今、振り返るならば、多くの種が蒔かれていたのかもしれない。
2010年を最後に2年間、指揮を執ったフォルカー・フィンケ監督は、浦和レッズを去った。ただ、彼は最後の会見でこんなコメントを残してもいた。
「来年以降、とても大きな収穫をすることができるようになると思います」
“浦和の太陽”と呼ばれるまでになった柏木陽介が広島から加入したのは2010年だった。また、精神的支柱としても存在感を見せる宇賀神友弥が流通経済大学から正式加入したのもこの年だった。
フィンケ監督は、すでに実績のある柏木だけでなく、宇賀神も開幕戦から先発に抜擢。ホーム初戦となったJ1第2節のFC東京戦では、この2人のコンビネーションから宇賀神がPKを獲得。ポンテが決めて1−0と勝利した。
宇賀神はルーキーイヤーながら左SBの主力として躍動。第15節の京都戦ではプロ初ゴールをマークし、リーグ戦26試合に出場すると2得点の成績を残した。
彼だけではない。原口元気もフィンケ監督によって抜擢された1人だった。前年から重用されていた原口は経験を積み、シーズン終盤にはさらに強い個性を発揮するようになった。細貝萌もフィンケ監督のもとで自信をつけた1人である。その後、2人ともドイツに主戦場を移して活躍した、今なおしている背景を考えると、フィンケ監督は多くの種を蒔いていたことになる。
第4節のC大阪戦からチームは4連勝。第7節の川崎F戦では結果以上に、内容でチームの成熟を示した。
FW:⑪田中達也、⑰エジミウソン
MF:③細貝萌、⑧柏木陽介、⑩ポンテ、㉒阿部勇樹
DF:②坪井慶介、⑤サヌ、⑥山田暢久、⑭平川忠亮
GK:①山岸範宏
その川崎F戦は、開始7分にポンテが上げたクロスのこぼれ球を細貝が決めると、1分後には田中がエジミウソンとのワンツーから豪快なシュートを決めた。守ってはDF陣とGK山岸が相手のシュートを跳ね返し、リードを活かした巧みなゲームコントロールを見せた。そして、72分には堀之内聖がダメ押しとなるゴールを挙げ、試合を終わらせたのである。この結果には、強面な指揮官もさすがに笑みを浮かべていた。
「戦う姿勢、アグレッシブなプレーなど幾つもの要素がゲーム中に見ることができた。お互いに協力しながら点を取る強い意思も見られた。日々の練習で努力を積み重ねているからこそ、この結果が出たのではないかと思う」
ちなみに第7節の川崎戦ではホーム通算観客動員数1000万人を達成。ファン・サポーターの声援も4連勝の大きな後押しになった。
南アフリカW杯が行われたこの年、浦和からは阿部勇樹がメンバーに選ばれた。阿部はPK戦の末に敗れたパラグアイ戦を含む4試合すべてに先発出場。世界レベルを体験したことで、それを日常的に経験したいと、熟考の末、レスターへの移籍を決断。夏の移籍では、高原直泰、都築龍太も新天地を求めた。
そうした影響も少なからずはあったのだろう。前年と同様、チームは夏場に失速した。第18節を終えると11位まで順位を落としてしまう。16得点をマークしたエジミウソンの活躍で大勝したこともあったが、終盤には3連敗を喫するなど、最終的に10位でシーズンを終えた。
ホーム最終戦も神戸に0−4と敗れ、有終の美を飾ることはできなかった。だが、スタジアムは5年半在籍したポンテへの愛に溢れていた。スタンドにはスタジアム全体を一周するリボンと、彼が背負った「10」をハートで包んだビジュアルボードが描かれていた。
「……浦和レッズのサポーターを心から愛しています……一生忘れません」
たどたどしくも、一生懸命、覚えたという日本語によるスピーチが感謝の度合いを示していた。2005年途中に加入したポンテは、天皇杯をチームにもたらすと、翌2006年のJ1優勝に大きく貢献。2007年には年間最優秀選手にも選ばれた。浦和ではリーグ戦143試合に出場して33得点。チームが苦しみ、自身も最後の年となった2010年に、最多となる9得点を挙げたところに、選手としての意地や責任を感じもした。
「ロビー」の愛称で親しまれたテクニシャンは、創造性あるプレーもさることながら、人柄も含め、ファン・サポーターに愛された正真正銘の10番だった。
Jリーグ:10位
ナビスコカップ:予選リーグ敗退
天皇杯:ベスト8
(取材/文・原田大輔)
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