「生活が変わるかもってわくわくしちゃったんです」。2011年3月11日14時46分──。宮城県石巻市の小学校で、巨大な揺れのなかで少女はそう思った。しかし、現実は彼女の想像を遥かに超えていた。「津波が来るのをまったく想像しなかったし、地震で家が壊れることも――」。揺れの約30分後には、自宅がある女川町を黒い濁流がのみ込んだ。人付き合いが苦手だった少女は、ももクロを通じて知った災害放送局でパーソナリティーを始めた。あれから10年、小学6年生だった少女はいま22歳。仮設暮らしで一度は町を離れるも、また女川町で暮らし始めた。大人になった「少女」のいまを追った。(取材・文:宗像明将/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
地震の非日常感に「生活が変わるかも」
「小学生時代から学校に行きたくない人だったんで、その非日常感に、生活が変わるかもってわくわくしちゃったんです。地震で、何か自分にとって違う方向に行くのかな、って。その後、津波が来るのをまったく想像しなかったし、地震で家が壊れることも想像してなかったんです」
2011年3月11日の東日本大震災の地震発生当時、宮城県石巻市での震度6強の激しい揺れの中で「わくわくした」と振り返る阿部こころさん。小学校卒業間近の12歳、教室の机の下でのことだった。
「生活が変わるかも」と考えたのは、当時、日常生活で鬱屈を抱えていたためだ。
「私、発達障害があるんで、ちょっとでも自分が不快になると、すぐパニックを起こすような子どもで。友達のちょっとした言動で傷ついたりして、『学校嫌だ、行きたくない』っていうのが、震災前から日々あったんです」
自宅があった女川町は、建物の被災率は89%、住民の12人に1人が亡くなる甚大な被害を受けた。こころさんは現在も津波の映像を見られない。
「自分の町ではないと信じたいし、自分の町だと思えなかったですね。『なんでこんな水来てんの』みたいな。買い物とか、普段の生活でなじんでた町中が、なんでこんなことになってんだろうって」
震災当日の朝に女川町の自宅を出てから約4年間は、両親の職場のある石巻市での避難生活を余儀なくされた。
「津波の直接の被害はなかったんですが、地盤沈下のため毎日満潮のときに家が水に浸かって、住めない状態でした。父が会社の車で自宅に戻って、『これだけは絶対に持ってきて』ってリストアップした物だけ持ってきてもらいました」
4月に石巻市の中学校に進学し、同年9月には同市の「みなし仮設」に入った。
「その当時なりに、明るいつもりで生活はしてたんですけど、ときどき『女川に帰りたい』って泣いてました。両親の前で泣いたこともあって。私が泣いてなければ、たぶん別の場所に住んでたと思うんです。小学4年生のときに、石巻から女川に引っ越して、小学校はずっと石巻のままだったんですけど、女川はわりと伸び伸びと暮らせる場所だなと感じてて。そのときは学校が違ったから、みんな私のことを知らないっていう無干渉が過ごしやすかったのかな。人が多いのが苦手なので、石巻から出たいのもあったのかもしれません」
自宅が再建され、ようやく女川町に戻ったのは2015年10月のことだった。
女川町に来るももクロに救われた
自宅が再建された年の6月。こころさんは震災後に女川町に開設された臨時災害放送のラジオ局「おながわさいがいエフエム」の高校生パーソナリティーに応募し、採用された。「みんな私のことを知らない」からこそ過ごしやすい。そう話していた小学生時代の彼女はもうそこにはいなかった。
「被災して時間が経つうちに、家族で利用していた町内の飲食店の人や、スーパーの店員さん、ご近所の人など、自分に声をかけてくれた人の顔が思い浮かんで。『私は地域の一員だったんだ』と実感して、『女川が大好きだ』という気持ちが湧いてきました。そんな大好きな町をつくっていく一員になりたいな、って。そのときTwitterで知った高校生パーソナリティーという役割なら、って思って」
おながわさいがいエフエムは、ボランティアの手で2011年4月に開設された。当初は避難生活者向けの情報を放送していたが、こころさんが参加した2015年は、町の復興も進んでいた。新たな店舗や施設がオープンするたび、現場に出向き、町の人々の声を拾った。人との関わりが苦手なはずの彼女にとって、見知らぬ人と話すことは、苦痛ではなかったのだろうか。
「大変でした。いまも大変です。町内外の方にお話をうかがう際は『私、見当違いな質問をしていないだろうか』などすぐ心配になり、あらかじめ決まった質問以外聞くことができなくて」
それでも、活動を通じて自分の名前が知られていくにつれ、彼女の心境にも変化が生まれた。
「日曜日に『おながわ☆なうサンデー』っていう高校生の番組があって、ほぼ毎週出て。友達がたくさん増える感じで嬉しかったです。『今日はこの人と知り合いになれた』とか『今日もこの人と話せたな』とか、信頼を築けてる感じが嬉しかったですね。苦手ではあるけど、それができたら嬉しい。周りの支えもあり、『こころちゃんだよ』って紹介してもらって」
女川町をたびたび訪れた「ももいろクローバーZ」との交流も彼女の支えになった。
ももクロは、おながわさいがいエフエムの高校生パーソナリティーの存在を知り、被災地で頑張る同世代を応援したいと女川町を訪れるようになった。高校生パーソナリティーとなったこころさんも、女川町を訪れたももクロと対面する。
「2015年9月です。『嘘でしょ、目の前に顔のちっちゃい、好きな人たちがいっぱいいる』って思ったし、『こんなにかわいい人たちが目の前にいる、嬉しいな』って思いました」
ももクロは、おながわさいがいエフエムに何度も出演。こころさんとも交流を深め、ももクロの「お友達」として、「モノノフ」と呼ばれるももクロファンの間でも名前が知られていった。
「ももクロちゃんが女川に来るときは、『じゃあ私も、もうちょっと勉強頑張ろう』とか『エフエムで立派に話せるように頑張ろう』とか、意識しました。救われましたね」
女川町にいるから私でいられる
おながわさいがいエフエムは2016年3月に閉局した。
「女川の人たちのためになりたいって私が入ってから1年も経たないうちに閉局しちゃうのは、これから私ができることってあるのかなって、自信がなくなっちゃいましたね」
しかし、こころさんはその後も、おながわさいがいエフエムから放送局を移して続く番組「佐藤敏郎のOnagawa Now! 大人のたまり場」(東北放送TBCラジオ)に出演中だ。4月からは同局の「元気です。女川~復幸RADIO~」にも出演する。おながわさいがいエフエムに関わる前には、高校でも不登校になったものの、4年かけて卒業。当初は石巻市の大学に通学していたが、現在は通信制の大学に転入し、経営や図書館司書の勉強をしている。
「200人、300人といる教室で授業を受けるのが、なんとなく苦痛だったんですよ。息苦しいし、ざわざわした雑音で、ちょっと苦しくなるし。でも、勉強したい気持ちはあったので、通信に行ったんです」
女川町は官民一体となって急速な復興を遂げ、こころさんが女川町に戻った2015年には、津波で流された女川駅が復活。駅前のプロムナードも整備されていた。女川町の復興の早さの理由は、「60代以上は口を出さず、50代は口を出しても手を出さない」という住民の方針で、若い世代に任せてきたところも大きい。こころさんも含め、自分たちの世代が将来的に女川町を継ぐという意識は強い。
「いまだって、政治はおじいちゃんで回ってるじゃないですか。だから、女川町から若い人たちが町づくりをしていくフェーズに変わるんだ、それはすごいいいことだと思ってたんです」
震災から10年、こころさんはラジオやイベントでも、震災の当事者としてその経験を語ってきた。しかし、震災を伝えたいという気持ちは実は強くはないという。
「震災伝承の活動は、自分もつらくなるし、あんまり向いてないなとは思うんです。ただ、自分だから発信していけることもあるのかなと思いつつやってますね。震災が起こったときの記憶が、悲しくも、だんだん薄れていってるので、うまく伝えられなくてつらいっていうのもあります。そのときの感覚、感情、思いを、いま、大人になった自分が言葉にしようとしても、それは正しくなくて、ちょっと色がついちゃうと思うときもあるんです」
震災から10年が経ち、12歳の小学生だったこころさんは、22歳の大学生となった。本人は「元気がない」と冗談めかすが、落ち着いた口調は、彼女が大人になったことを物語る。
「私たちは被災者ではあったし、町もなくなっちゃったし、生活も変わっちゃったけれど、ここで生活してるんだよ、ここでこれからも生きていくんだよ、っていうのを伝えたいですね。もう復興したんだよ、いまは元気ですって。町内には、まだ立ち直れない人もいると思うし、私も親戚が震災で亡くなってつらいときもあるんです。それでも私たちはここで生きていくし、頑張って生きてるんだよ、って。被災者をすべて悲しいものだと思わないでほしいっていうのもあります。テレビを見てると、どうしても被災者は、家族を亡くして悲しい、っていう話ばかりだし、そういう一面だけが映ってしまうんですけど……難しいですね。それでも私たちはここで生きてます、って」
大学を卒業しても女川町にいたいかと聞くと、「もちろんです」と即答した。夢は子どもたちの居場所をつくることだ。
「私が学校が苦手だったっていう経験もあって。子どもって、家庭と学校がすべてじゃないですか。だから、その逃げ場所、第3の子どもの拠点をつくりたいんですよ。『学校にも家庭にもいづらかったら、こっちに遊びに来な』っていう場所をつくりたいんです」
かつてのこころさんは、自分を知る人の少ない女川町が好きだった。しかし、知り合いが増えたいまも、生きづらくはないという。復興後の女川町は、彼女にとって「居場所」になった。
「いまはちょっとだけ考え方が変わって、『あの人がいるから生きたい、あの人に会いたいから生きたい』という考えのほうが増えてきましたね。震災が起きて、時間も置いて、今はもう20歳も過ぎて、自分はちょっと成長したのかなっていう気持ちです」
そんなこころさんも、いつか好きな相手ができて、女川町を離れる日が来るのだろうか。そう聞くと、「町内とかで、なんかいい人いないかな」と笑うのだ。
「女川から離れることは想像するんですけど、離れたとしても、石巻どまり。やっぱり女川とは関わり続けていたいし、県外に行くなんて考えられない。女川町にいるから私は伸び伸び過ごせてるし、私でいられるんです」
阿部こころ(あべ・こころ)
1998年宮城県石巻市生まれ。2008年に石巻市から女川町に移住。2011年の東日本大震災により石巻市に戻り避難生活を送る。2015年におながわさいがいエフエムに高校生パーソナリティーとして参加。閉局後も、一般社団法人オナガワエフエムのパーソナリティーとして「佐藤敏郎のOnagawa Now! 大人のたまり場」(東北放送TBCラジオ)に出演中。