「何か欠けていて、抜けていて、足りていない。それが俺の人生なんです」――。CHAGE and ASKAとして「SAY YES」「YAH YAH YAH」などのヒットソングを飛ばし、一躍時代の寵児となったChage(63)。今はシンガー・ソングライターとして活動し、音楽道を極め続けている。喜び、楽しみ、悲しみ、怒り……。さまざまな経験や紆余曲折を経て、Chageがたどり着いた境地とは。(取材・文:宗像明将/撮影:今井俊彦/Yahoo!ニュース 特集編集部)
受難の先 たどり着いた「欠けている面白さ」
ここ数年のChageは、荒波に揉まれ続けているといってもいい。それなのに、Chageの発信はいつでもポジティブだ。その秘訣を聞くと、ラジオやライブのMCでならした軽快な口調とともに、こんな話を聞かせてくれた。
「昨日、ちょっと泳ぎたいなと思って、ゴーグルと水泳キャップと海パンをプールに持って行って。50メートルある施設なんだけど、50メートルってとんでもないね。行けども行けどもたどり着かないから、まるで俺の人生のようだなとか思いながら(笑)。もう自分で笑いながら、途中でもうおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に歩いたりしてたんですけど、上がるときにバックをのぞいたらタオルがないんです。どうするかな、困ったなと。で、天気が良かったから、天井がガラスで日光がパーっと差すんです。しょうがないですから、日光浴してました。『俺は亀か?』と思いながら(笑)。ある程度乾くまでずっとウロウロして(笑)。だから、これが俺の人生なんです。面白いんです。何か抜けてるんです。欠けてるんです。足りないんです。だから、面白くてしょうがない、自分自身が」
「拍手ってあったかい」コロナ禍で見出した 新たな音楽観
そんなポジティブなChageも、コロナ禍で落ち込んだ時期はあったという。コンサートもできない日々。しかし、そんなChageを勇気づけたのは、感染症対策を施して開催したコンサートでのファンの反応だった。
「コンサートで集まっちゃいけないって言われて、ちょっとうつむいてしまいました。お客さんがいないと成立しないと思ってたわけで、俺たちにとってはもう死活問題なわけじゃないですか。だからちょっと凹んだんです。でも、今年の夏もライブをさせてもらったんですけど、お客さん側はマスクをしてらっしゃるんです。大声で声を出しちゃいけないんです。お客さんを半分にして、ソーシャルディスタンスを取ってもらった。『これで本当にお客さんは喜ぶのかな?』とリハーサルをしながら思ってたんですけども、関係なかったです。来てくれたお客さんは生音に酔いしれる。お客さんの顔はマスクで半分見えないんですよ。でも、ものすごくキラキラしてるのが伝わってくるし、その答えが拍手なんです。この拍手の尊さ。拍手って、たぶん人間が誕生してから一番最初の喜びの伝え方なんだろうなというのを感じました。こんなに拍手ってあったかいんだ、って」
その拍手は、還暦を迎えて価値観も変わってきたChageにとって、大きな励みになったという。
「若いときは野望があって、それこそ『てっぺん目指したい』とかもありましたし、そのためにも頑張ってきたわけです。それを成し遂げると、じっくりと時間をかけて、お客さんと一緒に長く聴けるような楽曲を作っていきたいなと、価値観が変わってきたんです。同じ音楽でも、消耗品にしちゃいけない音楽を。それでお客さんがいいって思ってくれたものと重なったときに素敵な拍手をいただける。これはもうミュージシャン冥利に尽きますね」
特大ヒットでスターダムにのし上がった90年代
CHAGE and ASKAがリリースした1991年の「SAY YES」、1993年の「YAH YAH YAH」がともに200万枚以上のメガヒットを記録した90年代を、Chageはこう振り返る。
「プライベートで制限を掛けられちゃって、あんまり飲みに行くこともできなくなって。僕はこそっと行ってたんですけど(笑)。一応おとなしくしてろ、いろいろうるさいからみたいなことも言われてて、ツアーでもホテルから出ちゃいけない時期もあったんです。ワンフロアを貸切るんです。ガードマンがいるんですよ、エレベーターに。コンビニも行けねえじゃん、みたいな(笑)」
「世の中が振り返ってくれた」
Chageが「一番仕事した時期」と振り返る80年代より、さらに勢いが加速した90年代。
「『SAY YES』から急にグラフが急上昇したんです。世の中が振り返るみたいに。でも、俺たちはずーっとライブをやっていて、急に売れたわけじゃないと。これはライブを10年間やった成果なんだ、ご褒美なんだと思ってました」
ライブ会場もホールでは収まらずに、アリーナでも開催されていくが、そこにプレッシャーは一切なかったという。
「レコーディングのストレスがたまったのを全てステージで発散さしてました。まあよく働きました、動いてました。昔の映像とか見るんですけど、『今、やれ』って言ったら無理です。キレッキレのダンスとかやってたんですよ。まあ無理だね(笑)」
00年代もソロ活動と並行して駆け抜けたCHAGE and ASKAだが、2009年には無期限活動休止となる。
「お互い、もうその頃はソロを確立しようとして、それを突き詰めようとしてる時期だったので全く不自然じゃなかったです。またいつか当然会えるだろうという気持ちでそういうふうにソロ活動に入っていったんで、僕もソロに没頭していくことができたんです。お互いソロ活動を経て、また得たものが合わさっていけばいいかなという気持ちでしたから、ずっと」
「青天の霹靂だった―」7年前のあの日
2014年、Chageにとって思いがけず大きな事件が起こった。
「もう映画のような、小説の世界のようなことが起きちゃうんだと。青天の霹靂っていう言葉は、こういうことのためにあるようなもので。冷静に考えて、ぱっと浮かんだのはファンの方たちの顔。『ここで俺がふさぎ込んでもしょうがねえな』っていうのはものすごくありました。ファンの子にもつらい思いをさせちゃったわけです。ファンの子と一緒になってちょっと世の中のバッシングに受けて立とうかな、俺とファンが一緒になってテトラポットになって受け止めようじゃねえかと。あのときファンの方のと一緒になって喜怒哀楽を感じて、お互い良かったね。ファンの子に対してもそうだし、向こうもそう思ってくれてるみたいだし。やっぱ、これはもうお互いさまっていうことで。逃げるわけじゃなく、それをどうやったら耐えていけるかっていうのを学んだ気がします」
僕には音楽しか残っていない
音楽をやめる気は毛頭ないと笑い飛ばす。
「だって、もう音楽しか残ってないもん(笑)。これを取り上げられたら、僕、途方に暮れちゃいますから。もうとにかくやっぱりお客さんの前に立つこと、歌うことが最大の喜びだっていうのを今、実感してますから。どんな状況であっても、自分がステージに立ってパフォーマンスをする喜び、できる喜び。そのために体力を付けてプールでも行こうと思ったから、あれですから(笑)。なくしたのがタオルで良かったわ(笑)」
そしてまた、こう軽妙に笑わせるのだ。
「やっぱりとどのつまりはやっぱChageっていう名前だよ。こんな名前いねえよ(笑)。こんなふざけた名前付けるの、若いうちはまだいいよ。60過ぎてChageって言われてもね、って思うから(笑)。ニックネームだったのが、ずーっとこれが付いて回るっていう。これが俺の人生なんです、計算通りいかないっちゅうかね。ほんとに。何かがとにかくずれるんですよね。ちょっとずつね(笑)」
Chage(チャゲ)
1978年、高校時代からの友人のASKAの誘いで「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に出場したことがきっかけで、1979年にはチャゲ&飛鳥として『ひとり咲き』でデビュー。1980年にはチャゲ&飛鳥の『万里の河』、1984年には石川優子とデュエットした『ふたりの愛ランド』がヒット。1989年にはMULTI MAXとしても活動を開始。CHAGE and ASKAの1991年の「SAY YES」、1993年の「YAH YAH YAH」も大ヒット。ソロ活動では、11月24日に『Chage’s Christmas~チャゲクリ~』をリリースし、12月9日からはトーク&ライブイベント「Chage 2021 Winter Event~チャゲクリからの・・・ハッピー細道~」を開催予定。