で表現している。

10年目を迎える今年は新聞やテレビなどマスコミの取材も受け付け、あの日のことを自分の口から語っている。時間が経って自分自身も成長するに連れ、震災の記憶を共有することが使命と感じるようになったから。


今も訪れる前向きになれる場所


莉佳子にはもう一つ、気仙沼に戻ると必ず向かう場所がある。

「あんばやま」とも「あんばさん」とも呼ばれる安波山の標高は239メートル。山の中腹には車を駐車でき、山頂広場までもハイキング気分で楽に辿り着ける。

津波でリスタートを余儀なくされた気仙沼。安波山から一望する街は、ゆっくりと船が行き来し、漁を終えた漁船がのんびりと停泊している。気仙沼の人々はずっと海と一緒に暮らしてきた。

新しい建物が建ったり防波堤が整備されたりと、景色は目まぐるしく変わる。莉佳子は震災前を思い出したり、街並みが変わりゆくことを悲しんだりはしない。

「新しく生まれ変わる気仙沼に元気をもらえるし、ここに来れば前向きになるんです」

復興を目指す気仙沼の街と人々の思いがアイドル・佐々木莉佳子を育てている。莉佳子を産んだのは東日本大震災ではない。

「いろんなことがあった街だけど、やっぱり気仙沼を愛している」

そして、こうも思う。

「アイドルというものが私に何か光のようなものを与えてくれた。今度は私が誰かにそれを与えられたらいいな」


【取材・文 : 岸慶太、写真 : 黒羽政士・田野幸伸・塩畑大輔、動画 : 江草直人、編集 : 前田将博(LINE NEWS編集部)】

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