「伝説になっちゃダメなんだよ。生きていかなきゃ、いつ死ぬか分からないんだから」
5年前に急性心不全で他界したbloodthirsty butchersの吉村秀樹が、生前に語った言葉だ。
あまりにも突然の死──
唯一無二の音を生み出し、ジャンルを超えた多くのアーティストから愛され続ける吉村は、自身の思いとは裏腹に「伝説」となってしまった。
残された人々は今、どのような思いを抱えているのだろうか。
ジャイアンな吉村さんが好きでした
── 浅野忠信
俳優業だけにとどまらず、SODA!やPEACE PILL、SAFARI、Rといった数々のバンド活動も行ってきた浅野。彼は吉村の訃報を知ったとき、こうつづっていた。
「俺はこの人にギターの音の作り方を教わったんだ」
もともとbloodthirsty butchers(以下:ブッチャーズ)が好きで、ライブを見に行っていた。
そんな中、ブッチャーズと共演する機会が訪れる。1998年にリリースされた手塚治虫のトリビュート・アルバムで「名も知らぬ星」という曲を一緒に演奏することになったのだ。
浅野が原曲を持ってきて、ブッチャーズがアレンジしていく。スタジオに入ると吉村は「これ使うといいよ」と、エフェクターを手渡してくれた。
それはギターサウンドにこだわる吉村の、ほぼ手作りによるもので、「ロボ秀」とマジックで書かれていた。
「ものすごーく良い音がするんですよ」
サングラスの下の瞳をキラキラと輝かせ、オモチャをもらった子どものように無邪気に笑う。
「『あ、これいただいたんだ』と思って、大切にしてたんだけど、ある日突然『返して』って言われて(笑)」
お金では買えない貴重なものだっただけに、ちょっぴり残念そうに語る。
「あの時のスタジオでも、吉村さんは延々とギターをいじってました。その分、本当に些細な違いが良くなってくるんですよね」
自分の中でしか感じられないものを感じて発見し続けること。職人気質な吉村から学んだことだ。
尊敬のまなざしを送るように、天を仰ぐ。
「バンドってやっぱり、簡単にやろうと思えばできちゃうというか。簡単なことを、ただこなす作業になりがちじゃないですか」
けれど、ブッチャーズは違った。吉村の姿を見て、バンドの難しさを実感した。
「吉村さんは一個一個、自分の弾いた音、跳ね返ってきた音、さらに違う何かを発見しながらやってるんですよね」
「だからブッチャーズの音楽は聞いててとても豊かだし、楽しいし、切ない気持ちになる…」
唇をキュッと結び、確かめるように、うなずきながら語る。音楽の中に景色が浮かぶのは、一つ一つ、音を積み重ねてきたブッチャーズの努力ゆえなのだろう。
だからこそ、一緒にスタジオに入ったことで、ある種の諦めもついた。
「やっぱりブッチャーズみたいなことはできないんだな」
しかし、この「諦め」はネガティブなことではない。むしろ、音楽活動の道しるべとなった。
「おんなじようなサウンドで勝負はできないな、じゃあ僕にできることはなんだろう?」
ブッチャーズのおかげで、自分らしさを体現できる音楽を目指すことができた。
吉村のギターサウンドに関して、もう一つ印象深いエピソードがある。渋谷で行われたライブイベントでの出来事だ。
その日は吉村の後輩にあたる北海道のハードコアバンド、SLANGが出演していた。吉村も訪れていて、客席とは別のフロアでお酒を飲んでいた。
SLANGが演奏を始め、微かに音が聞こえてくる。すると吉村は、眉間にしわを寄せてつぶやく。
「アイツら本当に…!」
そして突然、客席へと走り、そのままステージに乱入。アンプをガンガンいじってギターの音を変えたのだ。
「最初は『この人酔っぱらって何やっちゃってんの?』って思ったんですよ」
浅野は目をまんまるにして、その時の驚きを伝える。
「当時のギタリストの方、すごい見た目がいかつくて、バッと振り返るんだけど、吉村さんだから何も文句言わなくて(笑)」
ギターを弾きながら後ろを向くジェスチャーを添え、臨場感たっぷりに様子を語る。
「…けど、めちゃくちゃいい音になったんですよね」
ほれぼれとした表情で思い出す。とはいえ、やり方が破天荒すぎる。さすがは「ジャイアン」といわれるだけある。
「最初に会った時はとても優しかったんですけどね。親しくなるにつれて、どんどんジャイアン気質が出てきて」
ぶっ飛んだ行動に出る吉村の姿を頭に浮かべ、図らずも頬が緩む。それはただ傍若無人というわけではない。
「ジャイアンの時も優しいんです。そんな吉村さんが好きでした。居心地がいいというか、めちゃくちゃ面白いんです」
そんな吉村に、もしまた会えるなら一緒にギターを弾きたい。その思いは、いつまでも胸の中にある。
「ただ一緒に曲をやるんじゃなくて、ずっとずーっとアンプいじりながら、いい音出して…最高の音を作りたいですね」
遠くを見つめながら、そうつぶやいた。
お兄ちゃん以上、親未満の存在
── SLANG KO
これまでの取材の中で、たびたび登場した「ジャイアン」というワード。後輩から見た吉村の姿は、どのようなものだったのだろうか。
浅野の話にも出てきたブッチャーズの後輩、SLANGのボーカル・KOに尋ねる。
「ほんとにジャイアンそのものだったけど(笑)、すごい繊細で寂しがり屋でしたよ」
吉村の性格をそう振り返るKOは、15歳の時に前身バンドの「畜生」と出会った。
「吉村さんがブッチャーズ始めるぞ!」
うれしいニュースを耳にし、ライブハウスへ駆け付けた。1986年11月に札幌で行われた、ブッチャーズのデビューライブだ。
「そのライブがすごい衝撃的で、『ずっと札幌でバンドやっていこう』と決意しました」
特に衝撃を受けたのは、吉村が鳴らすギターのメロディー。何度も吉村に弾き方を尋ねたが、絶対に教えてくれなかった。
「見て覚えろ!」
そう言われ、2年ほどブッチャーズのローディーをやったこともある。
密に付き合いを続けていた2人だが、後輩として吉村と過ごした中で、型破りなエピソードもあったのだろうか。
「俺は後輩の中でもお世話になったり迷惑かけたりしたことが多い方なので、みんなが言うほど、そんなエピソードは無いっていえば無いんだけど…」
悩ましげに答える。
「あるっていえば毎日がそんな感じだったので…上手く言えないですね(笑)」
印象深いのは、吉村にモーニングコールを頼まれた時のこと。
「今日はスタジオだから、俺は職場で寝てるから起こせ」
言われたとおり、公衆電話から何度もかけた。所持金はたったの150円。なけなしのお金を全て使った。
「全部ガチャ切りするんですよ。で、後で『お前なんで起こさないんだよ!』とか(笑)。そんなのばっかりです」
浅野から聞いた、SLANGのライブへの「乱入事件」についても聞いてみる。するとKOは、全く意に介さない様子で笑う。
「『俺がオリジナルメンバーだ!』ぐらいに思ってたんだと思います(笑)」
実は吉村は、正式にボーカルが決まるまで、SLANGのボーカルを務めていたのだ。
勝手に音を変えられたところで、そんなことは話にも上らない。それほど、メンバーからも受け入れられた存在だった。
もちろん、吉村の優しさを感じる思い出も多い。18歳~19歳の頃には、ソーセージを焼いて食べさせてくれた。
吉村自身もあまりお金がなく、苦しい時期だった。塩こしょうを振っている時には「ケチャップじゃないの?」「贅沢言うな!」なんて話をした。
ばくばく食べている間も、吉村は全然ソーセージに手を付けない。全部食べ終わる頃に「食べないの?」と吉村に尋ねる。
すると吉村は怒って答えた。
「ばか!俺、猫舌だ!」
それは吉村なりの優しさだったのか、本当に熱くて食べられなかったのか、いまや確認する術はない。
生前の吉村と最後に会ったのは、亡くなるわずか半月前の2013年5月11日。ブッチャーズとSLANGの2マンライブが行われた日だ。
「あれは本当に僕の中でも一つの目標だったし、一つの区切りだったんです」
「吉村さんも、僕らを誘ってくれたことの意味合いって、普通の2マンとは全然違ったと思いますよ」
ライブを顧みる。あの日は積もる思いが溢れすぎてしまった。それは鉛のようにずっしりと、心に残っていた。
「もう1回やりたかったです。純粋に全力でもう1回やりたかった」
しかしこれが、ブッチャーズとして吉村がステージに立った最後の日となってしまった。
「あの人との出会いがなかったら絶対に今の僕はいなかった」と、何度も公言しているKO。いまだに吉村の死を受け入れられない部分もある。
「いつまでもそれじゃダメなんですけどね…もっと恩返ししたかった」
言葉に、悲しみと後悔がにじむ。10代の頃から慕ってきた彼の全てに影響を受けた。
「僕は不器用なので吉村さんの真似はほとんどできなかった」
「eastern youthの吉野(寿)くんはギターのスタイルとか『全部、吉村の真似!』って言い切ってましたけど、僕の場合は育ててもらったって感覚の方が強いです」
前身バンドの畜生からCHERRY BLOODを経てのブッチャーズ。そして怒髪天とスキャナーズ(後のeastern youth)。
尊敬する3バンドから、特にフロントマンの吉村、増子直純、吉野から三者三様に、多大な影響を受けた。
「誰が欠けても今の僕はなかったと思うけど、吉村さんは家も近所だったし、よく一緒に帰ってた。帰り道とかで何気なく交わす会話がね…」
少しの沈黙。吉村が「なぜ評価されないんだ?」思い悩んでいた姿を想起する。そこからまた新曲に取り組んでいく姿は、今でも忘れられない。
「後輩って立場から、喜怒哀楽いろんな姿を見てきました。『お兄ちゃん以上、親未満』って本気で思ってましたから」
寂しげに、帰らぬ人への思いを明かした。
演奏は勝負。無言で戦い、許し合ってきた
── bloodthirsty butchers 射守矢雄
最後は、ブッチャーズのメンバーとして、そして親友として、吉村と共に過ごしてきた射守矢に話を聞く。ずっと横で見つめてきた彼は今、どんな思いを抱えているのか。
「僕の中では続いてるんですよね。吉村は常に頭の中にある存在だから『あ、5年なんだな』『もうそんな経ったっけ』っていう感じ」
射守矢が転校生として北海道・留萌市の小学校にやってきたのは6年生の時。クラスは違ったが、課外活動をきっかけに吉村と知り合った。
「吉村は出会った頃からああいう見てくれで、体がでかかったんでね、目に入りますよね」
小学生時代を思い出し、笑みがこぼれる。しかし、すごく仲良くなって、常に2人でつるんでいたわけではなかった。
「同じグループの中、友達の輪の中に常にいるっていう感じで」
「僕と吉村は、近からず遠からず、ギリギリでバランス保ってるような関係性だったんで、バンドがなかったら友達にはなってないかもしれない」
2人がバンド活動を始めたのは、中学2年生の頃。40年近く前の田舎に、ギターやベース、ましてやドラムセットを持っている人は少なかった。
楽器を持っていた面々が自然と集まってバンドを結成した。その後、メンバーやバンド名が変わりながらも、2人は共にバンドを続け、ブッチャーズの活動が始まった。
ドラマーの小松正宏が加入し、活動を重ねていくうちに、だんだんと真剣度が増していく。
「吉村はちゃんと『バンドをどうしていかなきゃいけない』とか、『良くなっていくためにするべきこと』とか、考えてたと思う」
「僕は昔っから『演奏できればいいや』みたいに、あんまり踏み込んで考えないタイプでした」
バンドをやる上でのスタンスにおいて、2人の間にはずっと温度差があった。うつむきながら関係を明かした後、ふと顔をあげる。
「だからこそ『吉村がオフィシャルで発信したことはバンドの意志だ』っていうのが自分の中にあって」
はっきりとした口調で語られる射守矢のポリシー。真っすぐ前を見据えたその目は、確固たる思いを感じさせる。
「後々になって『吉村はあんなこと言ってるけど、俺は本当は違うんだよ』とか、そういう話は絶対にしないんです」
バンドというものに真摯に向き合い続けてきたブッチャーズは、「日本のオルタナシーンの先駆者」と評される存在となった。
彼らにとって、音楽を作ることは「勝負」だった。
「必死にやってましたよ。『アイツらがああやって弾いてきたから、俺はこうやってやってやる!』みたいに、演奏で勝負するというか」
「『適当に合わしときゃいいんでしょ』とか、そういう作り方は一切してないですね」
音楽でぶつかり合ってきた3人。その関係はとにかく絶妙なバランスの上で成り立つものだった。
「3人で続けてきて、後半の頃はガチャガチャな状態でしたね(笑)」
苦笑いを浮かべて明かす。そんな中、変化が訪れた。田渕ひさ子の加入だ。
「チャコちゃん(田渕)っていう存在があって、ちょっと安心するところはあったんですよ」
田渕の存在がクッションとなり、3人の関係を和らげてくれた。サウンド面に関しても、どんどん良くなっていく実感があった。
変化しながらも、吉村の圧倒的な存在と共にあり続けたブッチャーズ。中でも射守矢と吉村の関係は特別なものだった。
吉村の奔放な振る舞いに、人から「ブッチャーズやめろ。あんなの付き合う必要ない」と言われたこともあった。それでも射守矢は、吉村の隣に居続けた。
「学生時代、彼に精神的な部分で2回救われたことがあって。その思いがあるから、何があっても付き合えたっていうところはあるんです」
「それに、彼の弾くギターが好きだったんですよね」
共に切磋琢磨して、無言で戦ってきた。お互いに演奏で許し合ってきた。そうやって積み重ねてきた歴史を思い返し、ふっと口元が緩む。
「俺のことをベースで生かしてくれた。『吉村のギターがあるから生かされてるな』ってずっと感じてました」
吉村への思いは、バンドメンバーとしてのものだけではない。むしろ、幼なじみとしての思いの方が強い。
しかし、それをインタビューで語ることはない。それは「公の場ではバンドの一員として答えたい」という射守矢の信条に基づく。
「昔からずっと『ようちゃん、ようちゃん』って呼んで育ってきたんですけど、公の場では吉村って呼ぶように意識していて」
一呼吸おき、力強く話す。
「吉村はバンドの顔なんで、立てるところは立てる、っていうのがメンバーの役目だと思う」
吉村の死後、ブッチャーズのメンバーはどんな思いで、この5年間を過ごしてきたのだろうか。
そう尋ねると、射守矢は目を伏せ、手元にあったハンカチをキュッと握りしめる。
「吉村に対して、メンバーそれぞれ違う思いがあるでしょうけど、僕にとっては代わりのない、ずーっと足かせのようについて回る存在」
「そこまで背負い込まなくてもいいんじゃねぇのって思われるかもしれないけど…」
握った手に、さらに力を込めて自らの感情を吐き出す。
「ブッチャーズや吉村っていう存在は、僕の中ではやっぱどうあがいても常に頭の中にある、どうしようもない存在なんですよね」
一方で、田渕と小松の2人には、そんなふうには考えてほしくないと明かす。
「こんな思いは俺だけでいいかなって。でも、俺ぐらいはそうやって思っててやんなきゃ、ようちゃん可哀想かなって(笑)」
ずっと「吉村」と呼んでいた射守矢が最後の最後、ポロリと発した「ようちゃん」の名に、こらえていた彼の思いが見えた気がした。
【取材・文=奥村小雪(LINE NEWS編集部)、撮影=大橋祐希、動画編集=滝梓】
「わがままに生きてわがままに死んだ」死去から5年、愛すべき吉村秀樹という男(前編) はこちらから。