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記者は遺族に寄り添う。学生は語り部を続ける。芋生悠、熊本のために私達ができること

2019年4月16日 11:00 LINE NEWS編集部

 
2016年4月16日未明。非常に強い揺れが、熊本を襲った。

わずか28時間前に、最大震度7という激震が爪痕を残したばかり。
そこにマグニチュード7.3という、阪神・淡路大震災と同規模の大地震が起きた。

熊本県南阿蘇村では、全長206メートルの阿蘇大橋が崩落。
橋の直下にあった断層が大きく動いたことで、アーチ部分が文字通り、谷底へと消えた。

「確か、そこに巻き込まれて、大学生が亡くなられていましたよね。今の私と同じくらいの年齢の方…」

女優・芋生悠は、当時の報道を思い返して、ポツリと言った。
訪問先の熊本日日新聞本社。当時被災地を取材していた堀江利雅記者が応じる。

「はい。大和晃さんですね。まさに今の芋生さんとほぼ同じ22歳でした」

取材ノートを開いて、当時を振り返る。その手元を見ながら、芋生悠はふと思った。

乾きジワで、紙がゆがんでいる。そうか。確か地震直後の熊本には、強い雨が降っていた。



信じてもらえたから、書き続けた


堀江記者

私が大和晃さんのご両親に初めてお会いしたのは、南阿蘇村の役場でした。どうやって捜索依頼をすればいいのかと、途方に暮れていらっしゃったところをお見掛けして。

だいぶ迷ったが、声を掛けた。捜索依頼の要領を教えるだけではない。
周辺住民からの情報提供のきっかけになるかもしれない。話を聞かせてもらえれば、熊本日日新聞で記事にします。そう持ち掛けた。

芋生悠

それで、ご両親は取材に応じてくださったんですか?

堀江記者

すぐに、というわけにはいかなくて。半信半疑になるのも無理はない。ただ、いろいろな事例も交えてご説明していくうちに「それなら話します」と。

報道は報道を呼ぶ。大和晃さん行方不明の情報は、一気に世に広まった。
ただ、捜索にプラスになるような情報提供には結びつかなかった。

程なくして、大和晃さんは「熊本地震唯一の行方不明者」となった。
そして、梅雨の時期が迫ると、行政は捜索を打ち切った。水害による二次被害の危険性が高い場所だったからだ。

両親は、自力で息子を探し続けると言った。

しかし、行政の力を借りずに見つけるのは難しい。先が見えなくなったと判断した媒体の中には、取材をしなくなったところもあった。

芋生悠

堀江さんは、どうされたんですか?

堀江記者

記事を書き続けました。地震からの4カ月で、30本くらいは。

芋生悠

ええっ!そんなに!…なぜ、そこまで書き続けられたんですか?

堀江記者

それはやっぱり、信じてもらえたからだと思います。

堀江記者、当時28歳。まだ若く、記者経験も浅かった。
報じる意義というものを、まだ自分の中で整理しきれてもいなかったという。

それでも、分かった。
大和晃さんの両親は、マスコミを信じてくれた。それには何としても応えないといけない。



「せめてもの願い」をかなえた力とは


2016年7月。
全国規模の報道が減る一方で、「私的な捜索」の規模は大きくなっていた。

地元・熊本では、大和晃さんのことは忘れられてはいなかった。
堀江記者による記事が、頻繁に掲載されている。

だから週末のたびに、有志が南阿蘇を訪れる。
行政の捜索が打ち切られた直後、現場にいたのは両親2人と取材する堀江記者だけだった。それがいつしか、30人を超えるまでになった。

堀江記者

その中に、登山愛好家の皆さんが加わりました。その方たちが、降りていくのが非常に難しい谷底の捜索に協力してくださった。そこでついに、大和晃さんの乗用車が見つかったんです。

芋生悠

そうだったんですね。堀江さんもその場にいらっしゃったんですか?

堀江記者

はい。その日、マスコミは自分しかいなかったので「これこそ早く報じないと」と記事を書きました。それを受ける形で行政も捜索を再開してくれました。

3週間後。埋もれていた乗用車の中から、大和晃さんの遺体が見つかった。
冷たい土砂の中から連れて帰りたい。両親のせめてもの願いは、ようやくかなった。



送り続ける手紙。地元紙の「使命」


堀江記者

災害で苦しまれている方にあえて話を聞き、レンズを向ける「意義」というものを、私は教わった気がします。

堀江記者は芋生悠に、震災から2週間後に掲載されたという特別紙面を見せてくれた。

芋生悠

これは…。亡くなられた方ですか。

堀江記者

はい。熊本地震では50人の方が直接死という形で犠牲になられました。ご遺族にお願いをして、生前の写真とエピソードを集めてつくったのが、この紙面です。

不意に天災で将来を絶たれた人々。それぞれに愛する家族、人生の意味があった。
顔写真とエピソードが、それを強く訴えてくる。目頭が熱くなった。

堀江記者

警察発表を受け「犠牲者50人」と報じるだけでも、体裁は整います。それだけなら、取材をお願いしてご遺族からお叱りを受けることもなければ、世の中から批判されることもない。でもやっぱり、こうして報じるべきだと、私は思います。

芋生悠

はい。亡くなった方の人生は、数字では表現しきれない。この紙面を見せていただくと、よく分かります。自分の大事な人にも、こういうことが起こり得るとも思える。それこそが、災害への備えにつながるんでしょうね。

堀江記者

実はこの50人の中には、ご遺族から直接はお話を伺えていない方がいらっしゃいました。でも、うちはそのご遺族にずっと手紙を送り続けていて、地震から3年のこのタイミングで、ようやく取材に応じてくださることになりました。

芋生悠

そんなことがあるんですね!特別紙面をつくったら終わり、ではなく…。

堀江記者

はい。私たちは伝え続けます。地元紙には、地元で起きることのかわりに他の土地のニュースを報じて済ませる、というようなことはできませんから。



復興の一助に。世界大会の「単独開催」

 

移動のたび、芋生悠は車中で熱心にメモを書いていた。
「熱意」「使命感」。ここではそんなキーワードをつづる。

「皆さんから、絶対に忘れたくないお話を聞けているので」

そこに「若者に被災地を知ってもらうなら、前向きな話も必要」と書き加える。
別れ際、堀江記者からもらった助言だった。

それも受けて彼女が向かったのは、熊本市東区の「パークドーム熊本」。
今年の11月に開催される女子ハンドボール世界選手権大会のメイン会場だ。

芋生悠

屋内なのに、こんなに広いんですか!

熊本国際スポーツ大会推進事務局の福田彩夏さんが出迎える。
入職2年目、23歳。やはり、地震後の熊本で社会人生活をスタートさせた「同世代」だ。

福田さん

ここにつくるのはメインコート1面のみです。周囲に仮設のスタンドができます。

芋生悠

そうなると、かなり大きなスタンドになりますよね?どれくらいお客さんを入れられるんですか。

福田さん

約1万人です。熊本県では1997年に男子の世界選手権が開催されたのですが、その時も同じような設営をしました。大会期間を通した入場者数は、約28万人に達したとか。

芋生悠

えっ!そんなに!

今年は1月に男子の世界選手権が行われたが、ドイツとデンマークの共催だった。
スポーツ大国のドイツと、本大会で優勝することになった強豪デンマークでさえも、試合を分け合っての開催となった。

それが今回、日本のみ、というよりも熊本県のみで全96試合が集中開催される。
不思議にも思えるが、それはかつて28万人を集めた実績があるからこそなのだ。

芋生悠

確かに、私もハンドボールには親しみがあります。生まれ育った街は、社会人チームのオムロンの本拠地で。学校の授業でもハンドボールをやりました。

福田さん

あっ、ご出身、山鹿市ですか!オムロンからは日本代表も選ばれていますよね。

芋生悠

実はいま、撮影している映画も、ハンドボールを扱ったものなんです。私は高校の女子ハンドボール部の主将の役なので、毎日ボールを投げています。今も肩がバキバキに張っていまして…(笑い)

福田さん

そうでしたか!今回の取材もご縁ですね!

芋生悠

それにしても、地震があったことで、開催が危ぶまれたりはしなかったんですか?

福田さん

確かにこのパークドームも、屋根が落ちてきて一時は使えなくなっていました。ただ、3年の時間もありました。被災された方々を含めた県民みんなの「生きる力」につながるようにと、開催することになりました。

芋生悠

何十万人ものファンが県外や世界中から集まれば、それも復興につながるエネルギーになりますよね。

福田さん

はい。熊本の魅力が世界に広く伝われば、観光に来てくれる人が増えたり、熊本の県産品が海外でも愛されることにつながるかもしれません。そのためにも、何としても大会を成功させたいんです。



地震で消えた理想郷。南阿蘇の学生村


乗用車は、国道57号線を東に向かっていた。
目指す先は南阿蘇村・黒川地区。かつて東海大農学部のキャンパスがあった付近だ。

いまだに残る地震の影響で、通行止めの地点もある。目的地へは遠回りを強いられる。
少し南にある長陽大橋を渡る際には、阿蘇大橋が崩落した谷を一望することができる。

「傷痕、ですね」
凄惨な景色を抜けて、芋生悠を乗せた乗用車は山道を走る。

そこから5分ほどで、待ち合わせの長陽西部小学校跡地に到着した。
待っていたのは東海大農学部3年生の辻琴音さん。学生による復興支援団体「阿蘇の灯」の代表を務めている。

辻さん

私も21歳なんですよ。

芋生悠

まったくの同い年ですね!

辻さんは「語り部」として、全国から被災地を訪れる人々に熊本地震の記憶を伝える活動をしている。
さっそく、芋生悠を道端の看板の前へといざなう。

芋生悠

これは…アパートの地図ですか?

辻さん

はい。地震が起きるまで、ここには東海大の学生向けに、たくさんの下宿やアパートがありました。そうやって、約800人もの学生が暮らしていたので「学生村」と呼ばれていたんです。

芋生悠

そんなにいらっしゃったんですね!

看板に記されていたのは下宿12カ所、アパート56棟。
しかし現在は、多くが取り壊されてしまった。直接的に地震の被害を受けただけではない。

辻さん

ここから少し北に行った高台に、東海大農学部のキャンパスがありました。でも、地震後に農学部の機能は熊本市内に移転されたので、ここに学生が住む理由がなくなってしまったのです。

芋生悠

そうなんですね。こっちに農学部が戻ってこられるのって、いつ頃になりそうなんですか?

辻さん

おそらく、ずっと戻ってこられません。地震後の調査で、こちらのキャンパス内にはいくつもの断層が見つかりました。危険で、継続的に授業を行うことはとてもできない。そういう結論になりました。

芋生悠

そんな…。



多くの命を救った「親密さ」


辻さんが案内する先には、更地がたくさんあった。アパートを取り壊した跡地だ。
その中のひとつの前で、2人は足を止めた。

辻さん

木造アパートの2階に住んでいた学生が、地震で自室のドアが開かなくなって慌ててベランダに出たら、そのまま地上に降りられた。1階部分が完全につぶれてしまっていたからだそうです。

それはつまり、アパート1階に住んでいた多くの学生が生き埋めになったということ。
そのうち3人は、救助が間に合わずに亡くなってしまった。

辻さん

ただ、多くの学生が救出されたというのも、事実ではあります。大規模な救助活動が始まる前に、建物の下敷きになっていた学生はほとんど助け出されていて、到着された救助隊の皆さんも驚いていたとか。

地震直後、現場で救助に当たっていたのは、自室から避難できていた学生だった。だから、初動が早かった。
彼らは周辺のお年寄りなども、次々と救出していったという。

芋生悠

なぜ、そんなことが可能だったんですか?普段から防災意識が高かったんですか?

辻さん

いえ。先輩たちがおっしゃっていたのは「ひとえに、人と人とのコミュニケーションが密だったから」ということでした。

当時、周辺にはコンビニが1店舗しかなく、ファミレスやカフェなどもなかった。
ただ、それを不便として残念がるような風土は、学生村にはなかった。

辻さん

例えば「そうめん流しをやりたい」と誰かが言いだすと、何人かが集まってくる。やぶから竹を切り出してきて樋をつくって、本当に実現してしまう。村の暮らしは、そんな感じだったそうです。

そして、学生がそうめん流しで盛り上がっていると、地区の住民が「楽しそうだな」と言いながら寄ってくる。
夕方には、老若男女が集う村祭りのようになっている。そんなことも少なくなかったという。

辻さん

だから、黒川地区はみんなが顔見知りで、お互いのことをよく知っていました。地震が起きて、みんなが倒壊した建物の下敷きになった時も、近所の学生が「この人の部屋はベッドがここにあったから、この付近に生き埋めになっているはず」「この人は昨日から出かけているから心配ない」と見当をつけられた。

芋生悠

だから迅速に救助ができたんですね。このお話、全国の皆さんに伝えたいです。災害はいつ、どこで起きるか分からない。特に隣近所に住んでいる人の顔も分からない都会に暮らす人にとっては、すごく大事なお話かなと。

辻さん

そうですね。都会だと、いきなり村祭りみたいなのは、やっぱり難しいとは思います。まずはあいさつをしてみるところから。語り部イベントに来てくださる方には、そんなご提案をさせていただいています。



学生たちが語り部を続ける理由


そのアパート跡地は、辻さんにとって思い出深い地でもあった。

辻さん

下級生の時、ここで語り部を任せてもらったんですけど、まったく話ができなくて…。

芋生悠

そうだったんですか!今まさに、すごく分かりやすく話していただいたので、想像もつきません。

辻さん

代わってくれた先輩が、すごく上手にお話になるのを聞いて、涙が出てきました。地震を体験してないし、学生村に住んだこともない私には、やっぱり語り部は無理なのかな、って。

実は辻さんは、熊本地震を現地では経験していない。学生村も入学時にはなくなっていた。
思い返すと確かに、学生村や地震についての「語り」はすべて伝聞調だった。

身につまされる思いになった。私も直前に上京して、地震を経験せずに済んでしまったー。
同じような「負い目」を、辻さんも感じている。それだけに、聞かずにはいられなかった。

芋生悠

それでも、辻さんは今も語り部をされている。なぜ続けているんですか?

辻さん

学生村の暮らしに憧れているからです。

親元を離れてきた若者を、黒川地区の住民は皆、家族のように温かく迎える。
生まれる強い絆。多くの学生たちは卒業し、就職のために全国各地に散っていっても、年に何度も南阿蘇に"帰省"するようになっていた。

自分もそうなりたかった。辻さんの世代は、伝え聞く「学生村」の在り方に、強い憧憬を抱いている。
そして、多くの命を救った住民と学生との絆について、自分たちが語り継がなければならないという使命感を持っている。

だからこそ、先輩や地元の人々から熱心に話を聞き続けた。
そうやって語り部として独り立ちをし、学生村世代からバトンを受け取って活動を続ける。

辻さん

見えますか?新栄荘というアパートがありますよね。もう、住み着く学生もいないのですが、大家さんは「いつかまた、南阿蘇に東海大が戻ってきた時のために」と言って、下宿業を続けていらっしゃるんです。

芋生悠

そうなんですね…。部屋が埋まらなければ、維持するだけでも大変ですよね。

辻さん

はい。でもその空き部屋に、南阿蘇に遊びに来た卒業生たちを泊めていたりされていて。私たちが語り部の活動でこっちに来た時も、拠点として使わせてくれたりするんです。

辻さんは時折、感極まって目に涙を浮かべる。
大家さんも。学生も。皆が「学生村の記憶」を守るために、懸命に生きている。



私にもできること


「みんなが、前に向かって進んでいました。本当にすごいなと感じました」

熊本市内に戻る車内。
一日のやり取りを書きとったメモを見ながら、芋生悠はポツリと言った。

「コミュニケーションが苦手だった益城町役場の村上さんが、全国のベテラン公務員さんが集う現場を切り盛りできるまでになった。たとえ記者経験が浅くても、堀江さんは熱意を持って伝え続けることで、遺族の方の心の支えになられた」

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昨日までなら、ただただコンプレックスを抱いたかもしれない。
しかし、地震を経験していない辻さんが、懸命に語り部の務めを果たす姿が、芋生悠を勇気づける。

きっと、学生を温かく迎え入れていた南阿蘇村のことが、心から好きになったからなのだろう。
そう思うと、出会った同世代の言葉が脳裏によみがえってきた。

村上さん

益城町の田園風景、私は大好きです。高い建物がないから、平地にいても、どこまでも見渡すことができる。

堀江記者

先月、大和晃さんのご両親にお呼ばれして、バーベキューをしてきました。熊本の人が好きだから、私は取材を頑張れるんだなと。

福田さん

観光もそうですけど、熊本にはおいしいものがたくさんあります。ハンドボール世界選手権をきっかけに、世界中の人に知ってほしい。

私だって熊本が好き。そこは胸を張って言える。
乗用車の後部座席で、熱っぽく語りだす。

「菊池渓谷って知ってます?ものすごくきれいで、水に飛び込まずにはいられないんです。南阿蘇の地獄温泉にも、一度は入っていただきたくて。どこよりもおいしい『いきなり団子』のお店だって、私は知ってます」

正直、上京するまでは、ここまで好きではなかった。
離れたからこそ、良さが分かった。そんな今の自分だからこそできること。それがはっきりと見えてきた。

「地震を経験していないことに、後ろめたさなんか感じる必要ないですね。私も熊本が好き。だから同世代の皆さんに負けないように、前に進まないといけない。そうじゃないと、熊本のためにはなれない」

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同世代に負けぬよう、役者としての仕事をつき詰める。
注目度、発信力が高まれば、それだけ熊本の魅力を伝えられるようにもなるのだ。

車窓の向こうで、熊本空港を飛び立った旅客機が高度を上げていく。
迷いのないまなざしを向けながら、語気を強めてつぶやく。

「負けるな、私」
白い頬が、窓から差し込む夕日に染まっていた。

【取材・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)、撮影=宮川勝也、取材協力=NPO法人ユアアクション】

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もし私があの時、被災地に戻っていたら。女優・芋生悠、ふるさと熊本に同世代を訪ねる

2019年4月14日 11:00 LINE NEWS編集部

 
 
役者として身を立てる。
そう誓って上京してから、まだ数日のことだった。
 
 
午後9時過ぎ。芋生悠は自室のベッドでまどろんでいた。
まだ慣れない撮影。現場では気を張っていたが、帰宅した途端に緊張の糸が切れた。

立て続けにLINEメッセージの通知音がした。唐突に、現実に引き戻される。

何事か。けげんに思いつつ、スマホに手を伸ばす。東京でできたばかりの友人たちからだった。

「熊本、大変みたいだけど…」
「あなたのご実家は大丈夫なの?」

冗談めかした雰囲気はまったくない。いったい、何が起きた?
あわててテレビをつけると、アナウンサーが切迫した表情で原稿を読み上げていた。

反射的に、熊本の友人たちに電話をした。

「大丈夫!?」
「まだ揺れてる!何度も!やばい!やばい!」

繰り返される「やばい」という言葉。表現を選ぶ余裕すらないのだろう。
血の気が引くのを感じた。立ち尽くしたまま、友人の悲鳴を聞いていることしかできなかった。

2016年4月14日、熊本地震。
友人の1人が住んでいた熊本県・益城町では、震度7を記録した。そして16日未明には、再び最大震度7の地震が襲う。

直接死、関連死合わせて270人以上が犠牲になった。
想像だにしなかった、故郷を襲う大災害。東京のテレビでも、連日のように報じられた。



「もう一人の自分」を訪ねて


「すぐ帰る、と言ったんですけど、家族に止められました」

2019年4月8日、熊本市内。
移動の車中で、芋生悠がポツリと言う。

あれから3年。21歳になった。

今年はNHK大河ドラマ「いだてん」に出演。映画の公開も相次ぐ。
名もなき役者志望の女の子は、いまやブレークを期待される気鋭の女優になった。

そんな折、4月上旬のスケジュールに「熊本での映画撮影」を見つけた。
ふと思った。この3年、熊本に残った同世代は、どう過ごしていたんだろう。

「たった数日の差で、みんながつらい思いをしている時に、私は熊本を離れていた。それをなんとなく、負い目のように思ったりもするんです。私一人が熊本にいたところで、どうにもならないとは分かってはいるのですが」

そんな折、企画が持ち込まれた。

映画撮影の予備日を割いて、震災復興のために働く同世代のもとを訪ねる。彼女は「やります」と即答した。

もしも役者を目指さず、熊本に残っていたら。
そんな「もう一人の自分」を訪ねるような気持ちで、クルマに揺られる。



入職わずか2週間で起きた大災害


熊本市の中心部から、乗用車で40分。
着いたのは、益城町の役場だった。地震直後から現場に立ち続けてきた1人、益城町・危機管理課の岩本武継さんが迎える。

「14日の前震の時は町内の自宅にいたんですが、大げさではなく、妻の体が宙に浮きました。それくらい、下から突き上げてくる揺れはすさまじかった」

自宅は一部損壊。自らも被災者だが、それ以前に町の職員だという自覚がある。
家族の無事を確認すると、すぐに深夜の役場に向かった。

そこからはただ、対応に忙殺された。2日後に本震。被害は一気に拡大した。
「家が壊れた」「水道が出ない」。そんな住民の声が無数に寄せられる。それらに応じる一方、ダメージの少なそうな建物を選んで、避難所を整える。

「自宅に帰れたのは、半月後でした。その時にはすでに、ひどく壊れていた家の片付けも、ぜんぶ妻が済ませてくれていました」

自宅も被災しながら、町民のために尽くす。
ストレスを抱えた被災者に強い言葉を浴びせられることもあったが、それでも手を止めず、仕事を続けた。

「それは、職員の務めですから」と事もなげに言う。

「ただ、若い職員は大変だったと思います。地震直前に入職して、たった2週間で地震が起きた。仕事を覚える前に、平時とは違う対応を迫られたんです」

そこまで説明すると、岩本さんは一人の女性職員に話を譲った。



復興の最前線に立っていた「同級生」


村上さん

初めまして。復興企画係の村上萌々香といいます。

芋生悠

初めまして。芋生です。よろしくお願いいたします。地震の時に入職されたということですが、今はおいくつなんですか?

村上さん

21歳です。

芋生悠

そうなんですね!まったくの同い年です!

芋生悠が益城町からほど近い、県立大津高校に通っていたこともある。
「○○さん知ってます?」「あ!知ってる!」。共通の話題は多く、あっという間に打ち解けた。

芋生悠

村上さんはどんなお仕事をされていたんですか?

村上さん

家屋被害認定調査班というところにいました。調査員がつくった資料の審査や、調査の進捗管理が仕事で。

そう言うと、村上さんは当時の「仕事場」だった旧・公民館に芋生悠を案内した。
地震のダメージを受けたため、避難所としては使えなかった建物。5月には解体されることも決まっている。

村上さん

一番覚えているのは、ここで全国から支援に来てくださった各自治体のベテラン職員さんたちと働いたことですね。

芋生悠

公務員として先輩の皆さんですね。仕事を教えてくださったということですか?

村上さん

いえ。私が指示を出させていただかなくてはいけなくて…。

芋生悠

えっ?まだ10代だった村上さんが?

村上さん

はい。町の中のことは私たちにしか分からないし、特別な計算方法とかもあって、益城町側から指示をさせていただかなくてはいけなくて。役場には人手の余裕があるわけではないし、やれる者でやるしかなかったんです。


「たくましくなったのかもしれません」


全国から集まった、数十人の職員に指示をして、調査票の審査の仕方を説明する。飛び交う質問に対応する。

自信がなさそうな様子では、安心して仕事をしてもらうことはできない。村上さんは精いっぱい気を張って、年長者たちの前に立ち続けた。

芋生悠

そんな…。本当に、大変だったんですね。

村上さん

皆さんにそう言われるんですけど、私は自分が大変な立場だとは感じていなかったんですよね。正直なところ、あまり。

芋生悠

えっ?そうなんですか?

村上さん

確かに、通常の業務はできなかったし、仕事は深夜に及びました。ただ当時は、大変じゃないことの方がほとんどなかったので…。多少のことは大変だと感じなかったというのはあるかもしれません。

芋生悠

なるほど…。まあ、そうなんでしょうけど、たくましい…。

村上さん

そうですね。たくましくなったのかもしれません。もともと、人と話をするのが苦手だったんですけど、必要に迫られるとそんなことは言っていられなくて。

芋生悠は村上さんにいざなわれ、公民館から眼下の川沿いへとおりて行った。
散り際のサクラが美しい。「すてき」。思わずつぶやく。

芋生悠

地震がなかったら、どんな社会人生活を送っていたと思いますか?

村上さん

はい、たまに自分も考えるんですが…。想像もつかないですね。被災したこの町で、現実の中で3年がたって、もう以前とは違う自分がいるので。

すれ違う町民が「あの人、見たことある」と言い合っている。
芋生悠のことではなかった。村上さんが笑顔で、軽く会釈を返す。

芋生悠

すごいですね。みんなに覚えられている。

村上さん

先輩職員からも「村上さんは知らない方でも声をかけやすい雰囲気だよね」って言われます。震災前、人付き合いを避けていた自分とは、少し変わったのかなと思います。



地震を経験していなくてもできること


「ニコニコしていてすてきなだけじゃなく、芯が強くて立派な方でした」

益城町役場からほど近い「益城ファーマーズヴィレッジ」。
芋生悠は地元の農産品を扱うカフェでランチを注文すると、しばし物思いにふけった。

「村上さんも3年前は、私と同じような普通の女の子だったんですかね…」

地震後、東京で活動を続けてきた芋生悠だが、熊本のことはひと時も忘れたことはない。
チャリティー映画イベントを自主開催するなど、ふるさとの復興のために、自分ができる限りのことをやろうとしてきた。

でもやっぱり、復興の力になれるのは、地震を現地で経験した人だけなのかー。

村上さんの話を聞くにつれ、同い年なはずの背中が大きく、遠く感じられた。
少しだけ、後ろ向きな気持ちになってしまったかもしれない。

しばらくすると、注文したメニューが席に届いた。熊本名産、あか牛を使ったどんぶり。

「おいしい」。顔がほころぶ。少し心がほぐれた。ふと、カフェの隣に県産品の販売コーナーがあるのに気が付いた。

食事を終え、のぞいてみる。ぱっと表情が明るくなった。
「私だ!私がいる!」。店先に、益城町産のサツマイモ「紅はるか」が並んでいた。

「お芋で、はるか。芋生悠そのものですね!」

店員の向井翼さんが説明してくれる。

「ここは空港も近いので、お土産に買っていってくれる観光客の方もすごく多いんですよ。さっきも海外の方が買ってくださって。そうやってそれぞれの地元に戻られた後に、県産品の良さを広めてくださるというのは、熊本にとってすごくいいことだなと」

そうか。熊本に住んでいない、地震を体験していない人だからこそ、復興の後押しができるという部分もあるのか。

訪れた観光客は熊本の現状を知ったり、県の魅力に触れたりする。
地元に戻って、それを「広く伝える」ことで、熊本を知りたい、応援したいという人が増える。

それならば、自分にもできることはあるかもしれない。
村上さんのように復興の最前線に立ってきたわけじゃない自分にも。

同じ20代の店員が熱っぽく語るのを聞いて、そんなことを思った。



伝え続けることで、切り開かれた運命


堀江記者

そうですね。広く伝える。そこにはとても大きな意味があると思います。

昼食を終えた芋生悠は、市内に戻り、地元紙・熊本日日新聞の本社を訪れていた。
20代の3年間を被災地の取材にささげた社会部・堀江利雅記者が出迎えてくれた。

芋生悠

地震が起きた時は、阿蘇・高森支局にいらっしゃったんですね。

堀江記者

はい。特に被害がひどかった南阿蘇村も管轄でした。地震後は、毎日が被災者の皆さん、ご遺族の皆さんの取材で。

被害にあった人に根掘り、葉掘り聞く必要があるのか。実名を出し、顔写真までさらすのか。
事件や事故、災害の際のマスコミの取材方針というのは、そうやって世間から批判されることが多い。

もし、自分がその仕事を命じられたなら。そんなことを想像した芋生悠は、思わずうつむいてしまった。

堀江記者

そうなんですよね。思っていたよりも、取材ははるかに難しかった。ただ、それでもやらなくてはいけない理由というのを、私は取材の中で見つけることができたんです。

熊本地震では、多くの人が「見つからない」とあきらめた行方不明者が1人いた。
警察すら、捜索を打ち切った。

両親は途方に暮れそうになりながらも、自力で捜索を続けた。
そんな2つの小さな背中に寄り添い続けたのは、20代の地元紙記者。

彼が証明したのは、「伝え続けること」で切り開かれる運命もある、ということだった。

(つづく)

【取材・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)、撮影=宮川勝也、取材協力=NPO法人ユアアクション】

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