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もし私があの時、被災地に戻っていたら。女優・芋生悠、ふるさと熊本に同世代を訪ねる

2019年4月14日 11:00 LINE NEWS編集部

 
 
役者として身を立てる。
そう誓って上京してから、まだ数日のことだった。
 
 
午後9時過ぎ。芋生悠は自室のベッドでまどろんでいた。
まだ慣れない撮影。現場では気を張っていたが、帰宅した途端に緊張の糸が切れた。

立て続けにLINEメッセージの通知音がした。唐突に、現実に引き戻される。

何事か。けげんに思いつつ、スマホに手を伸ばす。東京でできたばかりの友人たちからだった。

「熊本、大変みたいだけど…」
「あなたのご実家は大丈夫なの?」

冗談めかした雰囲気はまったくない。いったい、何が起きた?
あわててテレビをつけると、アナウンサーが切迫した表情で原稿を読み上げていた。

反射的に、熊本の友人たちに電話をした。

「大丈夫!?」
「まだ揺れてる!何度も!やばい!やばい!」

繰り返される「やばい」という言葉。表現を選ぶ余裕すらないのだろう。
血の気が引くのを感じた。立ち尽くしたまま、友人の悲鳴を聞いていることしかできなかった。

2016年4月14日、熊本地震。
友人の1人が住んでいた熊本県・益城町では、震度7を記録した。そして16日未明には、再び最大震度7の地震が襲う。

直接死、関連死合わせて270人以上が犠牲になった。
想像だにしなかった、故郷を襲う大災害。東京のテレビでも、連日のように報じられた。



「もう一人の自分」を訪ねて


「すぐ帰る、と言ったんですけど、家族に止められました」

2019年4月8日、熊本市内。
移動の車中で、芋生悠がポツリと言う。

あれから3年。21歳になった。

今年はNHK大河ドラマ「いだてん」に出演。映画の公開も相次ぐ。
名もなき役者志望の女の子は、いまやブレークを期待される気鋭の女優になった。

そんな折、4月上旬のスケジュールに「熊本での映画撮影」を見つけた。
ふと思った。この3年、熊本に残った同世代は、どう過ごしていたんだろう。

「たった数日の差で、みんながつらい思いをしている時に、私は熊本を離れていた。それをなんとなく、負い目のように思ったりもするんです。私一人が熊本にいたところで、どうにもならないとは分かってはいるのですが」

そんな折、企画が持ち込まれた。

映画撮影の予備日を割いて、震災復興のために働く同世代のもとを訪ねる。彼女は「やります」と即答した。

もしも役者を目指さず、熊本に残っていたら。
そんな「もう一人の自分」を訪ねるような気持ちで、クルマに揺られる。



入職わずか2週間で起きた大災害


熊本市の中心部から、乗用車で40分。
着いたのは、益城町の役場だった。地震直後から現場に立ち続けてきた1人、益城町・危機管理課の岩本武継さんが迎える。

「14日の前震の時は町内の自宅にいたんですが、大げさではなく、妻の体が宙に浮きました。それくらい、下から突き上げてくる揺れはすさまじかった」

自宅は一部損壊。自らも被災者だが、それ以前に町の職員だという自覚がある。
家族の無事を確認すると、すぐに深夜の役場に向かった。

そこからはただ、対応に忙殺された。2日後に本震。被害は一気に拡大した。
「家が壊れた」「水道が出ない」。そんな住民の声が無数に寄せられる。それらに応じる一方、ダメージの少なそうな建物を選んで、避難所を整える。

「自宅に帰れたのは、半月後でした。その時にはすでに、ひどく壊れていた家の片付けも、ぜんぶ妻が済ませてくれていました」

自宅も被災しながら、町民のために尽くす。
ストレスを抱えた被災者に強い言葉を浴びせられることもあったが、それでも手を止めず、仕事を続けた。

「それは、職員の務めですから」と事もなげに言う。

「ただ、若い職員は大変だったと思います。地震直前に入職して、たった2週間で地震が起きた。仕事を覚える前に、平時とは違う対応を迫られたんです」

そこまで説明すると、岩本さんは一人の女性職員に話を譲った。



復興の最前線に立っていた「同級生」


村上さん

初めまして。復興企画係の村上萌々香といいます。

芋生悠

初めまして。芋生です。よろしくお願いいたします。地震の時に入職されたということですが、今はおいくつなんですか?

村上さん

21歳です。

芋生悠

そうなんですね!まったくの同い年です!

芋生悠が益城町からほど近い、県立大津高校に通っていたこともある。
「○○さん知ってます?」「あ!知ってる!」。共通の話題は多く、あっという間に打ち解けた。

芋生悠

村上さんはどんなお仕事をされていたんですか?

村上さん

家屋被害認定調査班というところにいました。調査員がつくった資料の審査や、調査の進捗管理が仕事で。

そう言うと、村上さんは当時の「仕事場」だった旧・公民館に芋生悠を案内した。
地震のダメージを受けたため、避難所としては使えなかった建物。5月には解体されることも決まっている。

村上さん

一番覚えているのは、ここで全国から支援に来てくださった各自治体のベテラン職員さんたちと働いたことですね。

芋生悠

公務員として先輩の皆さんですね。仕事を教えてくださったということですか?

村上さん

いえ。私が指示を出させていただかなくてはいけなくて…。

芋生悠

えっ?まだ10代だった村上さんが?

村上さん

はい。町の中のことは私たちにしか分からないし、特別な計算方法とかもあって、益城町側から指示をさせていただかなくてはいけなくて。役場には人手の余裕があるわけではないし、やれる者でやるしかなかったんです。


「たくましくなったのかもしれません」


全国から集まった、数十人の職員に指示をして、調査票の審査の仕方を説明する。飛び交う質問に対応する。

自信がなさそうな様子では、安心して仕事をしてもらうことはできない。村上さんは精いっぱい気を張って、年長者たちの前に立ち続けた。

芋生悠

そんな…。本当に、大変だったんですね。

村上さん

皆さんにそう言われるんですけど、私は自分が大変な立場だとは感じていなかったんですよね。正直なところ、あまり。

芋生悠

えっ?そうなんですか?

村上さん

確かに、通常の業務はできなかったし、仕事は深夜に及びました。ただ当時は、大変じゃないことの方がほとんどなかったので…。多少のことは大変だと感じなかったというのはあるかもしれません。

芋生悠

なるほど…。まあ、そうなんでしょうけど、たくましい…。

村上さん

そうですね。たくましくなったのかもしれません。もともと、人と話をするのが苦手だったんですけど、必要に迫られるとそんなことは言っていられなくて。

芋生悠は村上さんにいざなわれ、公民館から眼下の川沿いへとおりて行った。
散り際のサクラが美しい。「すてき」。思わずつぶやく。

芋生悠

地震がなかったら、どんな社会人生活を送っていたと思いますか?

村上さん

はい、たまに自分も考えるんですが…。想像もつかないですね。被災したこの町で、現実の中で3年がたって、もう以前とは違う自分がいるので。

すれ違う町民が「あの人、見たことある」と言い合っている。
芋生悠のことではなかった。村上さんが笑顔で、軽く会釈を返す。

芋生悠

すごいですね。みんなに覚えられている。

村上さん

先輩職員からも「村上さんは知らない方でも声をかけやすい雰囲気だよね」って言われます。震災前、人付き合いを避けていた自分とは、少し変わったのかなと思います。



地震を経験していなくてもできること


「ニコニコしていてすてきなだけじゃなく、芯が強くて立派な方でした」

益城町役場からほど近い「益城ファーマーズヴィレッジ」。
芋生悠は地元の農産品を扱うカフェでランチを注文すると、しばし物思いにふけった。

「村上さんも3年前は、私と同じような普通の女の子だったんですかね…」

地震後、東京で活動を続けてきた芋生悠だが、熊本のことはひと時も忘れたことはない。
チャリティー映画イベントを自主開催するなど、ふるさとの復興のために、自分ができる限りのことをやろうとしてきた。

でもやっぱり、復興の力になれるのは、地震を現地で経験した人だけなのかー。

村上さんの話を聞くにつれ、同い年なはずの背中が大きく、遠く感じられた。
少しだけ、後ろ向きな気持ちになってしまったかもしれない。

しばらくすると、注文したメニューが席に届いた。熊本名産、あか牛を使ったどんぶり。

「おいしい」。顔がほころぶ。少し心がほぐれた。ふと、カフェの隣に県産品の販売コーナーがあるのに気が付いた。

食事を終え、のぞいてみる。ぱっと表情が明るくなった。
「私だ!私がいる!」。店先に、益城町産のサツマイモ「紅はるか」が並んでいた。

「お芋で、はるか。芋生悠そのものですね!」

店員の向井翼さんが説明してくれる。

「ここは空港も近いので、お土産に買っていってくれる観光客の方もすごく多いんですよ。さっきも海外の方が買ってくださって。そうやってそれぞれの地元に戻られた後に、県産品の良さを広めてくださるというのは、熊本にとってすごくいいことだなと」

そうか。熊本に住んでいない、地震を体験していない人だからこそ、復興の後押しができるという部分もあるのか。

訪れた観光客は熊本の現状を知ったり、県の魅力に触れたりする。
地元に戻って、それを「広く伝える」ことで、熊本を知りたい、応援したいという人が増える。

それならば、自分にもできることはあるかもしれない。
村上さんのように復興の最前線に立ってきたわけじゃない自分にも。

同じ20代の店員が熱っぽく語るのを聞いて、そんなことを思った。



伝え続けることで、切り開かれた運命


堀江記者

そうですね。広く伝える。そこにはとても大きな意味があると思います。

昼食を終えた芋生悠は、市内に戻り、地元紙・熊本日日新聞の本社を訪れていた。
20代の3年間を被災地の取材にささげた社会部・堀江利雅記者が出迎えてくれた。

芋生悠

地震が起きた時は、阿蘇・高森支局にいらっしゃったんですね。

堀江記者

はい。特に被害がひどかった南阿蘇村も管轄でした。地震後は、毎日が被災者の皆さん、ご遺族の皆さんの取材で。

被害にあった人に根掘り、葉掘り聞く必要があるのか。実名を出し、顔写真までさらすのか。
事件や事故、災害の際のマスコミの取材方針というのは、そうやって世間から批判されることが多い。

もし、自分がその仕事を命じられたなら。そんなことを想像した芋生悠は、思わずうつむいてしまった。

堀江記者

そうなんですよね。思っていたよりも、取材ははるかに難しかった。ただ、それでもやらなくてはいけない理由というのを、私は取材の中で見つけることができたんです。

熊本地震では、多くの人が「見つからない」とあきらめた行方不明者が1人いた。
警察すら、捜索を打ち切った。

両親は途方に暮れそうになりながらも、自力で捜索を続けた。
そんな2つの小さな背中に寄り添い続けたのは、20代の地元紙記者。

彼が証明したのは、「伝え続けること」で切り開かれる運命もある、ということだった。

(つづく)

【取材・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)、撮影=宮川勝也、取材協力=NPO法人ユアアクション】

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