思わず質問することをためらった。問答無用で記者失格だったと言えるシーンが、今でも記憶に残っている。2010年10月1日、阪神はマツダスタジアムで広島に敗れV逸が決定。この日の試合前練習後、城島が見せた鬼気迫る表情に圧倒され、当時若手だった記者はただ立ち尽くすしかなかった。
マリナーズから阪神へ移籍した1年目のシーズン。強肩と巧みなリードで故障者が続出した投手陣を懸命に引っ張り、バットでも大きく貢献。惜しくも1勝差で優勝を逃したが、V争いを演じる立役者になっていた。
しかし9月20日、甲子園での巨人戦だった。果敢に三塁を狙って滑り込んだ際、左膝を押さえたまま立ち上がれなかった。何とかプレーを続行したが、明らかに故障が疑われた。試合後、翌日のナゴヤドームでのデーゲームに備え、移動する城島に取材すると、こう告げられた。
「俺の担当やったら左膝のことは聞くな。聞いても俺は言わん。試合に出てるのに、痛い、かゆいなんて言ったら試合に出れない選手、見に来てくれるファンに失礼やろ?だから聞くな」
その言葉に最初は「大丈夫なんだな」と思っていたが…様相は違った。痛めた左膝は半月板損傷の疑いがあり、“膝崩れ”と言われる症状や“ロック”がかかると、猛烈な痛みを伴う。実際に試合を見ていても、突然、座っていた城島が左膝の激痛に表情をゆがめるシーンがあった。練習中でも突然、その場に座り込むこともしばしばあった。
その内、周囲も「ジョー、大丈夫か?」となる。会社の上司に「ホンマに大丈夫か?」と聞かれても、「本人が大丈夫だと言っているんで…」と返すしかなかった。
だが10月1日、マツダスタジアムでの試合前、守備練習をしていた城島が突然、動けなくなった。トレーナーに肩をかつがれ、満足に歩けないままベンチに戻ってきた。ただならない状況に当然、報道陣も駆け寄る。そこで「左膝、だいじょ…」と言いかけた瞬間だった。鬼の形相でこちらを振り向き「何て!?」と。「いや、左ひ…」と言いかけると再び「何て!?」とすごまれた。あまりの剣幕にそれ以上の言葉が続かなかった。
そんな試合前の出来事が無かったかのように、スタメンマスクをかぶり、フル出場した城島。試合後、選手宿舎に張り付くようキャップから命じられ、ロビーで本人とバッタリ会った。笑みを浮かべながら「お前、膝のこと聞こうとしたろ?」と言われた。うなずくと「俺が何か言うと思ったか?言うわけないやろ!!プロ野球選手である限り、口が裂けても言わん」と言い残し、自室へと戻っていった。
その年のオフ、城島は左膝半月板の縫合手術を受けた。翌年、右肘の内即側副じん帯を損傷した時も、決して報道陣の前で痛いとは言わなかった。むしろ痛めた時はその事実すら隠そうとしていた。
結果的に痛めた左膝、右肘が原因となり、城島は4年契約の3年目を終えた2012年、契約を1年残して引退を決断する。担当した3年間、唯一、「痛い」という言葉を聞いたのは引退試合の時。座ったまま二塁へスローイングしたシーンを振り返り「後ろ(スタンド)から“八百長やろ!本当は痛くないやろ”ってヤジが飛んできたんですが…マジで痛かったです。明日から竿も持てません」と冗談交じりに明かした時だけだった。
あの当時、阪神だけでなく球界には故障していることを明かしながら試合に出場することが美談として語られる風潮があった。その一方でダイエー時代に王監督からたたきこまれた「プロ野球選手とは-」を、城島は頑なに守り続けた。
ファンへの思い、スタッフへの思い、そしてチャンスをもらえない選手への思いも背負って、グラウンドに立っていた背番号2。ここまでのプロ意識を見せた選手は正直、いなかった。今年からソフトバンクの会長付特別アドバイザーとして野球界に復帰した城島。あの日、マツダスタジアムのベンチ裏で恐怖すら覚えた強烈なプロ意識はきっと、次代の選手たちへ受け継がれていく。(デイリースポーツ・重松健三)
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