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「誰も僕を超えることはできていない」葛西紀明はいつ引退するのか

2018年7月12日 11:00 LINE NEWS編集部

 
目を閉じる。

するとすぐに、あの景色が浮かんでくる。

平昌五輪、ラージヒルのスターティングゲート。
眼下には、アルペンシア・スキージャンプセンターの全景が広がっている。

心臓の強い鼓動を感じる。呼吸を止め、おさまるのを待つ。
シグナルが、なかなか変わらない。少しじれたところで、ようやく青に変わった。

なんとなく、スタートバーから腰を浮かせてしまった。
まずい。気持ちの整理がついていない。鼓動が再び高まる。

助走の時速は毎時90キロを超える。身体はあっという間に、カンテに達する。踏み切りが遅れた。

反射的に、空中で体勢を立て直す。
全身の浮力がよみがえる。いけるか。

しかしその瞬間、右のスキー板がぐらりと揺れた。横風だ。

失速する。浮力も失う。これはダメだ。
胸のうちに、失意がにじむように広がっていく。


目を開く。

青い海が、静かに波立っている。

午前7時。
5月下旬の宮古島・与那覇前浜には、朝のやわらかい日差しがそそいでいた。

スキージャンプの葛西紀明は、朝の砂浜ランニングを終えると、土屋ホーム・スキー部の同僚たちを集める。
選手兼監督。石段にあぐらをかいて目を閉じると、周囲にも瞑想(めいそう)を命じる。

「何を思うかは、それぞれに任せています。深く、静かに、何かを思い返す。そのことで、何か気づきが生まれることもある」

瞑想はちょうど10分間。
それを終えると、ハマスーキの茂みを抜けて、ホテルへと戻る。

道すがら、振り返って言う。

「静かにゆっくりとものを考える時間、脳裏にイメージを描く時間って、なかなか取れないですよね。でも大事です。そういう時間、持ててます?」


難しい減量も「慣れっこ」


山盛りの白米に、かまぼこが一切れ。
油揚げなどの具を避けて、みそ汁をよそう。

朝食の席につく葛西を遠目に見ながら、同行のスタッフが代わりに説明する。

「7月下旬からは、サマージャンプの試合が始まります。もう、減量しないといけない時期。油の摂取は避けていると思います」

キャンプ開始から3週間。すでに無駄な肉はそぎ落とされている。

「今で62キロ。でも、シーズン中と比べるとまだまだです。56キロくらいで飛ぶので、あと6キロですね」

大敵なのは脂肪だけではない。必要以上に筋肉を付けてもいけない。使わないなら、単なる重りだからだ。薄い胸板が、それを物語る。

筋量が増やせなければ、基礎代謝は上がらない。
難しい減量。だが葛西は「慣れっこですから」と笑い飛ばす。

「もう30年もやらせてもらっているのでね」


考えながら飛ぶ。そのための準備


野球などの他の競技でも、ウオームアップにサッカーを取り入れるチームはある。

しかし、葛西たちが輪になって始めたリフティングゲームは、始まって30分がたっても終わらなかった。

「ウオームアップでもあり、トレーニングでもあります。狙いは判断、反応を磨くことです」

ボールがどう飛んで来るのか。どうトラップするか。
瞬時に考え、とっさに身体を動かす。

「スキージャンプは空中でも、刻々と状況が変わる。あらぬ方向から風も来る。だから数秒の間とはいえ、考え続けて、対応しないといけない」

平昌五輪では、開会式で日本選手団の旗手を任された。
45歳、8度目の五輪。同一競技への連続出場、最年長出場など、さまざまな記録の更新も期待された。

「これまでと違う重圧でした。4人の競技出場メンバーに入らないと途切れる記録もあったし、予選を通過しないと途切れる記録もあった」

リズムが狂った。ノーマルヒルでは、ウエアのファスナーを閉め忘れて飛ぶという信じられないミスまで冒した。

加えて、勝負のラージヒル個人では、横風をもらって失速した。
試合後には「ツイてなかった」と率直に言った。

だが、葛西はただ不運を嘆いているわけではない。

リフティングだけでなく、バレーボール、バドミントンも練習に取り入れる。
とっさの判断と反応を養うトレーニングとして、ずっと続けている。

「必ず勝ち負けをつける。ビーチバレーは大会にも出ています。プレッシャーを常に感じながら判断、反応をすることが大事ですから」

重圧の中でも、不利な条件を乗り越えるために。
葛西は続ける。平昌の前も、そして平昌の後も。

 
拭い切れないほどに汗をかいたころ、ようやく「よし、終了」と告げる。
開始からすでに1時間が過ぎていた。


「誰も僕を超えることはできていない」


続くメニュー。
同行のコーチが準備したのは、インラインスケートを履いてスラロームのようなコースを繰り返し走るトレーニングだ。

体幹を鍛えつつ、反応速度を上げるトレーニングを、ひたすら反復する。さすがに30分以上続くと、マンネリ感も出る。

それを避けるために、若い選手は途中でスピンを入れたり、後ろ向きに滑ったりと、アレンジを入れながら練習を続ける。

そんな中、葛西はコーチの指示通り、まったくアレンジを加えずにメニューをこなす。同じことを、同じテンションで続ける。

「そういうのが苦になったこと、一度もないんですよね」

「それこそシーズンに入れば毎週、試合会場への移動、試合へ向けた事前練習、そして本番という繰り返しですけど、ただただ楽しい」

語るうちに、柔和な笑顔がすっと引き締まる。

「続けることは大事です。ジャンプに関しては、短期的に自分を超えていく選手はたくさんいる。ただ、継続して成果を出せている選手は少ない。ポーンと台頭してきても、急に落ちたりする」

「五輪でプレッシャーに打ち勝って、メダルを取れる人というのは、4年間の積み重ねがある人。出すべき成果を淡々と積み重ねて、五輪になったら『あとは運に任せる』と割り切れる人です」

「そういう意味でも、継続的にトップレベルでやれることこそが、アスリートの真の価値だと思っています。日本で言えば岡部孝信さんとか、原田雅彦さんとか。でもそれも、強いて言うなら、です」

強い自負を込め、つぶやく。

「誰も僕を超えることはできていない」


あいつが男子なら―


午後は近隣の体育館に移動し、サーキットトレーニングを行う。

葛西はスマホのメモを見ながら、A4の白紙に「サイドステップジャンプ」「V字腹筋」などとメニューを書き、床に置いていく。

10種目を3周。過酷なトレーニングを何とか終えると、葛西を含めて選手はみなへたりこむ。
しかし、1人の女子選手だけが、すぐに立ち上がってランニングを始める。

「有希は、いつもああなんですよ。全体練習が終わった後も、必ず何かをやっている」

女子W杯通算5勝。平昌五輪にも出場した、伊藤有希だ。

「僕を超えていくとすれば、運動能力、気づき、反応を持っていた上で、僕が知らないところでも努力するような選手。それを感じるのは、男女含めて伊藤有希だけです」

合宿中、そう確信する場面があったという。早朝5時。いつもより早く起きてしまい、なんとなく自室のカーテンを開けると、ホテルの駐車場に伊藤有希がいた。

ひとりでリフティングの練習をしていた。

失敗しては、天を仰いで悔しがる。ジャンプの試合に臨むようなテンションで、ボールを蹴り続けている。

それでいて1時間30分後、朝のランニングには、さっき起きたかのような顔をしてやってくる。そんな姿を、好ましく思った。

「誰かに言われてやってるわけじゃない。本気で勝ちたいからやる。そういう選手こそが、世界でトップになれると思うんですよね」

「あいつが男子選手だったら、もしかしたら僕は引退を考えさせられていたかもしれません」

つまりは、引退を考えさせられるような選手には、出会ったことがないということか。


鍛錬に明け、鍛錬に暮れる


夕方には砂浜に出る。

下半身強化に加え、判断、反応を磨くビーチバレー。
体幹を鍛えるピラティス。

さらにホテルに戻って、縄跳びを2000回。
午後8時。ようやく1日のメニューが終了する。

朝のランニング開始から数えれば4部練習。これを約1カ月続ける。
そんな宮古島キャンプは、すでに13回目だという。

「せっかくなんで、夕飯でも行きましょう。タイミングによっては、そんなこともできないので」

葛西はそう言って、記者を行きつけの食堂へと誘った。
「これで疲れが吹っ飛ぶんですよ」と言って、真っ先にやぎの刺し身を注文する。

意外とくせがなく、うまい。顔に出たかもしれない。
それを見てか「臭みあると思ったでしょ?それがないのよ、ここの店のものは」とうれしそうに言う。


「ソチがオレに合わせてくる」


ゴーヤーチャンプルに、パパイアの炒め物。さらには、魚のバター炒め。
すべてがうまい。宮古島の観光大使を務める葛西の選んだ店に、間違いはなかった。

話が盛り上がってきたあたりで、同席していた土屋ホームの取締役、千田侑也さんがエピソードを提供してくれた。

「葛西さん、実はソチ五輪でのメダル獲得を、自分で予言していたんですよ」

葛西が笑って応じる。

「ああ、バンクーバー五輪が終わった直後だね」

「あれはびっくりしました。葛西さん、急に『ここからは、ソチ五輪に自分のピークを合わせるんじゃない。ソチがオレに合わせてくる』って言い出したんですよ」

2010年、バンクーバー五輪閉幕直後。
ソチ五輪まではまだ、丸々4年間も残っていた。

しかも、葛西は当時、6回の五輪出場で個人のメダルはゼロ。
「メンタルが弱く、五輪では力を発揮できない」とのレッテルを貼られてもいた。

それがなぜ、そんな強気なコメントを言うようになったのか。

「それまでは、五輪に5回も出ていたのに、1本たりともいいジャンプが飛べなかった。自分でも、メンタルが弱いと思っていました」

「それが、バンクーバーではラージヒルで1本、団体戦で1本、納得のジャンプが出た。自分は変わった。この2本をまとめれば金メダルだ。そう思ったんです」


気づきを仮説に、そして手法へ


バンクーバーのスターティングゲート。
葛西はスタートバーに座ると、息を深く吐き、そのまま呼吸を止めた。

「発見したんです。緊張して、心臓がバクバクいってしまうのを抑える方法です」

ある日、熱いサウナに入った後、水風呂にもぐって息を止めていると、脈の速さが急に落ち着く感触があった。
初めて味わう感覚。取りつかれたように、繰り返してみた。

気づきを仮説に発展させ、手法にする。
緊張が高まる大会のスタート直前に、呼吸を止めてみると、脈拍も精神状態も落ち着かせることができた。

「スタートシグナルが黄色に変わって6秒くらいから、息を止める。これだけで、僕は落ち着いてジャンプができるようになりました」


泣きながら書いたストーリー


縁がないと思っていた五輪で、初めて自分のジャンプができた。
しかも、2本も。

この2本を1競技に集めれば、金メダルは取れる。
そう思えたからこそ、葛西は「ソチが自分に合わせてくる」と言い切れた。

「バーッといいイメージが湧いてきたので、ノートに金メダルまでのストーリーとして書き留めました。前年にW杯で優勝して、いい流れをつくって、ソチで金メダルを取る。2本目を飛んで、金が決まって、ブレーキングトラックに大の字になって号泣する」

気持ちを入れて書くと、金メダルを取った気分になって、涙が止まらなくなった。
ノートに落ちる大粒の涙を、文字が消えないように丁寧に拭いながら、葛西はストーリーをつづり続けた。

それからは合宿中に瞑想をしても、自然と脳裏にはメダル獲得の場面が浮かんできた。
ソチでのメダル獲得は、そうやって4年前からイメージが固まっていたからこそ、成し得た偉業だったのだ。


"1本"さえ出たら、また金を目指せる


では、現在の葛西は、どんなイメージを浮かべているのか。

「今朝の瞑想も、平昌五輪のラージヒルが思い浮かびました」

苦笑いしながら、沖縄県では「シメ」の定番であるステーキを切り分ける。

「まだ、過去のことを振り返っている段階なのだと思います。それは、バンクーバー五輪の時のような納得がいくジャンプから、僕が遠ざかっているからかなと」

レジェンドシェア。鉄人自ら、肉を取り分ける。
自分の皿はきれいなままだ。実は最初に、脂身の少ないやぎの刺し身を食べたきりだった。

「1本でいい。納得のジャンプが出たら、きっと自然と4年後の北京五輪のことをイメージできるようになると思うんです」

ナイフとフォークを置くと、語気を強めて言う。

「そうなれば、また金メダルを目指して戦える」

「そういうゾーンというか、境地みたいなところとは、意外と紙一重なんですよね」

「平昌ではプレッシャーに負けましたけど、調子さえ良ければそういうのも関係なくなるんですよね。W杯でコンスタントにトップ10に入っていたら、不安なんかなかったはず」

帰りのタクシーが到着したと、お店のママが知らせに来た。
礼を言って、席を立つ。言葉は続ける。

「イメージが湧いてくれば、そういう風に仕上げていける。そうすれば、おのずと運、流れはめぐってくる」

「4年後に合わせるんじゃなく、4年の中で自分を仕上げる。あとは運に任せる。それが、メダルを取る人の歩む道です」


荒れた舗装、宮古市の路地裏。
昼の暑さから一転、夜風が涼しかった。

「後進に道を譲るべき、という声もあるんですよね。ネットとかで、そういう意見を目にしちゃうこともありますよ」

自ら、進退のことを口にした。

「でも、今の僕を見ていて、辞めると思います?」

いたずらっぽく、笑って見せた。

本人は守るとも、譲るとも思っていない。
視線は足元ではなく、世界の頂点に向けられ続ける。

「たとえ自分がかなわないと思う選手が出てきたとしても、『よし、一緒にやるか!』となるかもしれませんよ。団体戦なんか、金メダルのチャンスになるわけですし」

「なんにしても、譲るとかって、誰にとっても前向きな話じゃないでしょう」

夜空を眺める。月が明るかった。

「明日も天気が良さそうですね。楽しみだ」

合宿は続く。明朝6時45分、浜辺のランニングから。
13年間、続けてきたルーティンだ。

葛西は軽く手を振り、タクシーで夜道に消えていった。



(取材・文=塩畑大輔、撮影=佐野美樹、取材協力=土屋ホーム)


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