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"復興に比べたら、Jリーグは遠くない"女川のクラブが挑み続ける理由

2019年3月10日 11:00 LINE NEWS編集部

身を切るように寒い真冬の雨の中、ピッチに掛け声が響く。

「足速い!」「ナイスキープ!」

東北社会人1部リーグのサッカークラブ・コバルトーレ女川の選手たちが、ボールを追って駆け抜ける。

「今日は暖かい方ですよ。普段はもっと寒い」「これくらい余裕」と選手たちが笑う。

クラブのホームタウンは宮城県女川町だが、選手の大半は県外出身。昼間は町内や隣の石巻市で働き、仕事終わりに集まって練習している。

ピッチ内でも軽口をたたきあう。一見、和気あいあいとした雰囲気。だがよく見ていけば、プレーには必死さがにじむ。


8年前の3月11日、午後2時46分。町は震度6弱の激震に見舞われた。
東日本大震災の本震だった。女川湾近くの商店街では叫び声や悲鳴が飛び交った。

長い揺れが収まり、安心したのもつかの間、海岸近くにいたタクシー運転手がやってきて叫んだ。
「何やってんだ!早く高台へ逃げろ!」
当時コバルトーレの選手だった檜垣篤典さんは振り返る。

檜垣さん

その運転手さんは、潮がみるみる引いていくのを見ていたんです。

すでに町は停電していた。信号機もついていない中、檜垣さんは車を走らせた。

町を襲う、どす黒く巨大な怪物


本震から約30分後、それは静かに訪れた。
最初は岸辺を浸すように、低い波がじわじわと迫ってきた。

吉田圭選手は、職場の仲間らと数人で避難していた。その中の1人は、足の悪いおじいさんに肩を貸しながら歩いていた。
「波、来たよ来たよ来たよ!早く早く早く!」
すぐ後ろまで波が迫り、慌てて高台へと逃げた。

襲ってくる波の勢いはやまず、どんどん水かさが増していく。あっという間に、どす黒く、大きな怪物のような姿に変わった。

高台に登った頃には雪も降りだした。振り返って見下ろすと、そこには津波に飲み込まれていく町の姿があった。

吉田選手

当時は海のそばに4階建ての長屋があったんです。1回目の津波が来て、引き波のときには、その長屋はもう無くなっていました。

避難した町民たちは、お互いに口を利くこともなく、ただ呆然と濁流の中に消えた町を見下ろすしかなかった。

日が暮れても、明かりはつかない。真っ暗な町に見えるのは、町立病院の自家発電による光だけだった。

津波が引き、太陽が昇ると、がれきだらけとなった町の姿が現れた。

当時の人口約1万人のうち、死者、行方不明者はあわせて、900人超。サンマの一大水揚げ地として知られた港町は、一瞬にして「東日本大震災で最も被災率が高い町」となっていた。


群れることしかできない無力感


朝が来ると、選手たちは仲間の安否を確認するために動きだした。携帯は圏外でつながらない。町を探し歩くしかなかった。

小さな町だったことが幸いだった。吉田選手たち最後の2人が合流する形で、全員の無事が確認できた。

しかし、それで何かが劇的に解決したわけではない。女川に来たばかりの若い選手にとっては、ほぼ未知の土地に裸で放り出されたようなものだった。

意を決して「仙台まで歩いて逃げる!」と言いだす者もいた。だが「70キロもある上に、道中どうなっているか分からない。死ぬ気か?」と言われ、天を仰いだ。

無力感にさいなまれながら、ただ群れていることしかできない。
若者が少ない町で、彼らは嫌でも周囲の目についた。だから、声を掛けられた。

「そこの若い人たち、手を貸してくれ」

断る理由もない。選手たちは求められるままに、山奥に取り残されたおばあさんを迎えにいったり、そこかしこのゴミを拾ったりと、ひたすら動き続けた。

「さすが、若い人は頼りになるね」と笑ってくれる人もいた。無性にうれしかった。

がれきの中で見つけた「居場所」


無力感、不安が消えていくことに、それぞれが気付きだした。必要とされている。自分たちの居場所がある。がれきだらけになった町の中で、期せずしてクラブが女川にある意義を考えさせられた。

「そう。これだけ若いメンバーがそろっているんだから、何かできることがあるよね」

そんな声が、自然と上がった。

選手たちは二手に分かれて支援活動を行うことにした。半分は給水車で水を配って回り、もう半分は寒さに震える人々のために、熱々の揚げかまぼこを作った。

吉田選手

今でも町の方々から「あんとき食った揚げかまは、うまかったなあ」と声を掛けてもらえます。


「クラブがなくなるかもしれない」


練習に使っていた総合運動場は避難所になり、グラウンドは砂利が敷かれて自衛隊の駐屯地になった。遊び場を失った子どもたちと一緒に、狭い公園でボールを蹴るしかなかった。

クラブ側からはこう告げられた。
「今後どうなるかは分からない。コバルトーレがなくなるかもしれない」
サッカーをするために女川へやってきた選手たちにとって、「女川を去る」という選択肢が生まれるのは当然の状況だった。

そんな中、女川に残る道を選んだ吉田選手やOBの檜垣さんは振り返る。
「あの状況で『じゃあ俺らは地元に帰るね』なんて言えなかった」

そこには、5年を過ごした女川への思いがあった。

2006年、クラブが発足したとき、町は決して応援ムードではなかった。突然やってきた"よそ者"に「何をやっているんだ」と疑問の声もあった。

須田善明町長

強豪校があるわけでもないですから、最初はみんな「こんなに小さい田舎町からJリーグ目指すなんて本気?」と驚いていました。

それでも選手たちはめげず、女川で仕事をしながら町の人々と触れ合い、地域のお祭りに参加した。「もっと何かできるのではないか」と清掃活動も始めた。

女川のために頑張る選手たちの姿を見て、町の人々も声を掛けてくれるようになった。発足から約5年がたった2011年、選手たちは"よそ者"ではなくなっていた。

そんなときに、町が津波で流された。みんな生活を取り戻すのに精一杯の状況。それは選手たちも同じだった。職場が津波に襲われ、営業できなくなってしまった選手もいた。

それでも、支援活動に没頭した。声を掛けてくれること、頼ってくれることが、支えになった。俺たちはここに「居場所」がある。自分たちこそ助けられている。そんな思いもあった。


町民が示してくれた、女川に暮らす意味


生活が少し落ち着き始め、サッカーができる環境も整ったのは、震災から半年がたった頃。しかし、町のみんなが大変な思いをした中で「今、サッカーをやっていいのか」という後ろめたさも感じていた。

そんな選手たちの背中を押したのは、町民たちだった。
「また、サッカーやってけろ」
自分たちがこの町に暮らす意味を、町民たちが再び示してくれた気がした。クラブは再び動きだした。

2011年9月、選手たちは復帰戦に向けて、週に1回から練習を始めた。12月には練習試合もできることになった。選手たちは仮設住宅に行き、パソコンで自作したビラを配って回った。

檜垣さん

屋内に居ずっぱりになっていたお年寄りの方などが、試合を見るために外に出て、少しでも元気になってくれたらいいなという思いがありました。

再びリーグで戦うために、一つ一つ準備を進めていった。

試合に使う女川町陸上競技場は、災害公営住宅に建て替えられることが決まっていた。そのため、ホーム戦を全てシーズンの前半に終わらせ、後半を全てアウェー戦にするという、異例の措置も必要になった。

大きなハンディはある。それでも選手、スタッフはリーグ復帰を急いだ。それこそが、自分たちがこの町に生きる意味だと感じていた。

そして震災から1年後、コバルトーレは東北社会人サッカーリーグ復帰にこぎ着けた。2012年4月、ホームで行われた復帰戦には500人以上の観客が集まった。

声援に包まれるピッチで、コバルトーレは対戦相手を圧倒。5-0と見事に勝利した。こんなにも多くの笑顔が、ひとつの場所に集まっているのは、きっと震災後初めてだろう。選手たちには、そう思えた。


受け継がれる、町民との「絆」


一緒に暮らし、手を携えて震災を乗り越えたことで、選手と女川町には絆が生まれた。クラブが町にある意義も見いだすことができた。

これからも、クラブと町が共に歩み続ける形をとりたい。そのためには、震災後に加入した選手たちにも「絆」や「意義」を感じてもらう必要がある。

そのために、クラブは積極的に若い選手を町に送り出す。2017年にコバルトーレに加入した、埼玉出身の副キャプテン・野口龍也選手は、タウン誌「んだっちゃ!」に載せる広告の営業として、飲食店や美容室、習い事の教室など、地域のお店を回っている。

もともとは警備の仕事をしていたが、コバルトーレの社長であり、タウン誌を発行する石巻日日新聞社の代表でもある近江弘一氏からコミュニケーション能力の高さを買われ、多くの町民と関わる今の職に就いた。

営業先でコバルトーレの選手と書かれた名刺を見せると、「コバルトーレなんだ!」と距離が縮まるという。

この日、野口選手が訪ねたお店「Resilience Bar」では、タウン誌に載せるメニューの写真撮影が行われた。コバルトーレカラーのドリンクや出来たてのパスタを前に、真剣な表情でカメラを構える。

バーの店主・近江久美子さんは、野口選手の仕事ぶりを「素晴らしい」と絶賛。初めて営業に来たときは、野口選手の肩を押さえながら撮影をアシストしていたというが、慣れてきたようで今回は順調に撮影が進む。

久美子さん

前回より上手になったじゃない。

野口選手

ありがとうございます!

2人の笑い声が響き、店内は和やかな雰囲気に包まれる。

野口選手

住めば都というか、町の人がすごく温かいんですよね。

先輩選手たちが作ってきた道をたどると、「女川と共に生きる意義」が見えてくる。町への思いが強くなるほどに、サッカーの練習にもより力が入る。そうしてクラブはリーグを勝ち上がった。


つかんだ切符、選手の涙と町民の笑顔


2017年11月、千葉県市原市のピッチに、女川の青い海と同じコバルトブルーを身にまとった選手たちが並んだ。

全国地域サッカーチャンピオンズリーグ決勝ラウンド第3戦、アミティエSC京都との対戦。スタンドでは、遠方から駆け付けてきたサポーターたちが、太鼓のリズムに合わせて「コバルトーレ!コバルトーレ!」とエールを送る。

どちらも点の入らぬまま、試合は終盤へ。3日で3試合という、ほかのカテゴリーではありえない連戦で、両チームとも疲弊しきっている。最後は「思い」が強い方が勝つ。それが地域リーグ決勝の戦いだ。

試合を動かしたのはコバルトーレだった。後半36分、MF高橋晃司選手のシュートに会場が沸いた。

残り時間を耐えきると、終了のホイッスルが鳴り響いた。コバルトーレの日本フットボールリーグ(JFL)昇格が決まった瞬間だった。

吉田選手はピッチで力強くガッツポーズし、客席に向かって深々とお辞儀をした。

「ようやくここまでこれた」

クラブ発足からの11年間が頭の中を駆け巡った。
人工芝も敷かれていない土のグラウンドで練習を始め、震災で窮地にも陥った。それでも前に進み続けてきた。

ベンチでラストを見守った野口選手は、初めてのうれし涙を流した。
「人生で一番うれしい瞬間だった」

コバルトーレの快挙に、女川町も活気づいた。JFL 2018年シーズン、石巻フットボール場で行われたホーム開幕戦には、過去最高となる1000人超えのサポーターが駆け付けた。

クラブを応援する松川さん親子も、「地域が明るくなった」と笑顔だ。

母・順子さん

震災のときは家が津波に流されたり、生後7カ月だった娘と野宿をすることになったりと、大変な思いをしました。でも、コバルトーレに元気をもらえました。

娘の美桜ちゃんは小学2年生に成長し、コバルトーレのサッカースクールに通っている。


復興に比べたら、Jリーグは遠くない


Jリーグ昇格も間近に思えた。
だが、現実は厳しい。いつも順調とはいかない。
2018年秋、わずか1年でのJFL降格が決まった。

しかし、彼らは諦めない。未曽有の大災害に襲われ、存続の危機にまで陥ったクラブだ。
「JFLから降格したからといって、コバルトーレがなくなるわけではない」
あの震災からの復興に比べたら、J3への道は決して遠くない。

コバルトーレのサッカーは、女川のためにある。震災後の復帰戦以上に、もっと多くの笑顔を集めなければ。だからこそ、クラブはすぐに「2020 Revival-Plan」を掲げた。

クラブが描くロードマップは、決して易しいものではない。今シーズンにリーグ戦を勝ち抜き、2020年シーズンにJFLへ復帰、2022年にはJ3参戦へ…最短ルートを目指して動き始めている。

阿部裕二監督

「5年後目指します、10年後目指します」ってやっていたら選手は引退してしまうし、応援してくださる人にもあきれられてしまう。

2021年には、J3の試合をする条件がそろったスタジアムが完成予定だ。それに見合うチームを、なんとしてもつくる。勝利への強い思いを抱きながら、選手たちは日々、ピッチを走る。


新たな世代へつなぐ「意義」


コバルトーレの活動は、新たな世代へもつながっている。
檜垣さんは2012年シーズンをもって、現役を引退した。

広島県出身。普通なら、地元に戻る。だが、教職の資格を取り、女川に残る道を選んだ。

檜垣さん

町が流されるという経験は、自分の価値観や生き方を大きく変える出来事でした。だからこそ、地元に帰る気にはならなかったんですよね。

「震災を乗り越えてきた同志」である女川町の人たちと共に生きる。
この町に生きる意義は、現役を退いてもまだある。そう思った。
だからこそ、女川で暮らし続けることを決めた。

檜垣さんの「意義」は、実はすでに形になっている。選手時代から、地域貢献の一貫としてサッカースクールを立ち上げ、コーチを務めていた。そこで小学生の頃からサッカーを教わっていたのが、千葉洸星選手だ。

女川で生まれ育った千葉選手は、小学校の卒業間近に震災を経験した。

千葉選手

8年たちましたが、あのときのことは鮮明に覚えています。卒業式の予行演習が終わって教室に戻り、反省会をしているときに大きな揺れが起きました。

机の下に隠れている間、味わったことがないほど長い揺れが続いた。びっくりして泣く子もいた。グラウンドに避難すると、先生たちがフェンスの前に立って、子どもたちに海を見せないようにしていた。

津波が襲ってくる。一緒に避難していた保育所の子たちの手を引き、総合体育館へと逃げた。

千葉選手

避難中に、自分たちが住んでいた地区が流されるところが見えて…なんとも言えない気持ちになりました。

千葉選手は震災後、中学生になったとき、コバルトーレのホーム戦を観戦した。休止を乗り越え、選手たちが戦う姿を見て、「自分も一緒にプレーしたい」と憧れを抱くようになった。

千葉選手

町民にとってコバルトーレは希望でした。震災を経験した中で、選手たちの活躍を見ると、気持ち的に救われる部分がありました。

そんな彼も20歳に成長し、今では立派なクラブの一員。恩師である檜垣さんの思いを受け継ぎ、町のために戦う「女川の男」になった。

何度窮地に直面しても、必ず立ち上がる。
コバルトーレの選手たちの志は、確かに受け継がれている。

コバルトーレ女川

2006年4月、宮城県女川町に発足。同年に石巻市リーグ優勝。翌07年に宮城県リーグ優勝で東北社会人リーグ2部南に昇格。11年3月、東日本大震災の影響で活動休止。12年、同2部南へ復帰し同1部昇格。17年、同1部優勝。その資格で出場した全国地域社会人チャンピオンズリーグでも優勝し、日本フットボールリーグ(JFL)昇格。18年、JFL16位で東北社会人1部に降格。22年のJ3参戦を目標に「リバイバルプラン」を進行中。

お知らせ

東北社会人サッカーリーグ1部
2019年シーズン開幕戦
コバルトーレ女川(宮城) vs. いわきFC(福島)
2019年4月14日(日) 11:00 KICK OFF
女川町総合運動公園 第2多目的運動場
入場無料
詳細は公式サイトにて。


【取材・文=奥村小雪(LINE NEWS編集部)、写真=大橋祐希、動画=滝梓】

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