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久保竜彦、ジーコ元監督に会う。12年ぶりの邂逅

2018年5月30日 11:00 LINE NEWS編集部

5月14日、グランドプリンスホテル新高輪。

Jリーグ25周年を記念したイベントの控室に、”神様”は現れた。ブラジル代表史上に残るスーパースターにして、元日本代表監督、ジーコさんその人だ。

久保竜彦のことを取り上げたい。
そんな取材の趣旨を伝えると、深々とうなずいた。
しばらく考え込んだ後、「本当に、最後まで悩みました」と切り出す。

ちょうど12年前。同じ5月14日。
ドイツW杯の日本代表メンバー発表会見を翌日に控え、代表監督のジーコさんはなおも悩んでいた。

「あれだけの逸材を、世界に披露できなくなる。そんな結論を、自分で下さなければならなかった」

切なそうに、ため息をつく。

「大事な大会前にけが人が出て、チーム構想を練り直す必要に迫られる。そういう事態は、サッカーには付きもの。そう納得しようとしたけど、やはり残念だった。そして、あれから12年が経ちますが、いまだに残念に思います」

10日前。都内での取材対応時。
「ジーコさんの単独インタビューに同席してはどうか」。その申し出に目を輝かせた久保だったが、すぐに「いや、行かん」と首を振っていた。

「ジーコさん、オレのことなんか覚えてないやろ」

そんなことはありえないと説得されても、頑として受け付けない。

「仮に覚えてくれていたとしても、オレに会いたいと思うかは分からん。なのに一方的に押しかけるのは、ちゃうやろ」

てこでも動きそうにない。久保が広島に帰った後も、電話やメールでの説得は続いたが、応じることはなかった。

久保の「サプライズ登場」が未遂のまま、インタビュー取材は始まった。
ジーコさんは、最愛のストライカーとの「出会い」を振り返る。

「鹿島で現役を退いてからは、私は日本を離れる時間もあったので、Jリーグの選手を生で見る機会が減った時期もあります。そんな時に、鹿島で監督になったばかりのトニーニョ・セレーゾから連絡があった。『これはとんでもないFWだぞ、鹿島にもほしい』と」

それが、当時はまだ広島に在籍していた久保だった。

「それで代表監督になって、すぐに呼んでみたら、確かにすごかった。私の経験から言えば、まず左利きというだけでFWはかなり有利。DFは右利きのFWに慣れているから。加えてこれだけの身体能力、技術があれば、相手DFはどこで飛び込んだらいいか分からない」

15年以上も前の出会いについて、当時と変わらないであろう熱量で語る。

「何より、彼独特のリズムというのもある。これだけとんでもない左利きが出てくれば、相手の感覚は狂ってしまう。それだけの逸材ですから、私としては彼こそがドイツW杯のセンターFWだと考えていました」

日本代表の任期中だった当時も、ジーコさんは休暇でブラジルに帰ることはあった。母国でも英雄。休みの間も、地元メディアからの取材依頼は絶えなかった。

ブラジルの記者に、ジーコさんはこう言ったという。

「日本を見くびっちゃいけない。その理由は、タツヒコ・クボを見てもらえば分かる」

切り札は、秘密のままにしておいた方がいいという考えもある。しかし、掌中の珠があまりに美しく、放つ光も強いとなれば、他人に誇りたくなるのも人情というものかもしれない。

そして、世界的なスターだったジーコさんにそう思わせたというのが、ストライカー久保のすごさである。

「どんな相手との試合で起用しても、彼は飛び抜けたプレーをした。たとえ世界トップクラスのチェコ代表が相手だろうが、個で打開してゴールを決めてしまう。まさに逸材。それだけに、腰や足首に問題が生じたのは、ものすごく残念だった」

やれるのか?
代表合宿に呼んでは、本人を自室に招いて、話をした。

「最後は試合後のピッチサイドで話をしたと思う。率直なところどうなんだ、と。彼は『難しいかもしれない』と答えた。これは厳しいと感じたが、それでも私は諦めきれなかった。最後まで『本大会でプレーできる可能性があるなら、ドイツに連れて行きたい』と主張させてもらった」

メディカルスタッフとも、議論を重ねた。最後は「選手生命にかかわる」と制止され、諦めるしかなくなったという。

「彼のその後の人生に関わってしまうとまで言われれば、無理を通すことはできませんでした。23人の中で、私が最後に選んだのは、センターFWの巻。つまり、ギリギリまでタツを呼ぶかどうかを迷ったということです」

深く、ため息をつく。失ったものは大きかった。それでもジーコさんは「彼がいればW杯で我々は勝てたかも」とは言わない。他のメンバーも信頼していた。

純粋に、日本が誇る「才能」を、世界に披露したかった。

当時の失意がよみがえったようだった。
なんとなく、誰も口を開かなかった。

その静寂を、不意にドアの開く音が破った。
そして、ペタペタという足音が続く。

怪訝(けげん)そうに、ジーコさんが音のする方を見やる。
その目が、大きく見開かれた。

黒いジャージに、ビーチサンダル。部屋に入ってきたのは、久保竜彦その人だった。

「ご無沙汰してます。…ええすかね?」

ジーコさんのインタビュー当日、午前9時。セッティングに関わっていたJリーグ広報部スタッフにメールが届いた。

「タツです。やっぱり行こうと思います」

スタッフは、思わず天を仰いだ。
しかし、2人を会わせられるならと、すぐに気持ちを切り替えた。

飛行機嫌いの久保のために、新幹線の時刻表をチェック。午後3時開始のインタビューの時間中に、なんとか間に合うかもしれない。

メールに経路を書き込む。そこで以前、大事な会合と伝えたところ、「ビーサンでは失礼やから」とサッカー用のスパイクを履いて現れたことを思い出した。久保の履物はスパイクとビーチサンダルの2種類のみ。都市伝説ではない。

「今回はジャージとビーサンで構わない」と付け加えて、メールをまとめた。間に合ってほしい。願いを込めて、送信ボタンを押す。

タツ!いったいどうしたんだ!

迷ったんですけどね、来るかどうか。覚えていてくれてるかも分からんかったし。

誰が忘れるというんだ!(笑い)


ジーコさんは破顔し、握手した手を何度も振った。久保は照れたように笑い、小さくうなずいている。

元気にしているのか?サッカーは?

今は子どもたちを教えています。

そうか!現役はいくつまでやったんだ?

おかげさまで、36までやれました。

そうか!痛みは再発しなかったのか?

あれからしばらくは出てたんですけど、いろいろ試していたのが良かったみたいで、30過ぎたらピタッと治まりました。

それは良かった!

あの時良くなっていれば、もっと良かったんですけど…。


ジーコさんはゆっくりと、小さくうなずく。

ドイツW杯は、私個人はもちろんだけど、日本にとって残念だったんじゃないかと思う。タツがいたら、国民はW杯をどれだけ楽しめたか。

テーブルに置かれたタブレットが、オマーン戦の久保の得点シーンを映し出す。

これは忘れられないゴールだ。私たちを救ってくれた得点だったから。チェコ相手に決めた得点も素晴らしかったけど、日本代表をW杯に導いたという点では、こちらの方が重要だったかもしれない。

これはジーコさんが教えてくれんかったら、打てなかったシュート。どかんと蹴るだけだった自分にはなかった選択肢です。

懐かしいな、シュート練習!「(日本語で)キーパー、チャントミテー!」って、何度叫んだことか(笑い)

傍らで通訳の鈴木國弘さんも、懐かしそうに言う。

日本語だったけど、一応、オレもジーコと一緒に「ミテー」って言ってた。人生であんなにひとつの単語を叫び続けることってないよね(笑い)


インタビューの場が、笑いに包まれる。その輪の中で、久保が遠い目をする。

まだJリーグが開幕してない1991年に、住友金属工業蹴球団(鹿島の前身)が佐賀に試合に来たことがあった。オレはどうしても生のジーコさんを見たくて、福岡から2時間近くチャリンコこいで、会場に行ったんですよ。チケットとか持ってなかったけど、いても立ってもいられなかった。

おお、そうだったのか!

そんな憧れの人が、シュート練習に付き合ってくれたり、丁寧に教えてくれたりしたこと、本当に忘れられないです。ジーコさんとの出会いが、オレの人生を変えてくれた。だから、今度は親として、子どもにいい出会いを準備してあげたいなと思っているんです。

久保の並外れた運動能力は、子どもにも受け継がれている。

次女は14歳以下のテニス日本代表に名を連ね、年代別の世界大会でベスト8に入った実績を持つ。スペイン、フランス、ドイツ、チェコなど各国のコーチから「うちに来なさい」と誘いも受けている。

自分から好きにならないと、実にならない。そう考える久保は、テニスを始めろとも、続けろとも言ったことがない。ただ、熱心に取り組み出したころから、久保なりの「応援」をしていた。

まず、あごを鍛えさせた。おやつとして硬い干し肉やせんべいなどを与え続けた。歯の矯正もさせた。

久保は幼少時、父親から「お前はあごが細いし、歯並びも悪いから、野球をやってもサッカーをやっても、きっとケガをする」と予言されていた。その言葉通り、腰や足首のケガに泣き、W杯出場の夢も断たれた。

だから、娘には同じ轍(てつ)は踏ませまいとした。ドイツW杯直前、腰や足首を見てもらった理学療法士の元にも早くから通わせ、ケガの予防もはかった。W杯出場を阻んだケガと引き換えに、久保はその道のスペシャリストたちとの人脈を得ていた。

そして何より、偉大なアスリートとの出会いの場をつくることに奔走した。元サッカー日本女子代表の澤穂希。プロ車いすテニス選手の国枝慎吾。世界の頂点に立った第一人者たちに頭を下げ、娘を会わせに行った。

澤さんの練習を、娘はウオームアップからじーっと見ていました。やっぱり足の踏み込みがすごいって、何度も言うてましたね。そこを注意して見ろ、なんて教えたわけじゃないんですけど。

ほう。

国枝さんがラリーの中で、車いすごと吹っ飛んで、それでもすぐ立ち上がって球を打ち返す様子にも、胸を打たれた様子でした。そこからテニスの淡泊さ、なくなりましたからね。打ち合いで粘れるようになった。

娘さんが自分で気付いたということだな。

はい。それが一番いい教育なんかなと。そして、それをオレに教えてくださったのは、ジーコさんです。


目を細めて、ジーコさんがうなずく。

私も、タツと一緒に仕事ができたことを、今も誇りに思っているよ。鈴木さんは私の通訳でありながら、タツの大ファンだったから、2人きりになると「私にとって世界で一番のFWはジーコだけど、2番目はタツです」とよく言ってきた。

そうしたらジーコに「私はFWじゃないぞ。つまり、世界一のFWはタツってことだな」と返されました(笑い)

タツ、君は特別だった。違う世界のストライカーだった。

インタビューも、終わりの刻限になった。
2人は立ち上がり、もう一度握手をした。

どうか、身体には気を付けて。第二の人生が充実したものになることを期待しています。そして今度は娘さんについても、世界8位じゃなく、1位の報告をしてほしいな!

はい!ぜひ!

そうなったら、私はブラジル中に言って回るよ。「彼女は、オレの最高のセンターFWの娘なんだ」ってね。


久保が、感極まったような表情を見せる。

本当に…ありがとうございます。ジーコさんも、お元気で。

ホテルのエントランス。
余韻に浸るように無言だった久保が、ポツリと言った。

「来て良かったわ。ホンマ、ありがとう」

無精ひげの口元を、きゅっと引き締めて、遠くを見据える。

「W杯に出られんかったのは残念やったけど、ジーコさんと一緒にサッカーができたのは、本当に良かった。あらためて、そう思うよ」

手を振って、くるりときびすを返した。

久保竜彦に、W杯での出場記録はない。
しかし、W杯出場という夢を追い続けたからこそ、記憶に残るストライカーになった。

たとえ世界的な強豪が相手でも、肩を怒らせた背中が小さくなることはなかった。その姿に、日本中のファンが、そしてジーコさんが夢を抱いた。

そんな背中が、品川駅前交差点の雑踏に、静かに消えていった。

(取材協力=Jリーグ広報部、鹿島アントラーズ 取材・文=塩畑大輔 撮影=松本洸 編集=LINE NEWS編集部)

前編「久保竜彦、巻誠一郎に会う。12年ぶりの再会」はこちらから

詳細はスマートフォンから

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久保竜彦、巻誠一郎に会う。12年ぶりの再会

2018年5月29日 11:00 LINE NEWS編集部

サッカーW杯の代表選考には、ドラマが付き物だ。
日本でもかつて、話題をさらったメンバー発表があった。

その主役として、明暗を分けた2人。
12年ぶりの邂逅(かいこう)は、人知れず実現しようとしていた。

4月15日、熊本・えがお健康スタジアム。
東京ヴェルディ戦に備え、会場入りするチームバスを降りたロアッソ熊本FW巻誠一郎は、離れて見守る人影に気付いた。

少し近づいて確認する。間違いない。急いで駆け寄り、声をかける。

「タツさん?タツさんですよね!」

短く刈った頭に、無精ひげ。見た目は当時とほとんど変わらなかった。元サッカー日本代表、久保竜彦だった。

再会を喜ぶ後輩に、久保は少し照れたように歩み寄る。ジャージの裾でゴシゴシと右手を拭い、握手をする。

「マッキー、元気そうやな。いくつになったん?」

「38です!」

「そうか。ようがんばっとるな。地震の後、被災地駆けずり回っとったんやろ?聞いたわ」

「ありがとうございます!」

「おう!身体には気ぃ付けてな。試合やろ?早く行きぃ」

深々と頭を下げる巻を背に、久保は手を振ってその場を後にした。

久保はこの日、Jリーグ選手OB会の活動で、地震被害から2年の熊本でサッカー教室を行っていた。

"縁"のある巻が、復興支援のために奔走し続けているとは聞いていた。だからなんとなく、会場入りする姿を遠くから眺めていた。巻がそれに気付いたことで、再会は実現した。

数少ない目撃者になったJリーグ関係者が、ポツリと言う。

「歴史的な再会かもしれませんね。それこそ、サプライズだ」

12年前。久保と巻は、まさに「サプライズ」の当事者として、日本中から注目された。

2006年5月15日、日本サッカー協会はドイツW杯に出場する日本代表のメンバーを発表する会見を開いた。席上、ジーコ監督はリストを読み上げる形で、23人の出場選手を明かしていった。

「ヤナギサワ、タマダ…」

22人を読み上げたところで生じた、微妙な間。そこには確かに、意味があった。

「マキ」

報道陣から、どよめきが起きた。まったく有力視されていなかった巻が、メンバー入りを果たした。そこから一拍置いて、今度はざわめきが起きる。会場を埋めた記者たちは、口々に言った。

「久保が、落ちたぞ…」

ジーコジャパンにおいて、久保は特別なストライカーだった。

まるでネコ科の動物のように空中で身を翻して放つ左足ボレー。GKが伸ばした手を越える高さで捉えるヘディング弾。圧倒的な身体能力に裏打ちされた得点力は、ジーコ監督のもとで開花した。

2004年2月。W杯予選の初戦オマーン戦では、後半ロスタイムに決勝点を決めた。日本をドイツW杯に導いたゴールとして、この得点を挙げる選手、スタッフは非常に多い。

そして久保の評価を決定付けたのが、同年4月の国際親善試合チェコ戦でのゴールだった。ネドベド、ロシツキらを擁する「黄金世代」のチェコは、同年の欧州選手権でも優勝候補に推されていた。

そんな強豪相手のアウェー戦で、久保は見事なゴールを決めた。前半33分、ドリブルで右サイドを駆け上がると、迫るDF2人をかわして左足シュート。世界的名手のGKチェフの左頭上を破って、ネットを揺らした。

久保は直前のハンガリー戦で1得点、直後のアイスランド戦でも2得点と、チェコ戦を含めて欧州遠征3試合連続でゴールを挙げた。世界に通用する点取り屋として、期待される存在になった。

「ジーコジャパンでサッカーするの、面白かったけの」

熊本の夜、2軒目の焼き鳥屋。久保は生ビールのジョッキを店員から受け取りながら、促されるでもなく切り出した。

「ジーコ監督は50歳を過ぎていたけど、相変わらずうまかった。ポストシュートの練習の時、オレがわざと難しいボールを当てても、簡単にめっちゃいいところに落としてくる。それを目の前で見られるってのも、すごく楽しかった」

ジーコジャパンを救った、オマーン戦の終了間際の得点も、実は監督の教えがあってのものだったという。

「コロコロっと流し込むシュート、ジーコ監督に教わらんかったら、選択肢になかった。それまではGKごとネットに突き刺すつもりで、とにかくドカッと蹴っていたから。すごい人の教えだから、素直に聞けたってのは、やっぱりあると思う。あんな緊迫した場面で決められたのは、教えがきちんと自分の中に入ってきて、自分のものになったからやと思う」

ジーコ世代に憧れて、サッカーに夢中になった。

1986年6月。10歳になったばかりのタツヒコ少年は、地元の福岡県筑前町にある小さな電器屋の軒先で"交渉"をしていた。

「どうしても見たいけん、W杯の試合を録画してくれへん?」

この年、サッカーW杯はメキシコで開催されていた。時差14時間。日本時間の深夜に試合は行われており、小学生が見るなら録画は必須だ。しかし久保家には、ビデオデッキがなかった。

なので、電器店でテープだけを買って、店頭に展示されているデッキで録画させてもらおうと思ったのだ。それだけでは飽き足らず、W杯の様子を伝えるラジオニュースも録音して、何度も聞いた。

「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ!」「ジーコだ!」といった実況の叫び声だけで、スーパープレーを想像した。そしてたぎる思いを抑えきれず、街灯の下で遅くまでボールを蹴り続けた。

細かい泡だけが残った、空のジョッキを見つめながら、久保は当時を振り返る。

「W杯に出たい。ああなりたい。そう思って、マネばかりしてた。ジーコ、プラティニ、マラドーナ。あの世代が自分にとってのW杯のすべて。その後の大会も見たけど、メキシコを超える感動はなかった」

そんなジーコの教えを、直接受けられる立場になった。ここに居続けるために、全力を尽くそう。久保は代表でも先発を重ね、所属の横浜F・マリノスでも結果を出し続けた。しかしそのことが、悲劇を招いた。

「代表でも点が取れ出して、このままやっていけばもっとうまくなれると思っていた。でもちょうどそのころに、腰が痛くなった。代表での活動に加えて、クラブでアジアチャンピオンズリーグにも出るようになって、試合数も増えたってのはあるかもしれん」

時折襲う発作的な痛みは、怖さとなって久保の中に残った。自分で自分にブレーキをかけるようになり、プレーの質は一気に落ちた。

「チェコ戦のころは、もうだいぶ悪かった。たまたま欧州遠征の時期に、痛みが弱まる波が来ていただけだった。悪い波が来たら、怖くて動けない。それを忘れるために、痛み止めの薬を飲んだり、神経にブロック注射を打ったりした」

2005年、代表での出場数はゼロになった。

「それでもジーコさんは、会えばいつもと同じように接してくれた。『タツ、元気か?今日はやる気あるか?』って笑ってくれる。代表合宿中にみんなでキャバクラ行って、週刊誌に写真撮られちゃった直後でさえ、そうだったけんね」

懐かしそうに笑ったが、すぐに表情が硬くなる。

「でもあの時はさすがに、動き悪いって思われていたんちゃうかな。オレもそう思っていた。この落ちていく感じが、どこまで続くんかなあと」

久保竜彦は、W杯でプレーできるのか。

ドイツ大会が迫ってくるにつれ、それは日本サッカー界の一大テーマになっていった。

日本代表のチーム内でも同様だった。ジーコ監督らコーチングスタッフと、メディカルスタッフは、来る日も来る日も久保の起用法について議論を重ねていた。

本人も必死だった。

西洋医学にとどまらず、何にでも手を出した。断食もした。漬物のように巨大なぬか床に肩までつかる「酵素風呂」も続けた。触らずに治すとうたう「気功」にも頼ってみた。

「出たかったけ。あのメンバーでW杯に行きたかったけ。監督がジーコさんで、通訳が鈴木さんで。せやけ、何でもやろうと思っとった」

W杯イヤーの2006年を迎えるころ、久保の腰痛はだいぶおさまっていた。2月18日の国際親善試合フィンランド戦では、代表619日ぶりのゴール。同22日アジア杯予選インド戦でも2得点を挙げた。

「慎重に整えていったけ、調子良かったんよ。年始のころは。このままごまかしながら、いけるんちゃうかなと思ってました」

クラブに戻っても、Jリーグ開幕の3月5日京都サンガ戦で2得点。「W杯のエースは久保」と待望する声は、再び強まっていった。

久保と12年ぶりの再会を果たした翌日。

"サプライズ選出"について振り返る場として、巻は熊本市中心部のドーナツ店を選んだ。「女子高生みたいですよね」と笑いながら、禁煙フロアのテーブルにコーヒーを置く。

「重かったです。とにかく重かった」

語り出すと、表情は一転して硬くなった。

「W杯は夢でしたから、選ばれたと知った瞬間は、もちろんうれしかったです。でも、タツさんの代わりみたいな形でしたからね。それがものすごく重かった」

通りかかった客が、巻に気付いて声を掛けようとしたが、あまりに真剣に話す様子を見て自重した。

「タツさんは見る者に『ひとりで試合の流れを変えてくれるんじゃないか』と期待させるだけのものをお持ちでした。世界を相手に、どこまでやってくれるんだろう、と。一方、僕は自分ひとりで戦況を変えられるようなFWではなかった」

苦笑いしながら、コーヒーに少しだけ口をつける。

「タツさんの代わりじゃなければ、もう少し気が楽だったと思います。正直『なぜ自分なんかが選ばれてしまったんだろう』と考えることもありました。タツさんや、他の選ばれなかったFWにものすごく失礼になるから、絶対に口には出せませんでしたけど。誰にも打ち明けられないのも、とても苦しかった」

傍らのカップから立ち上る湯気が、強い語気で乱れる。

「自分がW杯に出たことに意味を見いだせたのは、ちょうど10年後、熊本地震が起きた後です。どこの避難所に行っても『あ、巻さんですよね!』と言って、支援を受け入れてくださった。『サプライズ選出』と注目されて、顔や名前が知れ渡っていなければ、あんなにスムーズにはいかなかったんじゃないかと思うんです」

静かに、だが何度もうなずく。

「今回、タツさんがわざわざ待っていてくださって、僕のことをねぎらってくれたのは、ものすごくうれしかったです。12年経って、ようやく気持ちの整理がついたような気がします。タツさんの代わりはきつかった。でも、タツさんの代わりだったからこそ、巡り巡って熊本のために働くことができた。今はそう思えます」

「マッキー、そんなこと言うてたんですか。そこまで期待されとるとか、自分じゃ正直よう分からんかった」

都内のカフェ。サッカー教室をするために上京してきた久保は、あごひげをなでながらポツリと言った。

06年5月。年始から復調の兆しを見せていた久保だが、今度は足首の痛みに悩まされるようになっていた。

「最後のころは、腰や足首が固まってしもうて、身体が動かんかった。注射を打ちすぎて、感覚もめちゃくちゃやった。直前の親善試合、オレが出た方がいいか、出ない方がいいかで、代表のチーム内でもめとったのも知っていた」

それでもW杯メンバー発表直前も山形に赴き、一縷(いちる)の望みにすがるように、断食道場で回復をはかっていた。東京に帰る新幹線の車内で、携帯電話が震えた。横浜F・マリノスのチームマネジャーは、複雑な感情を押し殺すようにして、久保に落選を伝えてきた。

「自分の中で、出られんかもしれんというのは、考えんようにしてました。だから最後も道場に行ってましたし。でも、落選の連絡を受けて、正直ちょっと楽になったところもあった。もう、いろいろ考えずに済むなと」

ふっ、とため息をつく。しばらくして、言葉を継ぐ。

「もちろん、やっぱり出たかったのう、と思うところもありました。整理がつかんまま、1週間くらいは何もする気がおきんかった」

少し切なそうに、眉根を寄せて語る。

「それだけ、ジーコさんとW杯に出るというのは、自分にとって大きなことだった。86年、膝の痛みを抱えながら『ここで終わってもいい』と言ってプレーしていたジーコさんの姿が、忘れられん。あれが自分にとってのサッカーであり、W杯だった」

落選後、ジーコさんと会うことはなかったのか。

「ないですよ。ないない。ジーコさんにはすぐW杯があったし。オレのことなんか、もう覚えてもいないでしょう」

ならば、会って話してはどうだろうか。LINE NEWSはJリーグ広報部から、リーグ25周年に合わせて来日するジーコさんの単独インタビュー許諾を得ていた。

「えっ!ジーコさんに会えるの?オレが?」

(取材協力=Jリーグ、ロアッソ熊本 取材・文=塩畑大輔 撮影=松本洸)

後編「久保竜彦、ジーコ元監督に会う 12年ぶりの邂逅」に続く。

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