はっぴいえんどやYMOでの活動、松田聖子の「ガラスの林檎」「天国のキッス」をはじめとする歌謡曲への楽曲提供――。細野晴臣(74)は、間違いなく日本のロック、ポップスの歴史を生みだしてきた巨人だ。しかし、本人は意外にも「『誰が聴いてるんだろう?』と思って、何十年と非常に孤独な作業をやってきた」と振り返る。終戦の2年後に生まれ、「文化的な背景は確実にGHQの洗脳」と語る細野が、アメリカでも支持される理由、そしてコロナ禍で感じた「分断」とは。(取材・文:宗像明将/写真提供:ギャガ/Yahoo!ニュース特集 オリジナル 編集部)
YMOで自分が前に出ていくつもりはなかった
「僕の音楽は、シティーポップじゃないし、J-POPでもない。『誰が聴いてるんだろう?』と思って、何十年と非常に孤独な作業をやってきたわけです。インターネットができる前なんて、もう本当に人がどう思っているのかわかんないまま、自分がいいと思ったものを作ってたんですね。それが逆に今、人に伝わっているのかなと。要するに、商業主義じゃないところで、人を喜ばせるためにというよりは、自分が好きなものをやっていたんで、逆にそれがいいのかなと」
現時点では細野にとって最後の海外公演となった2019年のアメリカ公演での熱狂を、そう振り返る。細野は、1969年に大瀧詠一、鈴木茂、松本隆と「はっぴいえんど」(当初の名前はヴァレンタイン・ブルー)を結成し、日本語ロックを生みだしたひとりだ。さらに1978年にはYellow Magic Orchestraを結成し、日本にテクノポップブームを巻き起こした。そのYMOでは海外公演も行い、細野のソロ作品は今も海外で高く評価され続けている。それなのに、本人は「誰が聴いてるんだろう?」と思いながら活動してきたというのだ。
「YMOに関しては、自分が前に出ていく気持ちはなかったんですけど、結果的にひとりひとりのキャラクターが出ていくことになっちゃって、それは予想してなかったんですよ。YMOという匿名的な、記号化された商品を出すつもりで作ってたんです」
ところが1983年のシングル「君に、胸キュン。」のMVでは、YMOは歌いながら踊り、アイドルさながらにもなっていく。
「まぁ、経験としてはいいんですけどね。2回は経験したくないっていう感じです(笑)」
はっぴいえんどの「風をあつめて」という1971年の楽曲は、今年『うみべの女の子』という映画の挿入歌になったが、細野は「へえ、知らなかった」と言う。はっぴいえんどは現在もサブスクで若者にも聴かれ続けている。
「3年ぐらいしかやってないバンドですよ。何十年か経って、もうすっかり忘れてたところに、なにかモヤモヤッと、はっぴいえんどが追っかけてくる気配を感じてね。やっぱり3年ぐらいといえども、真剣に作ったからだろうと。全力を出して……まあ全力が出たかどうかわからないけど、松本隆は全力を出したと思うし、『風街ろまん』(1971年)っていう、いいアルバムが完成したと、みんな思ったわけですよ。そこで燃え尽きちゃったというか、解散しちゃった。まあ1枚おまけ(解散決定後の1973年に制作された『HAPPY END』)がありますけど(笑)」
約2年、ギターに触れることもなかった
コロナ禍、細野もまた出歩かない日々を過ごしていた。夜の街の様子を見るために自動車を運転すると、人のいない東京の風景があったという。約2年、ギターに触れることもなかった。
「なんかそっちに気が向かなかったですね。音楽を自分で作ろうとは、あんまり思ってなかったですね。そういう時期があることも、わりと僕には普通のことですね。部屋に戻れば、あんまり音楽も聴かないですしね」
細野の目には、コロナ禍で世界が全体主義に向かっているように映っていたという。アクリルのパーテーション越しに、タバコの煙をくゆらせながら細野が笑う。
「僕はご覧のように、喫煙者なんで、もうずいぶん前から迫害を受けてるわけですよ(笑)。そのときから、『ああ、全体主義っていうのはこういうもんだろう』と、ずっと感じてました」
1947年生まれで、1964年の東京オリンピックを体験した世代だ。今年のオリンピックとは、日本の雰囲気そのものが大きく異なっていたという。
「64年はね、国民がわりと正常な感覚でオリンピックを迎えたと思うんですよ。僕の父親がオリンピックにのめり込んでましてね、記念品を買ったり、開会式に連れていってくれたりね。選手もがんばったし、記録映画も良かったし。失ったものもあるけど、でも、みんな楽しかったと。まだ成長期の名残があったり、そういう時代背景があったんだと思うんですよね。でも、このご時世でのオリンピックっていうのは、やっぱり非常に無理があったんだろうと思うんですよね」
2021年のオリンピックでは、かつて一度認められたものが倫理上の問題で否定される「キャンセルカルチャー」がクローズアップされる事態にもなった。細野も、時代の情勢を意識して、ラジオでローズマリー・クルーニーというシンガーの「家へおいでよ」という曲を流す際には、「キャンセルカルチャーも恐れず」と一言入れたこともあった。「家へおいでよ」には、娼婦の歌だという批判もあるからだ。
「ロンドンのネットラジオが僕の番組を流してるんですよ。だから、日本だけだったらまだしも、外国の情勢を配慮しないといけないんですよ」
このままキャンセルカルチャーを意識するのだろうか、それとも本当は無視したいのだろうか。
「なるべく真ん中を行きたいんですよね。どっちかに偏らずに。その代わり、どうしても自分で道を選ばなきゃいけない。その結果、圧迫されるのは自分だろうなと思うんですよね」
アメリカ公演はお礼参り
故・長谷川博一が著した『追憶の泰安洋行』という書籍の中で、細野は自身について「文化的な背景は確実にGHQの洗脳」とまで言い切っている。映画『SAYONARA AMERICA』は、そんな細野によるアメリカ公演を記録した作品だ。
「なんかこう、お礼参りというか(笑)。GHQの洗脳もあるけど、それはいい面もあったわけでね。いい音楽に出会えているっていうことは、非常に得したことだと思います」
ほんの2年前に撮影されたドキュメンタリー映画だが、コロナ禍の2021年に見ると、遠い昔のようにも感じられる。
「アメリカ公演は、お客さんも入って喜んでくれた。で、日本に帰ってきたら、こういう時代になっちゃったと。そこにピリオドを打つしかないんですね。音楽を聴かなくなっちゃったしね。だから、あの映画を監修するときに、そういう気持ちでまとめたんですよね。『タイトル、何にしましょう?』と言われて、『SAYONARA AMERICA』と、すぐ決めちゃったんですよね」
『SAYONARA AMERICA』とは、はっぴいえんどの『HAPPY END』の収録曲「さよならアメリカ さよならニッポン」に由来する。
「あのライブは、人々も自由だったし、マスクもしてなかった。でも、こういう時代になって、もう今、コミュニケーションがしづらくなってるわけですよ。簡単に海外にも行けなくなっちゃったし。分断は確かですね」
今、みんな内向的な音楽になっている
細野が自身の音楽制作を「非常に孤独な作業」と語るように、彼が多く制作した「アンビエント」と呼ばれるパーソナルな手触りの電子音楽は、国内外で近年さらに支持されつつある。
「今、非常にみんな内向的な音楽になっていると思うんです。やっぱり自分を癒やすためとか、自分が心地よくなるために作っている人が増えてるんだと思うんですね。聴く人もそうなんでしょう。それに共鳴しているんだと思うんです」
そう分析する細野の次回作はどんなものになるのだろうか。『SAYONARA AMERICA』では、音楽をやめることをやめる、という発言もあった。
「自分でも気になります(笑)。マイクロリセットというか、自分の中で白紙にしちゃったんですよ。でも、音楽はね、自分にとって唯一の表現手段ですし、唯一の楽しみなんですよ。この2年の経験が出てくるのか、これからのことが出てくるのか、ちょっとまだわからないんですけどね」
『SAYONARA AMERICA』に記録されているアメリカ公演のあった2019年まで、非常に活動的だったと振り返る。
「でも、コロナでいろいろな制約があったんで、やり過ごしていくうちに、2年が経っちゃったんです。気持ちが、ますます活動的じゃなくなっているんですね(笑)。何かスタジオで、自分の音楽ができるかもしれないんで、そっちを考えてるところですね。たぶん、そんな遠い先じゃないですね。うん、やりたいとは思ってますね。目星はついてないんだけど(笑)」
細野晴臣(ほその・はるおみ)
1947年、東京都生まれ。音楽家。1969年に「エイプリル・フール」でデビュー。1970年に「はっぴいえんど」を結成。1973年にソロ活動を開始、同時に「ティン・パン・アレー」としても活動。1978年に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛けプロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求、作曲・プロデュース・映画音楽など多岐にわたり活動。ドキュメンタリー映画『SAYONARA AMERICA』が公開中。12月22日には、『SAYONARA AMERICA』の音楽を含む『Music for Films 2020-2021』など3タイトルがリリースされる。