プロレスラー齋藤彰俊にとって、それは経験のない感触だった。
バックドロップは、相手を担ぎ上げる瞬間、初動で一番パワーを使う。
勢いがついてしまえば、あとは最高点から角度をつけて落とすだけ。
そのはずが、最高点の手前で、相手の体がわずかにグッと重くなった。
一瞬のことだが、その感触は今もはっきりと思い出せる。
ただ、それでフォームが乱れたわけではない。練習から、何千回と繰り返してきた技だ。いつものように決めた。
まだ立ってくる。相手はプロレス界でも最高の「受け」の達人だ。
そう確信して、身をひるがえしたところで、異変に気付いた。
三沢光晴さんは、立ってこなかった。身動きひとつとらなかった。
普通ならフォールなどにいく齋藤の動きに先んじて、レフェリーが慌てて駆け寄る。
「試合を止めろ」と小さく告げたのを最後に、三沢さんは呼び掛けに反応すらしなくなった。
2009年6月13日、広島県立総合体育館。熱戦に沸いていた会場が、シンと静まり返った。
初めて感じた「受け」の脅威
「三沢さんがいらっしゃったから、僕はノアに入ったんです」
2019年5月。あの試合からまもなく10年がたつ。
愛知巡業の合間に、齋藤は三沢さんとの縁について語ってくれた。
プロレスの世界に入る前から、齋藤は生粋のアスリートだった。
水泳では小学校時代にジュニア五輪で優勝。大学時代には日本選手権で優勝し、五輪の強化選手にも指定された。
それと並行し、極真空手にも取り組んでいた。社会人をへて、格闘家に転向。1992年に試合に乱入したのを皮切りに、新日本プロレスに飛び込んだ。
アスリートの素地を生かし、打撃中心のファイトスタイルで高く評価された。
だがせっかくなら、日本のプロレスを引っ張ってきたもうひとつのメジャー団体、全日本プロレスのスタイルも体感したい。新日本退団、活動休止をへて、齋藤はラジオ番組終わりの三沢さんを「出待ち」した。
三沢さんは2000年に全日本プロレスを退団し、プロレスリング・ノアを立ち上げていた。
齋藤はノアへの加入を許された。そのリングで、初めての「体験」をすることになった。
「攻撃される以外のことで恐怖みたいなものを感じさせられたのは、三沢さんが初めてでした。あの人は受け身の天才。どんな技を仕掛けても、正面から受け切った上で、立ってくるんです」
「お客さんからすれば、僕の攻撃が目立って、僕の持ち味が光っているように見えるかもしれません。でも戦っている側からすれば、自分の技が急に威力を失ったように感じるというか。無力感、さらには恐怖を覚えるんです」
恐怖を吹っ切るように、対戦相手はいつも以上に懸命に技を仕掛ける。
三沢さんはそれらをすべて受け切る。そうやって、三沢さんがかかわる試合は選手個々の持ち味がフルに出る好勝負となり、常に観客を熱狂させた。
齋藤の攻めのスタイルも、以前よりもはるかに輝くことになった。
自分たちの攻防で、大会場が地鳴りのような歓声に包まれる。これがプロレス。これこそがプロレス。かつてない充実感だった。
「三沢さんがいたから、僕はプロレスを続けることができた。三沢さんがいなければ、今の僕はない。ずっとそう思ってやってきました」
覚悟と、現実と
バックドロップは急角度ではあったが、危険なものには見えなかった。
だが、三沢さんの反応が普段と違うことに、金丸義信はすぐに気付いた。思わずリングに駆け寄る。
レフェリーが試合を止めた。リングサイドで見ていた医者を、急いでリングに上げる。
やがて心臓マッサージが始まった。
金丸もリングに上がった。三沢さんの顔色は、真っ青だった。
AEDを使用することになった。汗を拭きとらなければならない。金丸も、他のレスラーも一斉に着ていたTシャツを脱いだ。必死に三沢さんの身体をぬぐう。
やがて、救急隊が到着した。担架が設置され、三沢さんは搬送されていった。
時に危険を伴う。覚悟を決めてプロレスの世界に飛び込んだつもりだった。それでも金丸は、現実を受け入れられずに、その場に立ち尽くしていた。
踏襲よりも「自分の色を」
三沢さんの「代役」から、金丸のプロレス人生が始まった。
山梨学院大付高(現・山梨学院高)で春の甲子園に出場したが、その際の選手名鑑にはすでに「将来の夢=プロレスラー」とつづっていた。
卒業後、全日本プロレスに入門。
甲子園球児ならではの高い身体能力を見込まれ、デビュー直後から意外な大役を任された。
1997年。梶原一騎さんの没後10年追悼興行で、初代から4代目までタイガーマスクがそろい踏みする試合を行うことになった。
だが、元・2代目タイガーマスクの三沢さんだけが、スケジュールの関係でどうしても出場できなかった。
当時の全日本プロレス社長、ジャイアント馬場さんから「お前がやれ」と指名を受けたのは、金丸だった。
「びっくりしましたよ。だって、スーパースターですからね。自分でいいのかなと」
戸惑う金丸に、アドバイスが届いた。三沢さんが電話をしてきた。
「頑張れよ。自分のカラーでやっちゃっていいから」
いやいや、そうは言っても―。やはり三沢さんのスタイルを踏襲しないといけない。
そう思っていたが、試合のリングに上がって、三沢さんの言葉の意味が分かった。
史上初、4人のタイガーそろい踏み。観衆は熱狂していた。
三沢さんはこういう期待を常に受けているんだな―。そう思った。
そして気付いた。歴代タイガーの個性が強いこともある。まねをしてごまかせるような舞台ではない。
思い切って、自分のカラーで戦った。会場を沸かせた。試合後、各方面から「よかったよ」と言葉を掛けられた。
ファンを喜ばせるには、自分のカラーをしっかり打ち出す必要がある。期せずして、三沢さんから教わった。
金丸はそこから、個性も持ち合わせた技巧派レスラーとして、地位を固めていく。
祈りを込め、踏んだアクセル
「三沢さんが、亡くなりました」
携帯電話用のヘッドセットが伝える声が、やけに無機質に聞こえた。
2009年6月13日、午後11時ごろ。
丸藤正道は知らせを受け、東名道のパーキングエリアに自家用車を止めた。
自宅を出てから2時間ほど、アクセルを踏み続けただろうか。
自分がいる場所もよくわからなかったが、静岡県内には達しているようだった。
膝のじん帯を断裂する大けがで、戦線を離脱していた。
自宅で休んでいたときに、信じられないニュースをネットで目にした。
「三沢、試合中の事故で搬送」
巡業に同行しているスタッフに片っ端から電話をしたが、つながらない。
新幹線の終電には間に合わなかったが、いてもたってもいられない。乗用車で自宅を飛び出した。
頼みます。無事でいてください。祈りを込めて、クルマを飛ばした。しかしほどなく、訃報は届いた。
夜空を眺めた。涙は出なかった。あまりにも現実味がなかった。
いったん自宅に戻り、翌朝の新幹線で広島に向かった。病院で遺体に対面し、ようやく実感が湧いた。
涙はこらえた。自分以上にショックを受けているであろう、三沢夫人の前では泣けなかった。
部屋を出た瞬間、膝から崩れ落ちた。おえつが止まらなかった。
つるつるとしたリノリウムの床に、ポタポタと涙が落ちた。
プロとして譲れない「一線」
三沢さんに目をかけられて、プロレス界に入った。
中学生の頃にはすでに「プロレスラーになる」と決めていた。高校3年の冬休みには、全日本プロレスの入門試験を受けた。
事前に書籍を読みあさって情報を集めた。体力試験と面接。その準備はしていた。
「でも、実際には全然違う方式のテストを課されたんです。合宿所で1週間、練習生と同じように暮らせたら合格、って」
実は三沢さんの計らいだった。テストに合格して入門するとすぐに、三沢さんの付き人になることも決まった。入門後5カ月という、異例の早さでデビューも許された。
「テスト合格から、高校を卒業して入門するまでの3カ月間、僕はひとりで合宿所で見た選手のトレーニングをずっと続けていました。スクワットは毎日500回、とか。プロでやるならこれくらい必要、と合宿所生活で感じることができましたから。だからすんなりデビューできたのかなと」
三沢さんは丸藤に、技術的な指導などを行うことはなかった。
食事に連れて行ったりなど、プライベートでもかわいがってくれたが、プロレスに関する話になったことはほぼないという。
「でも、プロレスラーとはどうあるべきか、というのは背中で教えてくれていた気がします」
まだ丸藤がデビューしていなかった頃、三沢さんがファンから写真撮影を求められたことがあった。
そのファンは丸藤にカメラを渡して、ツーショットの撮影を促した。すると温厚で、ファンを誰よりも大事にする三沢さんが珍しく、声を荒らげた。
「こいつはプロレスラーです。カメラマンじゃない」
そう言って丸藤からカメラを取り上げると、他のスタッフを探して撮影させた。
強く言いすぎて申し訳ない。そう言ってファンにわびる三沢さんの姿が、忘れられない。
「最後の一線というか、プロとして曲げちゃいけないところがあるというのは、三沢さんから教わりました。だから三沢さんたち偉大なプロレスラーには、威厳、品格みたいなものがあったんだと思います」
「とても気さくで、時には友人のように接してくださった三沢さんでしたが、僕にとっては最後まで、どこかしら映画の世界の登場人物というか、別世界のヒーローのような印象がありました。プロとしての誇りを大事にしていたからこそ、作り上げられていたイメージがあったのかなと」
亡き恩師の部屋に残る"面影"
丸藤らに電話で「訃報」を伝えていたのは、試合で三沢のセコンドを務めていた鈴木鼓太郎だった。
「バックドロップが決まった瞬間、やばいと思った。ピクリとも動かなかったので。ただ、セコンドがリングに入ったら、試合は不成立になる。すぐにレフェリーが試合を止めてくれましたが、その数秒すらすごく長く感じました」
試合終了を確認すると、すぐにリングに飛び込んだ。状況を確認し、救急隊を案内した。
三沢さんが搬送されていった後も、会場に残った。本人と特に親しかった人々に状況を説明し、病院までタクシーで案内した。
亡くなったことが確認された後も、鈴木は動き続けた。
三沢さんが安置された病院の廊下で、丸藤ら遠征帯同外の選手、関係者一人一人に訃報を伝えた。最後に、当時の三沢さんの付き人に電話をした。
一通り、役目を果たしたということもあった。
相手が電話先で泣き崩れるのを聞いて、ようやくタガが外れた。暗い廊下に、おえつが響き渡った。
涙が枯れ果てると、ホテルへと向かった。休息をとるためではない。
三沢さんが宿泊していた部屋を片付けるためだった。最後まで、身の回りの世話を果たそうと思った。
「妙によく覚えているのは、部屋にあったゲームボーイアドバンスに『スーパーロボット大戦』が入っていたことです。あの人は漫画とかゲームとかが本当に好きでね」
「ゲーム機を片付けながら、亡くなる2日前も一緒にカラオケに行ったなとか、そんなことばかりが思い出されてきました」
プロとしての励み。師匠の言葉
小さい頃からずっと、三沢光晴が「憧れ」だった。
プロレスのテレビゲームでも、必ず三沢さんをモデルにしたキャラを使った。
中学生の頃には、三沢さんが扮していた2代目タイガーマスクの技を次々とコピーしていった。誕生日も三沢さんと同じ。縁を感じていた。
大学卒業後、三沢さんが立ち上げたノアの入門テストに合格し、1期生として加入。
すると三沢さんから直々に「鼓太郎」というリングネームを授けられた。付き人も任せられた。
「三沢さんはそんなに技術指導とかはしてくださらないのですが、試合のことはよく見てくださっていました。勝ち負けとは別なところで、内容を褒めてくれたり」
札幌で行われたタッグ王者戦で、試合序盤にパートナーのリッキー・マルビンが負傷してしまったことがあった。
それでも鈴木は孤軍奮闘し、互角の勝負を演じた。
負けてベルトを失ったが、試合後には三沢さんから、すすきのの寿司屋に誘われた。
負傷者が出て、観客を失望させかねない展開で、逆に試合を盛り上げた。そのことをたたえられた。
「ああやって褒められるのが、何よりの励みでした。それはやっぱり、三沢さんは別格のレスラーだったからだと思います。同じプロになって、余計に感じました」
覚悟を後押しした"天国からの手紙"
「命を絶つことすら、考えました」
愛知県内の試合会場。
開場前のリングで練習生が汗を流す姿を眺めながら、齋藤は10年前を振り返る。
事故の夜。齋藤は夜通し、亡き三沢さんが安置された部屋にいた。
確か48時間くらいは、息を吹き返す可能性がある―。どこかで聞いた知識にすがって、ただただ祈っていた。
朝になった。
ホテルに戻るために病院を出ると、売店にスポーツ紙が山積みになっているのを見た。
三沢、死す。大きな見出しが、齋藤に現実を突きつけた。
大変なことをしてしまった。あらためて自らを責め、苛んだ。
プロレスは続けられない。それどころか、この世に身の置き所もない。そう思った。
だが、自分が命を絶てば、ファンは怒りの矛先を失うだろう。
皆の前から消えるのではなく、すべてを受け止めるべきではないだろうか。
ホテルまでの数十分で、今後の人生を決めなくてはいけなかった。
結論は期せずして、三沢さんの「受け」の姿勢に重なった。
一睡もせずに迎えた、翌日のプロレスリング・ノア博多大会。
齋藤はリングに上がると、三沢さんの遺影に向かって涙ながらに土下座をした。何があってもプロレスを続ける。そう決意した。
とはいえ「受け」切るのは、並大抵のことではなかった。
「不幸な事故」と同情する声もある一方、ネットでは容赦のないバッシングの声が飛び交った。
三沢さんには「頸椎離断」の診断が下されていた。
のちに分かったことだが、その箇所にはねじり切られたような離断が起きていた。バックドロップ一発の衝撃が原因とは考えにくいとされた。
それにも関わらず、何人かの"同業者"から「あれは意図的に相手を傷つけにいっていた」との指摘が挙がった。
世間からすれば専門家の声だ。信ぴょう性があるものとして広まってしまった。
逆風にさらされながらも、何とか自分の決断を貫こうとした。
そんな齋藤の背中を押したのは、一通の手紙だった。つづられたメッセージはなんと、亡くなった三沢さんからのものだった。
「その手紙のおかげで、僕はプロレスを続けることができました。10年たった今も、巡業用のバッグの中にいつも入れています。あまり人に見せたことはないのですが、今回は節目でもありますし…控室から取ってきます。ちょっと待っていてください」
三沢さんが遺したものは、俺が守る
齋藤が土下座をしたリングを、丸藤は外から見ていた。
その大会前、選手たちが集まり、今後について話し合っていた。
「三沢さんなら、興行の中止は望まないはずだ」
話し合いの席が設けられ、皆が「三沢さんのために」と一丸になっていた。
丸藤も思いは同じだったが、疎外感も感じていた。自分は膝のけがで、こんな時に試合ができない。
悔しさを胸に、弔いの大会をリングの外から見届けた。
早くリングに戻らなければ。気ばかりが急いたが、回復はなかなか進まなかった。
ひとりでリハビリをしながら、三沢さんのことを思い出した。
「唯一無二のレスラーだったんですよ。ヘビー級の体で、ジュニアヘビー級の動きについていけていたのは、三沢さんくらいのものでしたから。天才だった。本当にすごかった」
「でもその動きに、明らかに陰りが出ていた。2006年に三沢さんにヘビー級のベルトを取られた後、リベンジマッチをしたことがあった。その間半年くらいで、信じられないくらい動きが重くなっていた」
それでも試合に出続ける理由も、よくわかった。
「全国のファンがみんな、三沢光晴を待っていましたから。経営状態を考えても、三沢さんが自らお客さんを呼び込む必要もあった。そして責任感は人一倍強い方でしたから」
「だからもう、僕らが試合内容で三沢さんを圧倒するしかないと思っていました。そうじゃないと、安心して一線を退くことはできないと」
そう思い、同じジュニアへビー級のKENTAらと、ヘビー級に交じって好勝負を重ねた。
身体の大きさは関係ない。ヘビーの体重で、ジュニアの動きを上回った三沢さんが教えてくれたことでもあった。
丸藤らの思いは、三沢さんにも伝わっていたはずだ。現に、近しい周囲には一線を退く意向を口にするようになっていた。
だが、間に合わなかった。じくじたる思いの中で、丸藤は決意していた。
「俺は一生、ノアでプロレスをする。三沢さんが遺したものは、俺が守る」
「プロレスを続けてほしい」
「重荷を背負わせてしまってスマン」
手紙には、そうつづられていた。
事故の2年前、三沢さんは親しい友人に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」とメッセージを託していた。
――きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う。
――それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない。
託されたメッセージが書かれた便箋には、水がにじんだような跡が、無数についていた。
試合後の汗だろうか。それとも、涙だろうか。齋藤は無言で、紙をめくる。
――それでも、お前にはプロレスを続けてほしい。
――つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい。
「三沢さんは、最後の対戦相手が自分のような苦しみに苛まれることを予見して、メッセージを残してくれていたんです。その思いには、応えないといけない。奮い立たされました」
事故からちょうど3カ月後の、2009年9月13日。
森嶋猛とのシングル戦に臨んだ齋藤は、天を仰ぐようにしてから、あの日以来封印していたあのバックドロップを決めた。
「前に進まなければならない。三沢さんのためにも。そう思いました」
封印を解いたが、大事な試合でしか使わない。
そんなバックドロップを放つたび、今も複雑な心境にはなる。
「やっぱり、あの時のことがよぎります。だから、決めた相手には『早く立ってきてくれ』と思ってしまう。一方で、三沢さんが立てなかった技だから、誰もが簡単に立ててはいけない気もする。すぐに立ってほしいし、すぐに立たないでほしい。どちらも本当の気持ちです」
目に焼き付く「受け」へのこだわり
三沢さんが亡くなる直前、鈴木鼓太郎はヒールユニットに参加していた。
勝つために、時に手段を選ばないファイトスタイルだった。
それが事故を機に一変した。
三沢さんのプロレスを受け継ぐ―。そう心に決めた。
「三沢さんが大事にしていたこと、そして誰よりもすごかったところはやはり、試合の中での『受け』だったと思います。相手の技から逃げない。正面から受ける。胸を出す。手で受けない。最後まで一貫されていました」
三沢さんの「すごさ」を示す試合として今も思い出すのは、2003年に日本武道館で行われた、三沢さんと小橋建太とのタイトル戦。
2人は脳天から落とすような危険な技を繰り出しあった。そして三沢さんは、花道からコンクリート床の場外に向けて落下する形で、必殺のタイガースープレックスを放った。
受けた小橋だけでなく、三沢さんも地面に強くたたきつけられた。テレビの実況は思わず「死んでしまう!」と絶叫した。
同業者だけに、場外に落下する際の衝撃は、身に染みて分かっている。ここまでやるのか―。鈴木は胸を打たれるのと同時に、心配にすらなった。
ただ、とにかくファンの心は揺さぶった。
地鳴りのような足踏みが武道館を包み、興奮した多くの観衆が、試合終了の瞬間にリングサイドになだれ込んだ。のちにプロレス大賞・年間最高試合として表彰もされた。
身の危険を顧みない試合を続けたことが、三沢さんの命を縮めたという見方もある。
ただそれでも、鈴木は三沢さんが大事にしていたものには、価値があると信じたかった。
三沢さんの戦いに魅せられた者の一人として、三沢さんのスタイルを受け継いでいきたかった。
「あれから、ずっとそう思っています。今のノアは、三沢さんと関わった人もだいぶ少なくなったから『これが三沢さんのやり方だったから』みたいなのを押し付けるつもりは全然ないんですけどね」
「一緒にいた人だけが、それぞれに感じていればいい。そう思います。僕は三沢さんが大事にしていたものを、少しでも受け継ぎ、形にしていきたい」
プロレスなら、どこにも負けない
2009年12月。丸藤は青木篤志さん(2019年6月に交通事故で逝去)とのシングル戦で、ついに戦線復帰を果たした。
三沢さんとの対戦で切り札にしようと温めていた「タイガー・フロウジョン」を繰り出し、勝利を収めた。
それは三沢さんの必殺技である「タイガー・ドライバー」と「エメラルド・フロウジョン」を掛け合わせたオリジナル技だった。
「俺は三沢さんに憧れてプロレスラーになりましたが、三沢さんになりたいわけじゃない。なれるものでもないし、まねをしていたら三沢さんを超えることはできない」
そこには三沢さんを安心させられなかったという悔い、反省がある。
だから恩師のものといえど、技をそのまま受け継ぐことはしなかった。少しでも自分なりの解釈、アレンジを加えたかった。
三沢さんを失ったノアは、苦しい歴史を歩み続けている。
経営悪化。主力の大量離脱。それでも丸藤は、ノアを背負って立ち続けている。2016年には新日本プロレスのエース、オカダ・カズチカとの一戦でプロレス大賞・年間最高試合の表彰も受けた。
「プロフェッショナルレスリングという部分では、どこにも負けないという自負はあって。ただそれが、世の中に伝わりにくくなってきた。オカダ・カズチカ戦はとにかく、他団体に出て行ってでもそれを証明したかっただけ。そうすることで、後輩たちに自信を持たせたかった」
2000年代初頭を思い出す。総合格闘技が猛威を振るっていたが、それでも三沢さんとノアは「純プロレス」で大会場を埋め、ファンを沸かせ続けた。
あの大きな背中を見て、プロレスの力を信じることができた。
「大事なのは、みんなが自信を持てること。俺ひとりがやれるだけでは、ノアのためにはならないから。俺はノアを守り続けます」
「そして三沢さんが持っていたような、プロレスラーの威厳、品格みたいなものを取り戻したい。他競技のプロからも憧れられるようなプロ、そんな地位にここを戻したいんです」
カラーが違う団体で輝く「エッセンス」
2019年、金丸は新日本プロレスのリングで戦っている。
多士済々の人気団体にあっても、スピードを武器にしたレスラーとして存在感を示す。
「若い頃に比べれば、身体能力は落ちてますけどね。でもプロレスはそれだけじゃない。緩急の付け方、テンポの作り方、そして頭の使い方でスピードはつくれます」
不敵に笑う。自分のカラーの大事さは、三沢さんの代役を務めた際に教わったものだ。
そして今も、恩師の背中の大きさを思う。
「俺も2003年の三沢さんと小橋さんの試合は忘れられないです。緩急、テンポ、知性だけじゃない。いろんな要素が詰め込まれた戦いだから、30分以上もファンを熱狂させ続けられた」
自分のカラー、プラス引き出しの多さ。
それらがそろって初めて、たくさんのファンをいつも喜ばせ続けられる。
「そういうレスラーが、自分の理想です。その意味で、ノアで身につけた技術は今も生きている。カラーが違う新日本で、ノアのエッセンスを取り入れて戦うと、すごく際立つ」
「今もやれているのは、三沢さんの下でやっていた経験があるからこそです」
手紙を胸に追う、人生の「意義」
まもなくデビューから30年。不世出のレスラーの最後の対戦相手になるという、凄絶な経験もした。
それでも齋藤彰俊は、今もリングに上がり続ける。昨年はタッグ王座のタイトルも獲得した。
「それはやっぱり、あの事故があったからだと思います」
三沢さんが遺したメッセージは「お前が俺の最後の対戦相手になった『意味』みたいなものは、自分で考えていってほしい」と締めくくられていた。
「それをずっと探し続けながらやってきました。そして最近、1つの答えにたどり着いた。僕は僕と同じような苦しみを味わっている人たちのために、もう一度立ち上がって頑張る姿を見せていきたい」
不運にも、不可抗力で事故の"加害者"になってしまう人は少なくない。
結果として、責められるいわれもないのに、ネット上で「リンチ」を受ける人も多い。
ネットの世の中では、そうした風評は消し難い。再起の大きな障害になる。
齋藤もそうだった。そんな教え子に、三沢さんは亡くなってなお、「手紙」という形で道を示してくれた。
相手の攻撃を正面から受ける。何度倒れても立ち上がる。
そんな三沢さんの姿が思い浮かぶ。あの人も、誰かを励ましたいと思って戦っていたのだろうか。決然と、齋藤は言う。
「僕はこれからも受け続け、戦い続けます。それが三沢さんが示してくださった、自分の人生の『意義』ですから」
【取材・撮影・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)取材協力=プロレスリング・ノア、新日本プロレス】
三沢光晴
みさわ・みつはる。1962年6月18日、北海道生まれ。81年に全日本プロレスに入門。84年から「2代目タイガーマスク」として活躍。90年にマスクを脱いで「三沢光晴」に戻ると団体のエース格になり、小橋建太、川田利明、田上明と「プロレス四天王」と評された。99年に全日本プロレスの社長に就任も、2000年に退団し「プロレスリング・ノア」を立ち上げた。09年6月13日、広島での試合中に意識不明となり、搬送先の病院で死亡が確認された。46歳だった。没後10年を迎えるにあたり、2019年6月9日にプロレスリング・ノアによる大会「三沢光晴メモリアル」が東京・後楽園ホールで開催。超満員札止めとなる1700人超の観客が集まった。6月13日には、エディオンアリーナ大阪で大阪大会が開催される。