「記者会見の案内は今日されたということで、急きょ、集まっていただきありがとうございます」
7月26日、森保一が日本代表の監督に就任することが発表された。新指揮官の第一声はその場に集まった記者たちへの感謝からだった。それがいかにも森保一らしかった。
2020年に開催される東京五輪の代表監督との兼任。2002年日韓ワールドカップを率いたフィリップ・トルシエ以来のことで、日本人としては初となる。
無数のフラッシュがたかれる中、森保監督は「ふたつの代表を指揮するのは本当に困難なこと」と話したが、真っすぐに正面を見つめる堂々とした姿には確固たる決意がうかがえた。
所信表明では、「世代交代」と「年代間の融合」に加え、「日本人らしいサッカー」と「日本人の良さを生かしたサッカー」の継承も強く打ち出した。
そう覚悟を語る一方で、日本代表を支援するスポンサーの企業名を間違えないよう、丁寧に読み上げる姿は、これまた森保監督らしかった。
思い起こせば、2012年にサンフレッチェ広島を率いてJ1初優勝を決めたときもそうだった。寒空の中で行った優勝スピーチでも、リーグスポンサーまで含めた正式名称で大会名を叫び、その場にいた3万人のサポーターと関係者を笑いに包んだ。
A代表の監督に就任してもなお、変わることのない感謝の心と謙虚な姿勢——やっぱり森保一とは配慮の人であり、気遣いの人なのである。
森保監督に初めて会ったのは、彼がまだベガルタ仙台の選手としてプレーしていた2003年だった。当時、駆け出しの編集者だった自分は、その年で現役引退を決意していた森保監督の自伝を担当することになったのだ。
「よろしくお願いします」
そう言って手を差し伸べてくる。打ち合わせで初めて会った森保監督は、明らかに年下の自分に対しても謙虚だった。
それ以上に驚いたのは、桁外れな集中力と精神力だった。今でも画期的かつ無謀だったと思っているが、書籍には初版限定で森保監督の直筆サイン入り写真を添付することになった。初版だけとはいえ、その数は1万枚弱。かなりの作業になる。そのためオフを利用して仙台から東京まで足を運んでもらうと、会議室にこもってサインを書いてもらうことになった。
朝からサインを書きはじめてもらったが、森保監督は全くと言っていいほど休憩を取らない。見かねたこちらが、さすがに声を掛けた。
「そろそろ休みますか?」
だが、森保監督は「大丈夫」と言って首を横に振る。そして夜まで、ひたすらサインを書き続けたのだ。
さらにびっくりしたのは、時間も遅くなり引き上げようとしたときだ。
「ホテルの部屋に写真を持って帰ってもいいかな?」
そう言うと、森保監督は数百枚に及ぶ写真の束をホテルへ持って帰ったのだ。すると翌朝には全てにサインを入れて再び現れる。その後もサインを書き続けると、短期間で全ての作業を終えて仙台へと帰っていった。
ただひたすらに、写真にサインを書くだけの単純作業だ。確かに難しいことではないかもしれないが、それが数千枚、数時間にも及べば、飽きもするし、集中力も欠けてくる。だが、森保監督はそうした態度を一切見せることもなければ、見ていないところでも続ける芯の強さがあった。
まさに青二才だった当時の自分は、日本代表としてあのドーハの悲劇を経験し、Jリーグで400試合以上の場数を踏んできた人の精神力を目の当たりにしたのだった。
そんな森保監督が秀でているのが対話である。サンフレッチェ広島を率いていたとき、練習場に赴けば、選手にとことん寄り添っている森保監督の姿が目に飛び込んで来た。
2012年から17年途中まで率いたサンフレッチェ広島ではJ1で3度のリーグ優勝を成し遂げている。その要因としてミハイロ・ペトロヴィッチ前監督から引き継いだ3-4-2-1システムのブラッシュアップや守備の構築が挙げられているが、実のところ選手とのコミュニケーションにあったと思っている。
広島で生まれ育ち、サンフレッチェ広島一筋で現役を終えた森﨑浩司(現・サンフレッチェ広島アンバサダー)が、度重なるオーバートレーニング症候群でチームを離脱したときもそうだった。
森﨑浩司を襲ったその症状は時に重く、試合はおろか練習にも参加することができなければ、日常生活すら困難な状況に陥った。そんな森﨑浩司に対しても森保監督は、真摯(しんし)に、それでいて根気強く接していた。
「何かあれば、いつでも言ってきてくれていいからね」
森﨑浩司がルーキーだったときには、大先輩として森保監督と一緒にプレーしたこともある。そうした付き合いの長さもあっただろう。だから、森﨑浩司は思い切ってお願いした。
プロの監督であり、ましてや日本で最高峰とされるJ1の指揮官が、1人の選手にそこまでする義理はない。だが、森保監督は即答した。
「いくらでも付き合うよ」
その言葉に勇気をもらった森﨑浩司は、誰もいない早朝のグラウンドで、森保監督と一緒に走った。それも1日や2日ではない。何日も何日も……。
時には行くのをやめようと思ったときもあったというが、森保監督が待ってくれていると思うから自然と足が向いた。
「本当に森保さんには監督としてだけではなく、人として救われました」
森保監督は、その後も森﨑浩司が悩んでいれば、全体練習が終わった芝生の上で1時間でも2時間でも話を聞いた。チームを束ねる指揮官としては、他にやらなければならないことはいくらでもあっただろう。だが、自分の時間を犠牲にしてまでも、1人の選手に寄り添い続けたのである。
これは森﨑浩司だけに限った話ではない。おそらく当時のサンフレッチェ広島の選手たちは1度や2度は、森保監督と芝生の上に座り、長時間語らった経験があるはずだ。
こうした話を聞くと、森保監督がただの“いい人”に聞こえてしまいそうだが、緻密なコミュニケーションは、計算し尽くされているように感じる。
森保監督がサンフレッチェ広島を率いていた当時、エースとしてチームに君臨していた佐藤寿人(現・名古屋グランパス)に対してもそうだった。
ある日、やはり練習が終わったグラウンドで、森保監督は思いついたかのように佐藤に声を掛けた。
「そういえば、福田(正博)さんはキャリアを重ねて、途中交代する機会が多くなったらしいんだけど、そうすることでコンディションを維持できるようになって、逆に試合では常にいいパフォーマンスが保(たも)てるようになったらしいよ」
それがあまりに自然だったからか、佐藤は思わず耳を傾けていた。そうして森保監督はさらに話を続けた。
「選手だから90分出場したい気持ちも分かるけれど、年齢やコンディションを考えたら、そういう方法もありだと思う」
偉大なストライカーの大先輩の例を聞いた佐藤は、そうして途中交代を受け入れた。
「なるほどなと思いましたよね」
結果、佐藤はゴールを量産し、代わって出場するようになった浅野拓磨(現・ハノーファー96)の成長にもつながった。
ひいてはそれが3度目のJ1優勝の要因にもなった。2015年、Jリーグチャンピオンシップ決勝を戦ったガンバ大阪の長谷川健太監督(現・FC東京)も脱帽していたが、後半15分を過ぎれば、どんなに佐藤の調子が良くとも、すぱっと浅野と交代させる。そこには森保監督の組織の和を乱さぬ配慮と、芯の強さが垣間見られた。
サンフレッチェ広島を率いた際に採用していた3-4-2-1システムと、そのベースとなった堅守は、東京五輪に出場するU−23日本代表でも用いられていることから、A代表でも採用される可能性はある。だが、森保監督は決してそのシステムであり、戦術に固執しているわけではないだろう。
そもそも2012年にサンフレッチェ広島の監督に就任したとき、チームは強豪ではなかったし、世間からは優勝争いをするとも思われていなかった。だからこそ、森保監督は選手たちにこう告げていた。
「まずは残留ラインの勝ち点40を目指そう。その後は、その目標を達成してからだ」
3-4-2-1システムを採用したのは、森保監督自身がそれに可能性を感じていたこともあるが、その戦術に、システムに慣れ親しんだ選手たちが多かったことが大きい。改革よりも継続していくことが最善だと判断した結果だった。そこには森保監督のリアリストとしての一面がうかがえる。かつてインタビューをしたときも、こんなことを語っていた。
「理想はありますけど、僕は現実主義者なので、いつも自分のいる立ち位置から前に進むことしか考えていない。良いときは誰でも前に進めますが、状況が悪くなったときこそ、それを乗り越えられるか。だから、常に冷静に状況を受け止め、原因を追及して、改善していく」
それは指揮官としての哲学でもあるから、日本代表の監督となったこれからも変わらないであろう。その一方で、サンフレッチェ広島時代にはこんなことも言っていた。
「監督は結果が伴わなければ、自分のポストが危うくなる。それだけに、まずは目の前のことが一番大切になりますよね。でも、今だけを見ていたら、チームとしては成長していかない。だから、『目の前のこと』と『将来のこと』。そのバランスが大事になる。本来、プロとは育てるのではなく、自然とはい上がってくるものだとは思いますけど、日本ではまだまだプロの世界にも育成という要素が含まれていると思います」
繰り返すが、これはサンフレッチェ広島を指揮していたときのコメントだ。だからこそ、彼は浅野拓磨を起用したし、水戸ホーリーホックから獲得した塩谷司を先発に抜てきした。そうした選手の育成にも力を注いできたから、毎年のように主力を引き抜かれながらもJ1で3度の優勝を達成できたのだ。
目の前の結果にこだわりつつ、未来を見据える——まさに世代交代であり、世代間の融合を図っていくこれからの日本代表で挑んでいくテーマである。
現役引退後は、本人も就任会見で語ったように、サンフレッチェ広島の巡回コーチをしながら、日本サッカー協会のトレセンコーチとして日本のグラスルーツを見て回った。時には、ひとりで国際大会の視察に赴いたこともある。
「電車の乗り継ぎを調べるのが大変で」
そう言って笑っていた。
コーチとして対戦相手の分析を担当したこともあれば、若手選手の指導を担ったこともある。
「寝る時間が全然ないくらいだよ」
それでも森保監督はいつもと変わらず、ひょうひょうとしていて自然体だった。まさにピラミッドの底辺から頂点まで、あらゆるカテゴリーであり、役割を担ってきた苦労人でもある。
それでいて2017年途中にサンフレッチェ広島の監督をやめ、五輪監督に就任するまでは、ヨーロッパ各地を回り、新たな刺激と、最先端のサッカーを吸収した。探求心と勤勉さは尽きることがない。だからこそ、日本代表においても、そのときでベストなシステム、ベストな戦術を用いつつ、先を見据えた布石も打っていくことだろう。
コーチとして参加したロシアワールドカップでは、悔しさを味わうとともに「ヨーロッパでプレーする選手たちの自己主張の強さや、思ったことをはっきり言うこれまでの日本人にはない意志の強さを学んだ」と、興奮気味に話してくれた。
そうした個性の強い集団をも、持ち前の謙虚さでまとめあげていくことだろう。
あれはいつだっただろうか。森保監督がサンフレッチェ広島を率いていたときのアウェーゲームだった。試合後、観客もいなくなったがらんとしたスタジアムで、ひとりピッチを見つめている指揮官の姿を見つけた。
「何をしているんですか」
「このスタジアムにはもう来年まで来られないかもしれないでしょ。だから、ピッチに感謝のあいさつをしてるんだよ」
聞けば、どのスタジアムに行ったときも必ず試合後には行っているという。
A代表と五輪代表——本人も語るように、ふたつの代表チームを同時に率いていくのは、困難なミッションである。だが、選手として監督として、日本サッカーの発展を体感してきた彼ならばきっとやってのけるだろう。なぜなら、ピッチに感謝を忘れない指揮官は、きっとサッカーの神様に愛されている——試合後、ピッチを見つめる森保の後ろ姿に、そう思っていた。
(取材・文=原田大輔、撮影=松本洸)