1964年11月8日。
五輪閉幕から2週間、まだ熱気のさめやらぬ東京の街。
渋谷の代々木公園陸上競技場で、アジア初開催のパラリンピックが始まった。
水泳競技の会場は、東京体育館屋内水泳場。大会2日目、世界中から集まったパラアスリートたちが懸命の泳ぎを見せていた。
ゴールした選手の姿は一瞬、殺到する係員の姿で、スタンドからは見えなくなる。
2、3人がかりで水中から担ぎ出される表情は、みな一様に満足げなものだった。
箱根病院提供
観客はほとんどいない。それでも、会場は達成感で満たされていた。
そうして迎えた50メートル平泳ぎ。ある異変が起こっていた。
エントリーしていた選手がいない。しかも、開催国である日本の選手だ。
仕方なく、1人の選手を欠いたまま、レースは始まった。
今であれば考えられない、代表選手による晴れの舞台での"ドタキャン"。
いったい、何が起きていたのかー。
現世を捨てる覚悟
東京パラ日本代表、長谷川雅巳(当時29)の姿は、代々木の選手村にあった。
卓球と水泳でエントリーしたが、出場したのは卓球のみ。「体の調子が悪い」などと適当な理由をつけて会場には向かわなかった。
辞退した真意は誰にも伝えなかった。
「そもそも、大会に出ることにあまり乗り気じゃなかった。表に出るのがとにかく嫌だった。特に水泳は体がもろに見えるでしょ。『醜い姿をさらしたくない』という思いが強かったね」
84歳を迎えた長谷川が、55年前の出来事について語り始めた。
東京・北区生まれ。
1960年、25歳のときにバイク事故で脊髄を損傷した。
早稲田大学を卒業後、大手建設会社に入社し数年とたたない頃だった。病院で目が覚めると、昨日まで動いていた足がピクリとも動かない。自分の身に何が起こったのか、よく理解できなかった。
都内の病院で数カ月間治療を受けたあと、主治医から神奈川県にある療養所を紹介された。脊髄損傷が専門の国立療養所だ。病院ではベッドに寝たきりの生活だったが、療養所に行けば車いすに乗って「日なたぼっこ」ができるようになるという。
障害者が「社会復帰」するという考えが乏しい時代。友人とは連絡を絶ち、現世を捨てる覚悟で転院した。
障害者は"隠された場所"に
神奈川県小田原市にある国立病院機構箱根病院。長谷川が転院した旧・国立箱根療養所だ。
箱根町との境に位置し、住宅街の一角、小高い森の中にひっそりとたたずむ。近くまで寄らないとそこに病院があるとは気付かず、中の様子をうかがい知ることはできない。
なぜこんなにも分かりづらい場所にあるのか。
それには、この病院の歴史が深く関係している。
箱根病院は、日露戦争で手足を失った傷病兵を収容するために都内につくられた「廃兵院」を起源とする。
1907年に東京・渋谷につくられ、その後巣鴨に移転。
1936年に現在の小田原市に移り、全国で唯一、戦争によって脊髄を損傷した患者を専門に受け入れる療養所を併設した。
箱根病院の院長、小森哲夫(66)は当時について考察する。
「小田原に移転した1936年は日中戦争の前年ですよね。戦意高揚の雰囲気がある中で、都内に傷痍(しょうい)軍人がたくさんいる状況は望ましくなかったのかもしれません」
「昔を知る地元の人に聞くと『森がうっそうとしていて、自分たちが立ち入ることのできない"特別な場所"だった』と。ある意味では社会から隔絶された空間をここにつくっていたんですね。世の中からは"隠された場所"で手厚い支援がなされていたと。そういう意味で、一般からは見えにくいこの場所が選ばれたんだと思いますね」
箱根病院提供
戦後は「国立箱根療養所」と名前を変えた。
傷痍(しょうい)軍人だけでなく、長谷川のように交通事故でけがを負った一般患者の受け入れも始める。
初めて耳にした「パラリンピック」
長谷川が箱根療養所に着くと、病室は4人部屋だった。
同室の男性にいつから入所しているのか尋ねると「もう3年くらい」だという。
「本当に治らないんだ。一生ここで過ごすのか…」
主治医から「もう歩けない」と告げられたときは、まだ実感は湧かなかった。
覚悟を決めて転院したつもりだったが、とうとう現実を突きつけられた気がした。
療養所に入り、2年ほどがたった。
突然「パラリンピック」という障害者の競技大会が東京で開かれると聞かされた。開催は1年後だという。
初めて耳にする大会。長谷川は訳が分からなかった。
だが職員に促されるまま、水泳や卓球、バスケットボールなどさまざまな競技の練習を行うことになった。
箱根病院提供
大会に向けた当時の練習の様子などが映像で残されている。
非常に貴重な資料。病院の敷地内に今も残る、旧療養所の管理棟から見つかった。
あわせておよそ1時間半に及ぶ映像には、車いすに乗った患者が防具を着けてフェンシングの指導を受ける様子や、アーチェリーで弓を射る場面、車いすから降りて筋力トレーニングをする姿などがモノクロで映されている。
箱根病院提供
長谷川が当時について語る。
「療養所の敷地内にビニールを張ったプールが突貫でつくられて、そうこうしているうちに海外から新しい車いすが届いた。競技ごとにコーチが現れて、連日指導を受けた。なにしろ急いで準備してるって感じだったね」
箱根病院提供
大会の報告書を見ると、厚生省(当時)が関係各所に通知を出し、急ピッチで準備が進められていたことが分かる。
車椅子を使用する下半身麻ひ者を対象としております関係から下半身麻ひ者に係るリハビリテイションの一環としてのスポーツの導入後なお日の浅いわが国におきましては、参加選手の決定につき特に慎重を要するところであります。
しかしながら、開催期日との関係からみて、早急にこれを決定し、国際大会参加に必要な諸般の準備に着手することが緊要と考えられ…(略)
当時のパラリンピックはパラプレジア【paraplegia】、つまり「下半身マヒで車いすを使用する患者」に特化した大会とされていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、全国で唯一、脊髄損傷を専門にする国立の箱根療養所。
日本代表の全53人のうち、3分の1にあたる19人もの選手が箱根療養所の"患者"だった。
家族も知らない「日本初のメダル」
療養所で長谷川が過ごした4人部屋には、パラリンピックに出場することになった選手が他にもいた。
安藤徳次だ。
周囲となれ合うことはなく、病室ではよくクラシック音楽を聴いて物静かに過ごしていたのが、長谷川の印象に残っている。
一方で、大会に向けた練習には人一倍黙々と打ち込み、特にアーチェリーの腕前は周囲の目を見張るものがあった。
安藤はその腕を買われ、大会前年にはパラリンピック発祥の地イギリス、ストーク・マンデビル病院で行われた競技大会にも出場している。
代表選手2人のうちの1人だった。
東京パラリンピックでは、ダーツのような的に弓を射る「ダーチャリー」のペアで日本に初の銅メダルをもたらした。
アーチェリー団体でも銀メダルを獲得。大会を通じて2つのメダルを手にした。
箱根病院提供
パラリンピック史上、日本人初のメダリスト。
安藤徳次とはどのような人物だったのか。
東京・足立区の菊池みち子(84)を訪ねると、思わぬ答えが返ってきた。
「兄がパラリンピックでメダルをとっていたなんて、全然知らなかった。そもそも、パラに出ていたことも知らなかった」
驚くべきことに、妹のみち子は兄の活躍を全く知らなかったという。
8人きょうだいで2番目の徳次は、運動神経がよく、魚釣りが得意な何をさせても器用で活発な兄だった。
1951年、24歳のときに落ちてきた木材の下敷きになり、仕事中に脊髄を損傷する。長女のみち子は、病院に泊まり込んで看病にあたった。
「病室であお向けの状態から動けない兄貴が『俺、もう治んねえな』『死んだ方がいいな』って話していたのを今でも覚えてる。17歳の自分じゃ、なんて声を掛けてどう接すればいいのか分からなくて、ただただつらかった」
絶望した徳次の表情が、みち子の脳裏に焼き付いている。
約1年間の看病を経て、徳次は箱根療養所に転院した。
よみがえるメダルの記憶、兄の表情
療養所に見舞った際、徳次が「みち、俺な、アーチェリーをやってるんだ。弓だよ、弓」と話していたことがあった。
洋弓を行っていることは知っていたが、取材を受けるまではっきりと思い出すことはなかった。
しかし、箱根病院から見つかった当時の映像を見て、おぼろげだった記憶がよみがえってきた。
そういえば、静岡・河津町の実家に帰省した際、銀と銅のメダルを見せてもらったかもしれない。大会前年に渡英したことも「ロンドンは寒くて、膝が痛くてダメだった」と話していた―。
「でも当時はパラリンピックという言葉も聞かないし、オリンピックのように新聞やテレビで大きく取り上げられることはなかったと思う。それだけ、注目されてなかったのだと思う」
徳次はパラリンピック後に療養所の看護婦長と結婚。所内で学んだ肖像画で画家として人生を切り開き、2003年に76歳で亡くなった。
映像から切り取った兄の写真に見入りながら、みち子は語る。
「兄貴は療養所に行って人が変わったんだと思う。表情が全然違うよね。『足がダメなら手がある』って、パラリンピックを通して前向きになれたんじゃないかな」
「幸せだったろうし、誇りに思う。前回見られなかった分、"2020"は絶対にパラを見届けたい。あの世に行ったときに兄貴と話せるように…」
床に伏せっていた兄の面影は、もうない。
「我々が主役なのであった」
自ら進んでパラリンピックに参加したわけではなかった長谷川。
大会を通して一番印象的だったのは競技場の外での出来事だった。
「アルゼンチンの選手だったと思うが、競技が終わってバスに乗り込むと普通の小学生のようにキャッキャと騒いでいた。とにかく陽気で、悩みなんてなさそうに振る舞っていたことには驚きだったね」
箱根病院提供
長谷川は、大会報告書に「パラリンピックに参加して」と題した手記を寄せている。
私は外国選手が明るく陽気でいられる背景を若干知ったのである。実際、暗い陰さんな影はないのである。それはそれなりの理由があるのだ。身障者に対する社会一般の理解がそこにあるからなのである。彼等は暗くなる理由がないのである。彼等は一個の人格として社会から認められているし、従って一人の人間であるという自覚をもっているのである。この辺が日本と違う処(ところ)だと思う。
私は受傷以来五年経ったが、一番コンプレックスを意識しなかったのは選手村の中を車椅子でぶらぶら散歩している時であった。あの中では全く意識しなくとも良かったのであった。そこでは我々が主役なのであった。将(まさ)に我々の世界であった。水を得た気持(きもち)であった。あの気持ちを一瞬間だけでも感じることが出来たことは、パラリンピックに参加した最大の喜びであった。私は競技よりむしろその方に意義を感じたものだった。
現世を捨てた"患者"、再び社会へ
大会後、パラリンピックでの活躍を知った企業から集団就職の申し出があり、長谷川は再就職する。
しかし、労働環境に納得がいかず、退職。社会保険労務士の資格を取得し、事務所を立ち上げた。
事務所までは、療養所にいるときに取得した運転免許で、1人で車を走らせた。運転席を降り、車いすに乗り換える様子を通行人がまじまじと見ていた。
最初は視線が気になったが、長谷川は意に介さなかった。毎日続けると、街の日常に溶け込み、視線を向ける人はいなくなった。
50歳のとき、中学校の同窓会で再会した同級生と結婚。75歳まで仕事を続けた。
2020年を「きっかけ」に
完成を間近に控える、2020年大会のシンボル・新国立競技場を見に行った。
「いやあ、すごい。きれいな建物だなあ。木を使ってるのが特徴なんでしょ?新聞で見たんだよ」
来年のオリンピック後、同じ場所でパラリンピックの開会式が行われる。1964年大会は別会場だった。
外苑西通りを隔てた歩道から、電動車いすを動かし、しばらく静かに眺める。
当時と比べ、環境は大きく変わった。障害者スポーツも進化した。
「我々は療養所から"患者"として来たんだよね。それが今では"アスリート"。当時と比べたら隔世の感。でも、同時に『もう僕ら(重度障害者)の出る幕じゃないんじゃないか』という気はちょっとしちゃったね…」
長谷川は続ける。
「障害者が社会に出ていくきっかけをパラリンピックがつくった。大きな変化だった。でもそれは最終目的じゃない。いち過程なんだよ。パラを見て『素晴らしい』と思いながら、今度は"自分の番"だからね。ひとごとでなく、自分が積極的にならなきゃ。それは障害の程度に応じてよ」
「身体障害だけではなくて、何かハンディを持つ人にどんどん表に出てもらいたい。表に出なきゃ話にならない。表に出て初めて、みんなが奇異な目で見る。慣れてないから周りは驚く。でも慣れたらみんなも見なくなる。そういう世の中が早くこないと」
障害のある人もない人も、変わらず、堂々と生きていく。
それこそがパラリンピックの本当の目的だと思う。
社会から隔絶され、自身の中でも葛藤しながら体験した64年大会。
振り返ると「山が動いた」と感じる経験が、長谷川の人生に変化をもたらし、今をつくった。
偏見や差別はまだ完全にはなくなっていない。
だからこそ、自分がそうであったように、"2020"が誰かのきっかけになってほしい。
長谷川の心からの願いだ。
【取材・文:澤田恵理(LINE NEWS編集部)】
1964年東京パラリンピックの映像
箱根病院提供の映像と音声を元に編集したものです