小さな街灯が照らす駐車場の入り口に、黒いSUVが滑り込む。
周囲は田園地帯。エンジンを切ると、虫の音が聞こえてくる。浦和レッズDF槙野智章は乗用車を降り、真夜中のクラブハウスへ向かった。
5月上旬。3時間前まで、チームはルヴァン杯を戦っていた。
フル出場した槙野は、疲労回復を図るべく、深夜のクラブハウスを交代浴のために訪れていた。
W杯開催に伴う中断期間がある影響で、その前後は過密日程。中3日ペースでの15連戦を強いられている。身体のケアは重要だ。
熱湯に3分つかり、冷水に3分つかる。これを3回繰り返す。
これをやるのとやらないのでは、疲労回復のスピードに格段の差がある。
「本当なら、もっと早い時刻に交代浴できるんですけどね。今回はドーピングチェックに当たってしまったので」
試合後、両チーム2人ずつが指名され、尿検査を受ける。その中でただ1人、槙野だけが90分間のプレーを全うしていた。汗で身体の水分は出てしまっている。すぐに採尿できるわけはない。
「だから採尿に2時間かかりました。水を3リットルも飲んだんですけどね」
それほど遅くなっても、交代浴だけは「また今度」とはしない。
「しっかり身体を冷まさないと、コンディションが落ちますから。今日しかできないことって、たくさんありますよね?」
しっかりとケアを済ませて帰宅。試合後、食事はドーピング検査室で済ませている。シャワーも浴びた。そのままベッドへ直行でも良いところだが、その足はリビングへと向かう。
「その日のうちに、必ず試合のVTRを見るようにしています。試合直後は冷静じゃないから、きちんと振り返れない。翌日になってしまうと感触が残ってない。だからシャワーを浴びて、食事を済ませた後が一番いい」
早送りなどはしない。むしろ、気になるシーンは巻き戻して、何度も見返す。試合内容の確認には、90分以上を要する。
就寝した時には、時計の針は午前3時を示していた。
もう少し眠っていたかったが、この日も予定はパンパンに詰まっていた。槙野はベッドを出ると、ダイニングへ向かう。
夫人で女優の高梨臨が、すでに朝食を準備してくれていた。
彼女も大河ドラマ「西郷どん」の収録で多忙だ。槙野が朝食にありつくのを見届けると、現場へと出発していった。
「朝、夜は作ってくれます。彼女も女優として大事な時期ですけど、それでも僕のことを全力でサポートしてくれています。知らないうちにアスリートフードマイスターの勉強をして、資格を取っていたり」
アスリートにとって、食事はまさに生命線だ。
バランスがとれた朝食をとり終えると「ごちそうさま。今日もありがとう」とつぶやき、出発の準備を始める。
この日の練習開始は午前11時。まだ早いが、槙野にはその前に大事な用事があった。
近所のカフェで待っていたのは、契約するアディダスのサポートスタッフ。すでに何足ものスパイクが、その場に広げられている。W杯出場に備えた、新モデルのフィッティングだった。
槙野はまずサッカー用のソックスをはく。
「細かいんですけど、試合と同じ状況ではかないとフィッティングにならない。試合用のソックスをはいて、足首をサポートするテープも巻いてみて、その上ではいて感触を確かめる」
そのため、とにかく時間がかかる。
「今回は3回目なので、まだ時間がかからなかったですけど、初回などは2時間以上かかります。持ち帰っていただいて、調整してもらってまたフィッティングです」
連戦中に限らず、試合翌日のチーム練習は、ランニング中心の軽めのメニューになる。
のんびりとした雰囲気になってしまいそうなところだが、槙野はいつものように、ハイテンションでピッチに登場する。
「大事な局面でも力を出せる人というのは、そこにピークを合わせているんじゃなく、いつも力を出せている人なんだと思います。自分で『今日は頑張る日』とか決めてしまうと、そういう人にはなれない。自分の座右の銘は『頑張る時はいつも今』。折に触れ、自分に言い聞かせるようにしています」
練習後、テレビ局の取材が入っていた。民放キー局が2局。地元局が1局。10分ずつの収録を、槙野は次々とこなしていく。
「危機感があるんですよ」
ポツリと言う。
「大会が迫ってきているのに、W杯への注目度がなかなか高まらない。テレビの街頭インタビューとか見ていると、W杯がどこで行われるかを知らないとか、そもそも今年W杯があることを知らないとかいう声がありますよね」
いつもの柔和な笑顔が、影を潜める。
「今までのW杯直前とは、明らかに状況が違う。そういう実情が分かっているのに、指をくわえて見ているわけにはいかない」
行きつけのそば屋ののれんをくぐる。
店内では、スーツ姿の一団が槙野を待ち受けていた。
銀行、住宅メーカー、税理士、不動産屋…。
10人以上が書類の束を手に、臨戦態勢にある。
注文を済ませると、槙野は"仕事"に取り掛かる。
担当者から説明を受けては、書類にはんこを押していく。
「連戦でいろいろな手続きが滞ってしまっていました。もう、みんなで食事しながらでも済ませるしかないねという話になったので、申し訳ないんですが来てもらいました」
時間はない。注文したそばが配膳されると、槙野はそれをすすりながら作業を続けた。
乗用車で40分。槙野は打ち合わせと撮影のため、新宿のLINE本社オフィスを訪れた。
スタジオでカメラマンの求めに応じてポーズを取りながら「LINE NEWSって今、どれくらいユーザー数いるんですか?」などと、立て続けに質問をする。
アスリートの中でも、飛び抜けてネットの活用に積極的だ。炎上のリスクはある。批判を受けることも少なくない。それでもSNSを使った発信を続ける。
「リスクとか、周りの意見とかは、あまり気にしないようにしています。気にしていると発信できない。SNSの良さは自分の考えを率直に、ダイレクトに発信できるところにあると思うので」
スタジオからミーティングルームに移動する間も、SNSに投稿をする。
「捉えられ方はいろいろある。タイミングも大事。そこさえ気にしておけば、とてもいいツールになる。何より、SNSに助けられることはたくさんある。炎上、批判以上に、助けられることの方が多いんです」
スマホを操作する手を止め、語気を強める。
「こっちがダイレクトに発信できるのと同様に、ダイレクトに応援の声が届く。もちろん、批判の声もダイレクトに届きますが、それも含めて力になる。見てくれている人がいるおかげで、頑張れる自分がいる。プロの世界ですから」
画面が暗転したのにも気付かない様子で、槙野は語り続ける。
「SNSは槙野智章名義でやっていますけど、僕の投稿を見れば浦和の他の選手も見られるし、芸人さんも見られるし、代表選手も見られる。動画にせよ、写真にせよ、自分どうこうよりも、みんながハッピーになれると思うものを発信したいというのがテーマです」
都内に足を延ばしたのは、ここでのトレーニングが主な目的だった。
この施設は、高地トレーニングと同様の効果を狙い、室内の酸素濃度を下げている。
他にもサッカー選手が何人かいたが、皆ランニングマシンのスピードを落とし、ゆっくりとしたペースで走っている。それを横目に、槙野は全力でのスプリントを繰り返す「インターバル走」を始める。
低地であっても苦しいメニュー。それを標高3200メートルの設定で、猛然と続ける。
「最初は他の選手と同じように、部屋にいるだけでも苦しかった。でも1年も続けているので、今はゆっくり歩いている選手よりも、スピード出して走っている俺の方が血中酸素濃度の数値がいい。だからインターバル走くらい負荷をかけないと、もはや意味がない」
それにしても、連戦の合間にかけるべき負荷ではないようにも思える。
「それはやっぱり、代表で海外組の話を聞いて、意識が変わったからですかね。みんなどんなに連戦だろうが、必ずトレーニングに時間を費やしている」
むしろ連戦だからこそ、負荷をかける必要があると言う。
「連戦の合間に身体を休めていると、ただただすり減って、自分の限界値が落ちていく。逆にそこに刺激を入れると、リバウンドのように限界値が上がる。宇佐美が言ってました。ドイツでは連戦中だろうが走らされる。つらかったけど、そのうちものすごく走れるようになったと」
1年かけて負荷をかけ続けた成果は出ている。
「単純に心肺機能が高まったってのもありますけど、怪我をしにくくなったり、疲労回復が早くなったりって効果も実感してます。何より、試合終盤も頭が働く。1つ1つの判断は、試合終盤になればなるほど重要になるので、これはすごく大事なことだと思います」
トレーニングの汗を流すとすぐ、槙野は六本木へと乗用車を走らせた。
コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社のイベントに出席し、スポンサー関係者へのあいさつをする。
「忙しいのだから日をあらためて、という意見も分かります。でも忙しいというのは、自分のバリューがそれなりにあるということ。忙しい時だからこそ、会っていただける方というのはいらっしゃると思います」
財界人。他種目のトップアスリート。人気芸人。アーティスト。忙しい合間を縫って人と会うのは、忙しい今でないと広げられない人脈があると思うからこそだ。
そしてそこを糸口に、多くの人にサッカーに興味を持ってもらいたい。そんな思いで、スケジュールを埋める。
自宅を出てから13時間。ようやく帰宅する。
夕食を食べ終わると、夫妻はリビングに移動する。
2人が手に取ったのは「西郷どん」の台本。
「せりふ読みには必ず付き合います。彼女はもちろん、自分の役どころである"ふき"をやって、俺が西郷どん(笑い)」
槙野は槙野なりに、全力で西郷吉之助になりきる。そして逆に、トレーニングに付き合ってもらうことも多いという。
「高地トレーニングもそうだし、プライベートで旅行に出かけた時もホテルのジムに行こうとすると、必ず付いてきます。そして必ずと言っていいほど、僕を超えようとする(笑い)。1秒でも早くゴールしようとするし、1回でも多く腕立て伏せしようとする」
アスリート同士のように、バチバチに火花を散らす。
「不可能でも向かってくる彼女の姿が、僕の心に火を付けるところもあります。マジで一番のライバルなんですよね。仕事自体も尊敬できるし、プロとして負けたくないとも思う。好きになった理由も、一緒になった理由も、そういうところです」
ベッドに入り、目を閉じる。
するとすぐに、W杯初戦のピッチが浮かんでくる。
「監督を辞められた後、一度日本にいらっしゃったタイミングで、ハリルホジッチさんにお会いしました。ずっとギラギラしていたあの方が、うそのように柔和になっていました。かわいらしいと思うくらい(笑い)。でも見せてくれたノートには、W杯から逆算した準備のプランが全部書かれていた。コロンビア戦の何日前にはこういう練習をするとか、ポーランド相手にはこういう対策を練るとか」
コロンビア戦の舞台、モルドヴィア・アリーナのピッチに、いつものように左足から踏み入れる。
「今は新しい監督のもとで、みんなが前向きに頑張れています。課題と言われたコミュニケーションもよくなってる。でも一方で、ハリルホジッチさんのおかげで今の自分があるのも確か。せめてあのノートに刻まれていたハリルホジッチさんの情熱に負けないくらいの熱量で、W杯に臨まないといけないと思う。じゃないと、顔向けができない」
集合写真の撮影でも、誰よりも声を張り上げて鼓舞する。
「今はスポーツ界全体で、ネガティブなニュースが多い。ネガティブな会見ばかりがメディアに取り上げられている。そしてサッカーも、代表監督が変わってどうなんだという話がメイン。日本代表にはどんな選手がいるのか。どういうサッカーをするのか。そういうところになかなか目を向けてもらえていません」
持ち場の左ストッパーの位置まで走る。満員のスタンドから湧き上がる、大歓声を浴びながら。
「そこにもう一度注目してもらうためには、やはりW杯に向けて頑張るしかない。個々の選手の魅力をいろんな手段で伝えた上で、その選手たちが大会で心を打つようなプレーをして、結果を出す。それしかない」
試合開始のホイッスルを待ちながら、右の手のひらを見つめる。
「頑張る時は、いつも今」と繰り返しつぶやく。
そうやって、W杯でやるべきことと、試合前のルーティーンを頭の中で繰り返す。
そしていつしか、眠りに落ちる。
かつて、中澤佑二はこう言っていた。
「サッカー選手は1日に、練習とその前後の2時間しか拘束されない」
2010年のW杯南アフリカ大会で、日本代表をベスト16に導いた守備の要が言いたかったのは「サッカー選手は自由だ」ということではない。
「1日の残り22時間の過ごし方は、それぞれに任される。誰も指針を示してはくれない。だからこそ、サッカー選手として生きるのは難しい」
槙野は「すごく分かります」とうなずく。
「アスリートとしても、人間としても、時間を有効に使って成長していくためには、自分で考えて有意義なスケジュールを入れていくしかない」
それにしても、ここまでパンパンにスケジュールを詰めては、疲弊するのではないか。
「そんなことないですよ。誰かにやらされてこれだけのスケジュールをこなすなら、そりゃ疲弊すると思う。でも僕は自分がやりたいから、一日中動き回っているだけ。充実感はあっても、疲労感なんてないです」
言葉に力がこもり出す。熱くなって、早口になりそうなところを、つとめて丁寧に話す。
「一生の間で、これだけの時間を割いて、身を削って、ひたむきにやれる時間ってあまりないと思う。ありがたいことに、奥さんも理解してくれて、自分がやりたいことをやらせてもらっている。だからそれを成果にしたい。そのためには、のんびり過ごしている時間なんてないと思うんです」
誰よりも濃密な時間を過ごしている。
そんな自負があるから、国際親善試合で王国ブラジルと対戦しても、気後れなどしなかった。
むしろ、列強のエースとぶつかるために、W杯を目指してきた。
火花を散らすような攻防を演じて、日本中の耳目をサッカーに向けさせてみせる。
(取材協力=浦和レッズ、取材・文=塩畑大輔、撮影=松本洸、編集=LINE NEWS編集部)