「ようやくスタートラインに立った感じですかね」
販売するスパイスセットの売り上げは好調で、メディアへの出演も増えている現在の状況について、スパイス料理研究家の印度カリー子はこう表現した。
現在23歳の彼女は、東京大学の大学院で香辛料の研究をする学生でもある。
2019年10月には、スパイス初心者のためのスパイスセットなどの販売を手掛ける会社「香林館」を設立した。
同社がスパイスの製造を委託する作業所があるのは、宮城県の柴田町。
この日は研究の合間を縫って、同所を訪れていた。
「んー!いい匂い!」
スパイスが入った数十個に及ぶ段ボール箱を前に、屈託のない笑顔で声を上げる。
隣の部屋には、店舗や通販で売られているスパイスセットも置かれていた。
そのひとつを指さすと、懐かしそうにほほ笑む。
「最初にできた商品がこれで、100個ずつ自宅に届くんです。当時は、売れなくてもいいやってくらいの気持ちでしたね。私が全部使うからって(笑)。本当に、大切なんです」
東京から柴田町へは、新幹線と在来線を乗り継いで約3時間。
なぜ大学院に通いながら、遠く離れたこの場所でスパイスを作るのか。
本人に現地を案内してもらいながら、思いを聞いた。
何度も断られた末に、たどり着いた町
幼い頃は東京に住んでいたというカリー子。
育ちは仙台だが、福島県にほど近い柴田町にはなじみがなく、「遊びに来たことがある程度」だったという。
当時は東京への憧れが強く、大学進学を機に上京した。
インドカレーにはまり、自らスパイスの調合まで行うようになった大学時代。
この頃に始めた料理ブログへの反響が大きく、スパイスから作るカレーをもっと身近なものにしたいという思いが強まり、オリジナルのスパイスセットの販売を手掛けるようになった。
売れ行きは順調で、規模を拡大しようと考えていた頃、壁にぶつかった。
スパイスセットの製造を委託する工場が、なかなか見つからなかったのだ。
当初は居住地の東京で工場を探していたが、すべて断られた。
スパイスの香りが強いことが主な理由だったが、そもそも実績の少ない大学生の話に真剣に耳を傾けてくれる人は少なかった。
諦めかけていたとき、手を差し伸べてくれた人物がいた。
インド料理「ビリヤニ」の普及活動を行い、ビリヤニキットを作っているビリヤニ太郎だ。
なぜスパイスカレーを世に広めたいのか、その魅力は何か。
カリー子はありったけの思いを込めて、彼に長文のメールを送った。
「一般家庭の主婦の方が手に取りやすい商品を作りたいという思いが、一番強かったですね。特に30〜40代の専業主婦の方は毎日のように料理を作っているから、マンネリ化しちゃうこともあると思うんです」
「そういう人に新しい文化として、スパイスカレーを知ってもらいたい。これがあれば無限にレパートリーが増えるし、絶対に楽しくなることを伝えたかった。それを激熱の長文メールに書きました(笑)」
その熱意が伝わり、ビリヤニ太郎から返事が届いた。
彼に紹介されたのは、柴田町にある「くりえいと柴田」という事業所。
「ここで無理だったら諦めよう」。そんな思いで、すぐに現地へ向かった。
「それまで何度も断られて、泣いて帰ることばかりでした。でも相談に行ったら、二つ返事でやりましょうと言ってくれたんです。失敗したらそのときに考えればいいし、次に生かせばいいからって」
「それで全てが始まったわけです。本当に、全てが」と、カリー子は語気を強めた。
「生きざま」が反映されたカリー子の商品
「くりえいと柴田」を運営している社会福祉法人「はらから福祉会」は、障がい者の支援活動を行っている。
同法人が運営する施設の一つに、しばらく使用されていないものがあった。
今後どう活用すべきか検討していた矢先に、カリー子のスパイス製造の話が舞い込んできた。
はらから福祉会の理事長・武田元氏は言う。
武田理事長
「我々がこだわっているのはたった一つ。障がいを持つ人が仕事をして、暮らせるだけの賃金を支払えるようにしたい。そのためには、特色ある商品を作らないといけない。そうしないと、価格競争に負けてしまうんです」
そういう意味で、カリー子のスパイスには魅力を感じた。
武田理事長
「彼女の商品には、生きざまが反映されているんです。他の誰でもない、カリー子さんでなければ表現できないストーリー性がある。そこが我々にとっては非常に魅力的だった。それがないと、いい商品は作れないと思うんですよ」
スパイスの原料となる植物はひとつひとつ形が違い、調合比も種類によって異なるため、機械化は困難。
全て手作業で行うからこそ、ここでしか得られない価値が生まれるとカリー子も考えていた。
そして2017年4月、ついに工場がオープン。
カリー子が大学3年になったばかりの頃だった。
障がい者の自立支援を行うはらからと、スパイスを広めたいカリー子。
違う理念を互いが理解し合うことで、協調関係が生まれた。
カリー子
「私の理念はスパイスを広めること。はらからさんの目標をちゃんと理解した上で、私は自分の理念を通します。はらからさんは私の理念を分かってくださった上で、協力してくださっている。そういう共存共栄の形になっているから、ベストな商品が生まれると思っています」
どちらの理念も叶えるためには、それぞれの目標が完全に分離していることが必要だと持論を語る。
カリー子
「例えば、障がい者の自立支援が私の目標の一つになったとすると、商品に『この商品は障がい者が作っています』って出すと思うんですね。それよりも商品を買って、よく調べたら、実は障がい者が作っていると知ってもらえる。その形の方が、お客さんにとってはベストだと思うんですよね」
そんな彼女に、はらからは全幅の信頼を寄せる。
武田理事長
「(カリー子のために)施設をまるごと使っちゃえと決めた頃には、この町はみんな、カリー子さんの魅力にすっかりのめり込んでいました」
武田氏はそう言うと、カリー子に温かいまなざしを向けた。
柴田町で「生まれて初めて」学んだこと
スパイス製造を委託してから3年が経ち、今では1日300セット以上を生産する。
柴田町との関わりも深くなり、2019年には、ふるさと納税返礼品の監修に携わった。
カリー子は同年10月、香林館株式会社を設立し、代表取締役に就任。
同社の拠点は、迷わず柴田町に置いた。
「柴田町に納税したかったんですよね。私がいっぱい働いて事業が拡大して、その税金が柴田町がより良くなるように使われるんだったら、もっと納税したくなるんじゃないかと思ったんです。それが、自分が働くモチベーションにもなるんじゃないかって」
「それに私一人が東京で活躍するよりも、町全体を一気に押し上げた方が、みんなベストになると思うんですよ。最初の利益はめちゃくちゃ少なくても、長い目でみると、絶対に崩せない関係性が築けるはず。私は今、その入口に立っているんです」
スパイス製造を引き受けてくれた恩があるとはいえ、東京に憧れていた彼女が、なぜここまで柴田町に強い思いを抱いているのか。
「19歳のときに印度カリー子が生まれて、その事実上の故郷が柴田なんです。生まれた場所が、ここなんですよ。ここの人たちが、そう思わせてくれたんです」
真っすぐな瞳で、そう話す。
「小さい頃、仙台に来たときは、周りとつながりがなかったんです。両親は東京生まれだったので、田舎ならではの深い人付き合いをしてこなかった。人に依存しない、迷惑を掛けないという、東京的な考え方で。私自身も、みんなハッピーだったらそれでいいじゃん、みたいな田舎的な考え方が好きじゃなかった。だから東京に出たんですよ」
「そんな私が宮城県に戻ってきたら、みんな無条件に支えてくださったんですよね。それは宮城県出身だからという理由かもしれないし、もし私がずっと東京で育っていたら、同じようなことが起きたか分からない。でも、こういうことがあるんだって、19歳のときに生まれて初めて学んだんです」
ブームが来る未来を見据えて
現在、カリー子の商品は東急ハンズの一部の店舗などでも販売されている。
刊行したレシピ本も好評で、順調に事業は拡大しているが、本人は冷静だ。
「ようやくスタートラインに立った感じですかね。回していくための歯車が、ようやくできたような」と分析する。
「スパイスカレーを作ったことがある人は、まだ日本の人口の0.01%以下だと思うんです。最低でも100人に1人が実践していて、スパイスも3種類くらい持っている。そのくらいベーシックな文化を作らないと、私の目標は達成したことにならない」
「そのためには『印度カリー子=スパイスカレー』くらいの共通認識にならないといけないと思うんです。例えば、魚の専門家といえば、さかなクンじゃないですか。印度カリー子も、そういう存在にならないといけない」
しっかりと手応えも感じている。
「今は興味関心が高い人たちがスパイスカレーを作るようになって、おもしろいよって言い始めている状況ですね。それが2年後くらいに一般家庭に広がり、スパイスカレーがブームだと言われる状態になる」
「そこを超えたときに、爆発的に市場が拡大して、パスタのように一般的なものになると思うんです。そのときに耐えられるような体制を、今から作っていきたい」
体制を整えるために必要不可欠なのは、信頼関係だと考えている。
現地に足を運べる回数は限られているため、スパイスを製造している施設利用者たちとの関係構築は課題でもある。
「利用者さんがどんな悩みを抱えていて、何が必要で、どんな仕事だったらやりたいかとか、見ているだけだと分からないじゃないですか。だから私も現場に入って、一緒に歩んでいく環境を作らないといけない。それがないと、いつか崩れるような気がするんです。それができて初めて信頼してもらえる気がします」
「利用者さんや取引先、そしてお客さんとの信頼関係。それがあれば、今後ブームが来て大手さんがスパイス作りに参入しても、やっぱりここのスパイスセットがいい、安心できるって言ってもらえると思うんですよね」
大学院の修了を来年に控えるカリー子。
一刻も早く柴田町でスパイス製造に専念したい思いが募る一方で、将来を見据えて、東京との2拠点化の構想も掲げている。
「東京はやはり情報の最先端なので、大きな魅力があります。東京のものをこっちに持ってきたいし、こっちのものを東京に持っていきたい。もっと言うと、世界のスパイス文化を日本に持ってきたい」
「私を介していろんな文化が交流して、みんながベストな形で文化を生み出していく。そのために、私はたぶん永遠に動き続けると思う」
ちょうど話を終えた頃、はらからが用意してくれた名産の豆腐が運ばれてきた。
カリー子は満面の笑みで、それを頬張る。
その姿は紛れもなく、柴田町の一員だった。
この町から日本全国の家庭へ。
カリー子の思いと共に、スパイスカレーが日常に根付く日は近いのかもしれない。
【取材・文 : 前田将博(LINE NEWS編集部)、写真 : 飯本貴子、動画 : 江草直人】
※ 取材は2019年10月に行いました。
お知らせ
LINE NEWS内の動画シリーズ「VISION」では印度カリー子が出演する「カレーに恋する女の子」配信中
・シリーズ詳細
https://news.line.me/issue/oa-vi-indocurryko/939e49df95b8
・カリー子がスパイス工場を訪れた「印度カリー子のスパイス工場です。」はこちら
https://lin.ee/vYcemBC