「本当に高校時代のスタジオの雰囲気と変わってないんです。それを考えると感慨深いですね。これからもこうやっていくのかなって」
1994年のメジャーデビューから、今年で25周年を迎えたGLAY。
1988年、当時高校生だったTAKUROとTERUを中心に、地元である北海道・函館で結成。
その後、HISASHI、JIROが加入して現メンバーがそろった。
バンドをけん引してきたリーダーのTAKUROは、回顧しながらこう語る。
「また新しいアイデアが浮かんで、みんなに聞かせたらどんな顔するかなっていうワクワク感があって、自分たちは意外と25年という長い月日を意識していないのかもしれないですね」
1997年に発売した初のベストアルバムは500万枚近い売り上げを記録。
1999年には千葉・幕張メッセ駐車場の特設会場で開催した単独ライブに20万人を動員するなど、不動の地位を築き上げた。
以来、日本の音楽シーンのトップに立ち続けている。
20万人ライブから20年たった今年も、2日間の埼玉・メットライフドーム公演を完売させるなど、人気は衰えない。
リーダーという存在がありながらも、バンド運営においてずっと4人全員の意志を尊重してきた。
そんなGLAYが25周年のテーマとして掲げたのが「DEMOCRACY」(民主主義)だった。
決して順風満帆なことばかりではなく、所属していた事務所とのトラブルや解散危機もあった。
これまで4人の"デモクラシー"をどう守り、25周年にたどり着いたのか。
TERU、JIRO、TAKURO、HISASHIの4人が語った。
GLAYの歴史の中で一番大きな壁
GLAYはもともと「4人がボーカリストみたいなバンドにしたいと思って作られた」とTERUは話す。
特定のメンバーに光が当たるのではなく、「4人の個性が輝けるバンドにしたい」というTAKUROの意向もあった。
しかし1994年のメジャーデビュー当時は、バンドと言えばボーカルとギターがフィーチャーされ、ベースとドラムは裏方的な扱いをされる風潮があったという。
それに倣おうとしたマネジメント側との「戦い」を経て、GLAYの軸は形成されていった。
1996年の「グロリアス」「BELOVED」、1997年の「HOWEVER」など、作品を次々とチャート上位に送り込む。
そんな中で発売したベストアルバム「REVIEW〜BEST OF GLAY〜」は、当時の日本記録を塗り替えるほどの爆発的なヒットとなった。
この頃から、必然的に関わるスタッフの数は一気に増えていく。
次第に、4人の意志ではコントロールできない部分も多くなっていった。
TAKURO「売れたいと思ってデビューのチャンスをつかみ、実際に売れたってときのおぼつかなさ。あれがたぶん、これまでの歴史の中で一番大きな壁だったんじゃないかな」
TERU「周りの環境が変わりすぎて、ついていけない感じはありましたね」
TAKURO「JIROなんかは、自分が目指していたロックバンド像と違うってずいぶん悩んでいました。TERUはとにかくマシンみたいに、声が出ようが出なかろうが、次から次へとスケジュールをこなしながら歌っていくっていう」
TAKURO「そんな状況を解消したかったけど、俺は当時20代後半で、リーダーって割には知恵も言葉もない。安定してたのはHISASHIくらいじゃないかな」
20万人ライブ後に決めていた「解散」
デビュー5年目の1999年には、幕張メッセで20万人を動員したライブ「GLAY EXPO '99 SURVIVAL」を開催。
単独アーティストによる有料コンサートとしては、日本のみならず、世界最大の動員数となった。
さまざまな記録を塗り替えたこの公演。
一般紙が大きく取り上げ、NHKのニュースもトップで報じるなど、社会現象となった。
人気絶頂の中で、彼らが乗る新幹線や飛行機にはたくさんの人たちが押し寄せ、追いかけられることもあったという。
JIRO「正直、嫌でしたね。俺たちの音楽が評価されているのか、人気者だから支持されているのか分からなかったし、倍々ゲームで物事が大きくなりすぎていた」
TAKURO「ゴールのないマラソンみたいに思えたんです。ゴールがあるから踏ん張ったり、ペース配分ができたりするじゃないですか。でも、それが自分たちになかった」
TAKURO「俺たちだけじゃないですけどね。周りのスタッフたちも、みんなおかしくなっていった」
JIRO「それまでライブハウス、ホール、アリーナみたいに着実に上ってきていたものが、とんでもなくでかい20万人ライブになったときに、パニックになっちゃったんですよね。自分が把握できないくらいの規模になったことに、このままどうなっちゃうんだろうなって、楽しみではなく恐怖になった瞬間があった」
ライブの他にも、事務所が決めたメディア出演をこなすなど、忙しさはピークに達していた。
HISASHI「メンバーは音楽に向き合いたいのに、プロモーションが増えて、バラエティー番組に出ることが多くなったり。今思うとすごくいい番組もあったんですけど、あの頃は出たくない番組に出ているような感覚もあって」
HISASHI「このままだとGLAYの音楽を嫌いになりそうだなと思いましたね」
TERU「3年後まで、びっしり予定が決められているような状況でしたね。アルバムの構想も一切ないのに、来年のこの日にリリースとか書かれていたり。それを見て『みんなどうする?』って。精神的にもやられていた時期だと思うんです。そのときに『解散するか』みたいな話になって」
一度「リセット」するしかない。
そんな選択肢を取らざるを得ないほど、GLAYは危うい状態に陥っていた。
時間がかかっても、会社と戦っていこう
バンドを取り巻く環境が変わり、どんなに状況が悪化しようとも、彼らがかたくなに守り続けたものがある。
それは4人だけで過ごす時間だった。
ある日、所属事務所から、移動の負担を軽減するため「ひとり1台ずつ車を用意する」と提案されたことがあった。
TAKUROは即座に、それを断る。
忙しいからこそ4人で話し、互いの意識を共有する時間を、少しでも多く確保したかったからだ。
「解散危機」を救ったのも、そんな4人だけでの話し合いだった。
JIRO「メンバー4人で集まって話したときに、GLAYってバンド自体は大好きなのに、なんで俺たちは解散という選択肢を取らなきゃいけないんだろうねって」
HISASHI「4人の関係はずっと崩れていなかったから、もし事務所の人に嫌われても、また4人で一緒にやろうよって。そんな空気になったんですよ」
TERU「スケジュールに関しても、一度全部白紙に戻してもらって。時間はかかるかもしれないけど、会社と戦っていこうと。そういうことをしてきたので、今でも4人の結束力と絆が強いんだろうなって思いますね」
HISASHI「インディーズに戻ってもいいやって話してたら、逆に楽しくなってきちゃったんです。どこのレーベルがいいのかとか、こんなライブをやりたいねとか。だから、結局4人なんですよね」
TAKURO「いろんなスタッフや関係者がいるし、その人たちもGLAYを通じて自分を表現してるってことを知ってる。GLAYを使って自分の人生を楽しく豊かにしてほしいっていうのは、ずっと変わらないスタンスなんです」
TAKURO「でもひとつだけ言うならば、4人の人間関係にだけは触れてくれるなって。その瞬間に全てを失いますよって。その刃だけは、心の中にずっと持っていた気がしますね。そこだけいじらないのであれば、銀座のクラブで『俺はGLAYの担当だったんだよ』とか、『HOWEVERは俺が作った』とか、何を言ってくれても構わない」
100万人のファンより、この3人を失う方が怖い
最悪の危機を乗り越えた4人の絆は、その後も揺らぐことはなかった。
その一方で、JIROが抱えていた悩みは人知れず大きくなっていた。
一時は、脱退を考えるほどに追い詰められていたという。
2000年に行われ、合計約200万人を動員したロングツアー「GLAY ARENA TOUR 2000 "HEAVY GAUGE"」の最中だった。
TERU「ファンの子たちと対面できなくて、泣きそうな顔をしながらステージに上がっていた時期があったんです」
JIRO「どうにも駄目になった瞬間があって、それを察したTAKUROが『もし本当につらかったら、途中だけどツアーをやめてもいいからね』って言ってくれて」
TAKURO「そんなにいいことを言ったかどうか、俺は覚えてないんですけどね(笑)」
JIRO「そこで『あ、そうか』って。4人平等にがんばっていかないとって思っていたんですけど、駄目なときは他のメンバーに任せて、自分はのんびりいけばいいのかなって思えたんです。気持ちが一気に楽になりましたね」
TAKURO「100万人のファンを失うより、この3人を失う方が怖いんです。今でも。だからもし音楽業界にいられないなら、全然、別のことをやったり、ベンチャー企業を立ち上げたりしてもいい。とにかく一緒にいると人生が楽しいし、自分ひとりではできないことができるような気がする。それがブレなかったことは、自分でも誇らしいですね」
バンド結成から約30年の歴史の中で、メンバー同士の関係が悪化したことはないという。
良好でいられる理由を、本人たちはこう分析している。
TERU「4人とも函館出身で、友達から始まってることも大きいと思う。でもバンドマンである前に、みんなちゃんとした社会人であったっていうのが一番大きいんじゃないですかね。HISASHI以外は(笑)」
TERU「JIROもTAKUROもデビューする前は普通に仕事に就いてて、信頼を得て辞めるに辞められない状況になったり、僕も仕事を任されてビル1棟を建てたりとか。そういう意味で社会人として、自分の責任は自分で取れる人間が集まったのがGLAYなんじゃないかなって思います」
HISASHI「メンバー間でぶつかったときのかわし方も、みんなうまいんですよ。4人っていう団体なので、主張がある人についていけばいいと思うし、だったら自分はこういう面で楽しむことにするっていうシフトチェンジができる。ただぶつかるよりも、違う方面で自分の魅力を発揮した方が建設的じゃないですか。答えってひとつじゃなくて、2つも3つもありますからね」
俺以上にGLAYを好きな人は存在しない
2005年には、TAKUROが代表取締役を務める事務所「loversoul」を設立。
より理想的に活動できる環境を、少しずつ整えていった。
TAKURO「俺以上にGLAYを好きな人がこの世に存在しないってことに気づいたんですよね。俺は24時間GLAYのことを考えていても苦じゃないけど、事務所やレーベルの人は他にアーティストを抱えていたり、家庭や個人的な問題を抱えていたりする。そんな人たちに、自分の人生以上にGLAYのことを考えてもらうこと自体が間違ってると思うんです」
HISASHI「自分たちでやりたいことをやって、稼ぐ方法とかをメンバーが考えていくっていう。インディーズみたいだし、やりがいがありましたね。夏に長居スタジアム(大阪・ヤンマースタジアム長居)でライブをやるから、4人でこの番組に出た方がいいとか、今回のアルバムは制作費がかかっちゃったから、次のツアーで取り戻そうとか」
TERU「1年の中で、ちゃんとバランスを取ってね。フリーライブとか、これは絶対に採算取れないだろうってことをやるときにも、スタッフに損はさせないです。代わりに僕らの給料が、ファンのみんなの笑顔になるだけなので(笑)。メットライフドームも2日間やって、給料は笑顔ですから(笑)」
活動の拠点を移していく中で、前事務所とのいさかいが裁判に発展したり、ライブが思うようにできない期間もあったりした。
しかしそれらは、進むべき道が見えた彼らにとって「大きな壁」ではなかった。
TAKURO「正直、そのこと自体は仕事の中での出来事というか。皆さんと同じように、それぞれが抱えているいろんな案件を着地させるってだけだから」
TAKURO「ちょうど、その頃に子どもが生まれたので、バンドがちょっとゆっくりになり、9時に携帯の電源を入れて5時に切ることで子育てに集中できたし」
事務所設立を経て、楽曲など全てのコンテンツの権利を集約。
それにより、時代の変化にもスピーディーに対応することが可能となった。
HISASHI「音楽の形も、ビジネスも変わった。昔は良かったってだけだと、純粋に音楽を楽しめないんじゃないかなと思うんです。だからGLAYは、率先して新しいことをやっていこうって」
HISASHI「時代に合わせて、配信とかサブスクとか、メンバー4人が考える楽しいことを一緒になって面白がってやっているだけなんですよ。過去にはCCCD(コピーコントロールCD)っていう大失敗作もありましたけど(苦笑)。失敗したものはやめればいいわけだし」
実際にGLAYは時代の流れに取り残されることなく、音楽配信やYouTube、ニコニコ動画などを積極的に活用してきた。
その集大成とも言えるのが、2018年にリリースされた「GLAY」アプリ。
廃盤音源を含む楽曲や映像、書籍などを定額制で視聴したり読んだりすることができるこのアプリは、業界に一石を投じた。
ライブで毎回交わされる「ファンとの約束」
自分たちの活動環境を整えた先には、ファンが心から楽しめる空間を作りたいという4人共通の思いがある。
「GLAY」アプリも、新旧問わずのファンが納得できるようにとの思いから生まれたものだ。
GLAYは、ファンとの約束を守るバンドとしても知られている。
ライブの最後に毎回、TERUが観客に「行ってきます」と告げ、ファンが「行ってらっしゃい」と送り出す。
これは再会の約束でもある。
JIRO「何年かかっても、ちゃんと約束したからには行きましょうって。そういったスピリットはみんなありますね」
TAKURO「稚内から沖縄まで、なんならアジアや世界中どこでも、絶対にもう1回帰りたいですね。で、ただいまって言えるような健康なバンドでありたい。それは到底、守りきれない約束かもしれないけど、バンドの寿命が尽きるまではやりたいですよね」
歌いたかったのは「やるせない現実」
4人の意志を尊重しながら歩んできた25年。
しかし今年10月2日にリリースされたばかりの15枚目のアルバムには、その歴史に逆行するような「NO DEMOCRACY」という意外なタイトルがつけられていた。
パーソナルな言葉がリアルにつづられた楽曲が多く収録された同作。
ここには、TAKUROの強い思いが込められている。
TAKURO「僕が子どもの頃から聴いているロックミュージックって、不可能を可能にする勇気をくれる音楽であり、いくら願ってもかなわない夢ってものがあることも教えてくれた」
TAKURO「同時に、世界中にはまったくもって民主主義でなくデモクラシーのかけらもないような国もあるってことも、音楽を通して学んだんです」
だからこそ、「デモクラシーなバンド」であるGLAYにしか届けられないものがあると信じている。
TAKURO「そんなバンドが世界のノーデモクラシーを表せたら、バンド自体の生き方のメッセージになるかもしれない。そういう知らない現実をきっちりとシェアできるような、そういうアルバムを作りたいなって思ったんです」
「現実」の例として「今起こってる香港のデモの結果かもしれないし、対韓国との関係や、EUが抱えている問題かもしれない」と昨今の世界情勢を挙げる。
TAKURO「そんな大きな問題かもしれないし、ただ単に家族や恋人、友人たちとのいさかいかもしれない。GLAYという仲が良いとされる4人の中にも、憤りやたくさんの思いがある」
TAKURO「でもそこには、自分のことを貫こうとすればするほど、どうしても誰かを傷つけながら生きていかないといけないっていう、やるせない現実みたいなものがあるんですよね。このアルバムでは、それを歌いたかった」
50周年は乗り越えてみたい
25周年企画として、今後もベスト・アルバム「REVIEW II」の発売や、海外ロングツアー&ドームツアーの開催などが控えている。
それを終えた後も当然、バンドは続いていく。
バンドの存続は、ファンとの約束でもある。
2015年に行われた東京ドーム公演で、TERUが「絶対に解散はしません」と宣言した。
TERU「GLAYは夢を伝えて、有言実行していくバンドだと思うんです。解散しないという言葉を発した以上、それを実現させたいですね」
TAKURO「TERUがそう言うならって話は、3人でもしました。俺ら解散しないらしいから、そういうことでって(笑)」
HISASHI「解散する理由がないですよね。これだけ新しい音源も出るし、次々に新しいライブのアイデアもわくし」
25周年を迎えたことで「未来がまたパッと開けた印象がある」と、TERUは無邪気な笑みを浮かべる。
TERU「四半世紀なので、それを超えた瞬間に、半世紀も行けるなって。50周年は乗り越えてみたいですね。74歳くらいですけど(笑)。でもこの4人だったらやれるんじゃないかなっていう思いは、おぼろげながらあります」
TAKURO「それは僕も同じ気持ちで、死ぬまでGLAYをやりたいですね。最終的にGLAYが目指すところが何かって言われたら、高校時代に誘った創設者としての責任もあって、縁起でもないですけど、死ぬ間際に、GLAYに誘ってくれてありがとうとか、GLAYをやって良かったとか、そういう言葉をもらえたら大成功だなと」
TAKURO「ファンの人と共に歩んできたことは間違いない事実ではあるけど、4人で始まったものを最後に4人で終えるときに、そんな言葉が聞けたらなと、いつも思いますね」
「解散しないバンド」GLAYは、これからも新たな道を切り拓きながら、日本の音楽シーンをけん引していく。
【取材・文 : 前田将博(LINE NEWS編集部)、動画 : 水島英樹、写真 : メトロ。(ライティングデザイン : 茶山瑛理紗)】