くしゃっとした笑顔の裏側に、本音がのぞく。
「今までで、一番いや」
20歳前後の若手の台頭が著しいトランポリン日本女子の現状を、短い言葉で表した。
自らが危うい立場に追いやられたことを考えれば、無理もない。
5月13日。
世界選手権(11月28日〜12月1日)出場を懸けた第1次選考会の翌日だった。
日本代表の切符をつかみ損ね、個人残り1枠を争う6月21、22日の最終選考会に回ることに。そこで代表入りを逃せば、東京五輪への道は途絶える。
この大会も、同じ金沢学院大学クラブに所属する19歳の森ひかるが制した。
岸彩乃は、10月で27歳を迎える。
「レベルが高いってことは、いい環境でもあるんですけどね」
日本男子"本命"の大貴
2階の観客席からでも見上げるほど選手たちは高く舞う。ぴんと手足の先まで伸びた体の線が美しい。
5月12日、群馬県のヤマト市民体育館前橋。
予選2本と決勝1本、計3本の演技の合計点で競った第1次選考会で、彩乃は出足でつまずいた。
予選1本目の初っ端、跳び上がった体がわずかにトランポリン中央からそれる。
「入りは簡単な技なんですが、簡単だからこそ大事にいき過ぎちゃって…」
着地点が少しずれただけでも、連続する技の中で修正するのはたやすいことではない。跳び上がる高さや演技の見栄えにも影響し、得点が伸びない。
結局ミスが最後まで響き、決勝の演技を終えても表情は晴れなかった。
彩乃の演技直前に、隣のトランポリンで拳を突き上げた男子選手とは対照的だった。
重力を押し返すような鋭い3回宙返りの連続に、会場からひときわ大きな拍手が起こった。
それが、2歳離れた弟の岸大貴。
2月の国際大会「ワールドカップ(W杯)シリーズ」の第1戦で個人3位に入り、世界選手権メンバーにいち早く内定。調整出場の意味合いもあるという気持ちの余裕が、そのまま伸び伸びとした演技に表れていた。
世界選手権の決勝で日本人トップになれば、真っ先に五輪への出場が決まる。
「2月の時点で世界選手権が決まっているアドバンテージを無駄にしたくない」
まっすぐ相手の目を見て話す24歳は、紛れもないトランポリン日本男子の"本命"だ。
五輪随一の「空中競技」
約120本のスプリングが伸縮する金属音。
ナイロンテープやロープで編まれた「ベッド」と呼ばれる布が大きくくぼむと、その反動で体は天高く跳び上がる。
女子で5〜6m、男子だと7〜8mもの高さに達する五輪随一の「空中競技」。
体操選手だった両親を持ち、石川県小松市で育った姉弟は、その浮遊感にすぐ魅了された。
彩乃が5歳、大貴が3歳のころに近所のトランポリン教室に通い始め、巻き込まれるようにして母の直美さんも指導者に。大貴の5歳下の末っ子・凌大も続いた。
西日本の大会では年代別で同時優勝したこともある3姉弟。
食卓ではいつも専門用語が飛び交い、体操一筋の父・一盛さんは「何を話してるのかさっぱり」と"仲間はずれ"の、微笑ましいスポーツ一家だった。
小松空港で見た「憧れ」
端的に言えば、どれだけトランポリンの中央からずれずに高く跳び、難しい技を美しく決められるかが求められる競技。
1回の演技で連続して10本の技を披露し、獲得した得点で競う。
空中に飛び出す微細な角度のずれが、最終的には着地点に大きな誤差を生む。時にはトランポリンの外に投げ出される危険性もある。
反発エネルギーを真上へと伝える体のこなしや重心の置き方は、選手によって異なる。
トランポリンに接する足の裏。彩乃は親指のつけ根部分、大貴はかかと部分の皮がそれぞれ硬くなっている。
何万、何十万回と跳んできた証しが宿るが、2人とも小中学校時代は全国や世界の舞台で「勝った記憶があまりない」。飛び抜けた実力ではなかった。
それでも、大貴の記憶には早くから「五輪」が刻まれていた。
競技が正式採用された2000年のシドニー五輪。日本から出場した中田大輔、古(現・丸山)章子はともに石川県出身で、幼稚園の年長だった大貴は小松空港までお出迎えに行ったことを覚えている。
「その時から、ぼんやりと五輪に出たいなーって思っていましたね。振り返ってみると」
夢のオリンピアン。
それを姉は、わずか19歳でかなえた。
ロンドンで味わった劣等感
あまたのアスリートが目指す華やかな舞台に、彩乃はいい思い出がない。
「劣等感の方が大きかったです」
金沢学院大学2年生の時に臨んだ2012年のロンドン五輪。初出場の高揚を感じる間もなく、16選手中14位に終わった。
男子選手は上位入賞を果たし、他競技に目を向ければメダルを光らせる選手もいた。
「オリンピアンと呼ばれる人はたくさんいて、その中で下の方というか…」
石川・小松大谷高校に進学後、専門的な指導を受けて急成長。日本女子のトップランナーに躍り出たが、その勢いでのぞき見た五輪の世界は甘くはなかった。
味わった劣等感を晴らすのは、きっと4年後のリオデジャネイロ。
そう信じて疑わなかった。
「奮起」と「失意」の分岐点
姉の姿は「夢」を「目標」に変えてくれた。
「本当に出られるんだ、って」
高校3年生だった大貴は、五輪を近くに感じた。幼少期から姉と一緒に練習に励み、同じ高校、大学に進学。ただひとつ異なったのは、すぐには国際舞台で輝けなかったことだった。
大学3年で全日本学生選手権4冠を達成するも、日本トップクラスにはほど遠かった。世界ランキング1位の実績もある伊藤正樹や、北京五輪4位の外村哲也ら実力者に歯が立たない。
「この人たちに勝てるのかな」
半ば諦めの気持ちのまま、あっという間にリオ五輪が過ぎ去り、最終学年を迎えていた。
幼いころに憧れた五輪は、夢のままに終わるのか。
姉がロンドンで見た景色を、自分は見られないのか。
「東京五輪を本気で目指すためには、何か大きな変化や刺激が絶対に必要でした」
初めて、姉とは違う道に進むことを決めた。
大貴が心を奮い立たせた2016年。
彩乃の心は、ぽっきりと折れていた。
心が限界「もうボロボロ」
トランポリン女子の移ろいは早かった。
2016年4月、リオ五輪への最終予選で15位に沈み、2大会連続の出場を逃した。
代わりに切符をつかんだのは、大学1年生の新星。4年前の自分自身を見ているようでもあった。
彩乃は"もう"23歳。
「当時すでに、ほぼ最年長。今やめるか、4年続けるかという2択でした」
4年後は27歳。簡単に気持ちは奮い立たない。
そのシーズンの締めくくりとなる11月の全日本選手権には出場したが、上位8人で行われる決勝にすら進めなかった。
「もうボロボロ」
結果以上に、心が限界だと思った。
完全燃焼のための4年間
現役引退へと気持ちが傾く。あとは言い出すタイミングだと思ったとき、知人のふとした言葉に、頰を叩かれた気がした。
「そんな気持ちでやっていても、どうしようもないと思うよ」
ただまっすぐ突き進んできた道を、最後の最後で中途半端に断ち切ろうとしてはいないかーー。
自問自答した先に浮かんでくるのは「不完全燃焼」や「後悔」という言葉ばかりだった。
「もう、好きなようにやろうと思って。開き直りました。選手として、できることを全部やって終わろうと」
終着点を、2020年に決めた。
五輪女王がいるカナダに数カ月拠点を移し、技術を吸収した。海外に目を向けると、30代でも現役を続ける選手は少なくない。
何より、右も左も分からない環境での日々を過ごし、物怖じしないずぶとさも身に付いた。
「狭い世界だけを見ているようじゃダメだなって」
トランポリンの上だけでは味わえない景色を見たい。
そんな彩乃は、新たな環境への挑戦を迷わず決断した弟を「うらやましい」と言う。
子どもたちと触れ合う"岸先生"
「はーい、ごあいさつしましょう。よろしくお願いしまーす」
都内にある保育園の一室。
大貴が向かい合うのは、3〜5歳の子どもたち。週2回、小さなトランポリンを使って体の使い方を教えている。
保護者にも大人気の"大貴先生"は言う。
「子どもたちは、僕がトランポリンの大会に出ていることを分かっていて、応援してくれるんです。こうして触れ合う時間は、競技生活のワンクッションになってくれています」
大学を卒業した2017年、JOC(日本オリンピック委員会)の就職支援制度を活用し、保育事業を展開する「ポピンズ」に入社。上京して一人暮らしを始めた。
「自分でお金を稼ぎ、競技を続けるというところに意味があるなと思って」
自律が求められる環境に身を置くことで、日常生活の節々で「これがどうトランポリンに影響するだろうか」と真っ先に考えるようになった。
姉に「追いついた」2日後に…
周囲から「才能はある」と言われながら、精神的なむらっ気で演技の安定感を欠く選手だった。
「暴れ馬」
大学の先輩で、現在コーチを務める山口学さんからは、当時の姿をそう評される。
上京を機に指導を依頼。現役時代に数々の国際舞台で戦ってきた山口さんの経験を還元してもらいながら、演技に臨む上での「頭の整理」をしていった。
誰かに勝ちたい、メダルを取りたい、日本代表に入りたい…。
思い込むと突っ走るタイプ。
湧き立つ欲や気負いは「台に乗る前に全部下ろしちゃう」。技術的な確認作業だけに集中。心に一点の曇りもなく空中に飛び出すことができるようになると、得点と成績に直結した。
初出場した2017年11月の世界選手権。
非五輪種目ながら団体メンバーの一員として銅メダルを獲得した。
遠かった姉の背中に「ちょっと追いつけた。やっとここまで来られた」
大貴が充足感に浸った2日後、姉はさらなる高みへと飛んだ。
「世界で勝つには」貫く意志
リオを逃した涙から1年余り。再び潤んだ彩乃の瞳は、喜びであふれていた。
世界選手権の女子個人で、日本勢史上初の表彰台となる銀メダル。
「続けて良かった」
現役続行の決断が、快挙を導き出した。
そして、こうも言った。
「大貴が先に団体でメダルを取って、悔しさはありましたね」
姉としての意地はもちろん、競技者としての純粋な負けん気が結実した瞬間でもあった。
朗らかな性格の反面「自信が持てない」と常に自分を疑ってきた競技人生。
不安を打ち消すため、「ひとつのことは続けられる」という長所を、継続的な努力に変えてきた。
決して口にはしないが、19歳で五輪のトランポリンに立って以来、大きな使命感とも向き合ってきた。
男子に比べて後れを取っていた国際舞台での成績。「世界で勝つには」という問いに答えを出そうと、難度の高い3回宙返りを2本入れる構成に、日本女子でいち早く挑戦した。
東京五輪の代表選考が、厳しい戦いになっている今だってそう。
「リスクがある3回宙を2本も入れなくても、難度的に同じような2回宙だってある。安定感を重視すれば、もっと楽に世界選手権の代表になれるはず」
高校時代の恩師で、現在もコーチを引き受ける人見雅樹さんはそう見る。
それでも彩乃は、かたくなに言う。
「勝負がしたい」
五輪に出場できない悲劇を恐れるより、あの舞台で世界と肩を並べる未来を描く。
選手の「絶頂点」を東京で
少し不器用にも映る姉の姿は、大貴の背筋を正す。
「コツコツやる几帳面なところは、どんなスポーツでもきっと大事。継続してやってきた過程は、絶対に自分を裏切らないと思う」
アスリートの芯となる愚直な反復練習を、自らも実践している。
体に染み込ませるように何度も何度も宙に浮く。弱点であるジャンプの高さを克服しようと、より深くトランポリンを踏み込んで反発力を生むための新たな飛び方を模索する。
最初のジャンプから4連続で繰り出される3回宙返りの豪快さは、大貴ならではの魅力。
「高さに余裕が出れば、審判に美しいと思わせる演技ができる」
姉と同じく、世界のトップと勝負がしたい。
それができるのは、東京の舞台だと信じる。
「体が一番動いて、技術的にも脂が乗っている時期だと思っています。そこでマックスになるよう、覚悟を持ってやっています」
2020年に、選手としての絶頂点を重ねる。
姉を追い、そして弟を追う
よく晴れた5月下旬のある日。
ともに練習拠点にする国立スポーツ科学センター(JISS)に、2人の姿があった。
11月からの世界選手権を見据える大貴と、目の前にある6月の最終選考会に向かう彩乃。
「一歩出遅れている感じはあるので、最近では一番の目標にはなっているかな」
彩乃は、大貴の存在をそう表現した。
姉が先に世界へと飛び出し、弟の目標となった。
追いかけてきた弟は今、姉の原動力になっている。
異なる軌跡を描いてきた互いの成長曲線が、合流する場所はひとつ。
「その終着点に、2人でいられたらいいな」
くいっと口角を上げ、彩乃がまた笑った。
【取材・文 : 小西亮(LINE NEWS編集部)、写真・動画 : 江草直人、糸井琢真】